1988 年 37 巻 1 号 p. 69-78
虚構言語とは、「異化」によってものの実体を明視する、独自の現実認識の方法であり、そこには作家主体の「異化」する視座が反映されている。語り手とはその視座から派遣された視点であり、語りの内容を知りつくし、完結したものとして聴き手にカタチとして与える。この語り手は、しかし神的全知視点ではなく、その視点からはこのようにも見えるという相対的な認識の視点である。なぜなら現実は主観的にしか認識できないからであり、語り手は、作家の主観的現実認識を背負い、それを間接的に二次的に示す装置である。本稿では、そうした語り手の歴史と視点構造を考究し、いくつかの作品で具体的に考察した。