表現の自由はデモクラシーにとって不可欠の権利であるとしばしば主張される。しかし、表現の自由がデモクラシーにおいていかなる役割を果たしており、また表現の自由が制限されるとデモクラシーにどのような機能不全が生じるのかは決して明らかではない。本稿では、こうした問いについて考察するために、市民による表現の自由の行使こそが法に正統性を付与するという議論を展開することによって、デモクラシーにおける表現の自由の重要性を強調したR・ドゥオーキンの議論を取り上げる。彼の立場から見れば、表現を規制することによって法の民主的正統性は毀損されざるをえない。しかしながら、表現規制を批判するドゥオーキンの議論を実質的に支えている二つの概念、すなわち自律と沈黙効果は必ずしも表現規制の否定を含意するわけではない。これらの概念は、その再解釈をつうじて、むしろ表現規制を正当化するために援用することができるのである。本稿は、自律と沈黙効果をドゥオーキンとは異なる仕方で解釈することによって、表現規制がデモクラシーを掘り崩すどころか、まったく逆に、デモクラシーを支える面があると指摘する。