日本文学
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特集・日本文学協会第 66 回大会(第一日目)〈文脈〉を掘り起こす―ポスト・ポストモダンと文学教育の課題
批評のテーブルと事そのもの
竹田 青嗣
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2012 年 61 巻 3 号 p. 27-37

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抄録

近代社会は、人々に所有関係における自由を解放するだけではなく、その感受性と審美性、ロマンと理想の自由を解放する。そのことで、近代の芸術や文化は、共同体的なエトスの表現であることを離れて、人間の個性と普遍性にまたがる性格をもつ。批評は、この事態を根拠として現われる。

キリスト教の巨大な権威が消えうせる。すると、一切のものが、自分の根拠を、主観と客観の間に探し求めざるをえなくなる。認識もそうだが、芸術もまた同様である。人々はそこに「批評のテーブル」を持ち込むことを余儀なくされる。カントを借りれば、どんな批評も主観的でしかないが、しかしそれは普遍性を要求しないわけにはいかない。近代批評が、つねにこの主観と客観のアポリアの歴史であった理由もここにある。

アレントによると、「公共性のテーブル」は、人間の個性と多様性の間に投げ入れられるテーブルであって、これが置かれると、テーブルは、「人びとを結びつけると同時に人びとを分離」させる。人々は、ここでは、多様な生活の場面に、したがって多様な価値に分かたれている。しかし公共性のテーブルでは、この多様性を何らかの仕方で結びつけようとする。ヘーゲルの「事そのもの」は、このような公共性のテーブルにおける、人々の表現と批評のゲームを意味している。ここには、近代の「普遍性」という概念の最も重要な核心が隠されている。

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