1999 年 48 巻 12 号 p. 49-57
太宰文学の「私」の顕著な特徴の一つは、何ものでもないが故に何ものでもあり得るという状態にこだわっているという点である。それはちょうど、何ものとも交換され得るという意味で何ものにでもなり得る貨幣に共通する性質である。貨幣はまた、その実体的な内実によってではなく、まさに貨幣として流通することによってのみ貨幣であり得るが、太宰文学の「私」が「私」であることにも実体的な裏付けがあるのではない。そういう意味でも太宰文学の「私」は貨幣的である。ここでは、そういった点を念頭に置きながら、初期太宰文学中の異色作「断崖の錯覚」について考えてみた。