2012 年 61 巻 5 号 p. 44-54
風巻景次郎は、文学作品の政治的・社会的背景に言及することが多く、その論調はときに「外在批評」と評された。そのいっぽうで、自身の「読過の印象」から立論をはじめている場合もあり、研究姿勢にぶれを感じさせる。この疑念を解く鍵は、私小説に対する風巻の激烈な批判である。風巻は、日本に真の近代小説が存在しないと考えていた。そして、真の近代小説が存在しうる社会的条件を解明し、この状況を打破したいと願っていた。じぶんのもとめる真の近代小説の像を克明に胸にいだいておくために、みずからの感性は捨てされない。とはいえ、理想の文学の存在条件にせまるためには、社会的背景に目をむけなければならない。風巻の「矛盾」には、彼なりの一貫性があった。
理想の文学を創作するのではなく、それが生みだされるための制度設計をすること――風巻にとって、文学研究者が何をなすべきかは明確であった。しかし、「真の近代小説」こそが「理想の文学」だと、現在の文学研究者はナイーヴに信じられなくなっている。こうした状況下にあって、文学研究者の使命はどこにあるのかを考えてみたい。