日本文学
Online ISSN : 2424-1202
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61 巻, 5 号
選択された号の論文の14件中1~14を表示しています
特集・古代文学をめぐる、新たな先学との対話
  • 松田 浩
    2012 年 61 巻 5 号 p. 2-12
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    万葉集には、五十数例の「いはふ」という語が見られる。本特集の呼びかけ文にあるように、現今、万葉集のテキストも電子化され、検索機能を用いれば瞬時にその用例を並べることもできる。そのことによって、「いはふ」には「いむ」や「まつる」といった言葉との親和性があることが浮かび上がる。だが、それのみでは一つの歌になぜ「いむ」でも「まつる」でもなく「いはふ」が用いられているのか、という問題まではなかなか論じることはできない。本稿では折口信夫の鎮魂論における「いはひ」という概念に注目することによって、万葉集に見られる「いはふ」という語の表現性について考えてみたい。

  • 丸山 隆司
    2012 年 61 巻 5 号 p. 13-21
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    亀井孝の、名高いがしかし難解な論文「古事記はよめるか」の姉妹編とでもいうべき「万葉集はよめるか」について追補的考察を加える。漢字で書かれている『万葉集』や『古事記』が日本語によめるか、よめるとすればどのようによめるのか。漢語を表現する文字であるところの漢字が、日本語との対応において、どのような文字としての特徴をもつのかを明らかにしつつ、よめるとはどのようなことなのかを問いかける。

  • 島内 景二
    2012 年 61 巻 5 号 p. 22-32
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    平安時代に書かれた『源氏物語』の文体と世界観は、長く日本文化の規範とされた。ただし、新しい日本文化を創造するためには、『源氏物語』の限界を乗り越えねばならない。本居宣長の「もののあはれ」や、三島由紀夫のヤマトタケル讃歌は、『源氏物語』に欠けている荒々しい側面を「古代」としてイメージしたものである。彼らの古代に対するイメージは、『源氏物語』から作られ、『源氏物語』を守り、補強するためのものだった。

  • ――「知」と「感」の相克の背景――
    吉野 瑞恵
    2012 年 61 巻 5 号 p. 33-43
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    『源氏物語大成』に結実する『源氏物語』の文献学的な研究で知られる池田亀鑑は、『宮廷女流日記文学』においては、主情的な評論を試みており、両者は鮮やかな対照をなしている。彼のこのような二面性は、個人的な資質による面もあったが、さらに、池田が人間形成をした大正期に哲学・芸術・文学・社会運動などあらゆる領域を席巻した「生命主義」とも呼ばれる大きな潮流の影響を考える必要がある。池田という研究者は、大正期という時代の新しい流れに反応し、この時代に文学研究をめぐって浮上してきた問題を引き受けて、一生を送ったといえるのである。

  • ――文学研究再生のために、近代における〈文学〉概念を問いなおす――
    助川 幸逸郎
    2012 年 61 巻 5 号 p. 44-54
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    風巻景次郎は、文学作品の政治的・社会的背景に言及することが多く、その論調はときに「外在批評」と評された。そのいっぽうで、自身の「読過の印象」から立論をはじめている場合もあり、研究姿勢にぶれを感じさせる。この疑念を解く鍵は、私小説に対する風巻の激烈な批判である。風巻は、日本に真の近代小説が存在しないと考えていた。そして、真の近代小説が存在しうる社会的条件を解明し、この状況を打破したいと願っていた。じぶんのもとめる真の近代小説の像を克明に胸にいだいておくために、みずからの感性は捨てされない。とはいえ、理想の文学の存在条件にせまるためには、社会的背景に目をむけなければならない。風巻の「矛盾」には、彼なりの一貫性があった。

    理想の文学を創作するのではなく、それが生みだされるための制度設計をすること――風巻にとって、文学研究者が何をなすべきかは明確であった。しかし、「真の近代小説」こそが「理想の文学」だと、現在の文学研究者はナイーヴに信じられなくなっている。こうした状況下にあって、文学研究者の使命はどこにあるのかを考えてみたい。

  • ――高崎正秀の源氏物語論をたどりつつ――
    竹内 正彦
    2012 年 61 巻 5 号 p. 55-66
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    源氏物語「若菜上」巻における蹴鞠の場において柏木は女三の宮を垣間見するが、その蹴鞠は「つれづれ」を口にする光源氏によって招致されたものであった。この「つれづれ」を口にする光源氏のあり方について、源氏物語を「神の子」としての光源氏や「水の女」としての女三の宮といった視点から把握しようとする高崎正秀の諸論をたどりつつ考察し、源氏物語と対峙する高崎の論が志向するところに顕現する物語のありようを論じた。

  • 古田 正幸
    2012 年 61 巻 5 号 p. 67-76
    発行日: 2012/05/10
    公開日: 2017/11/02
    ジャーナル フリー

    〈召人〉は阿部秋生「召人」論によって、貴人と「肉体的関係」にある身分の低い女性全般を指すとされてきた。本稿はこの阿部論との「対話」を通じ、表現としての「召人」には、「召される者」の意が認められることと、身分差に基づく貴人の側の「召す」意向を想定できることとを論じた。そのうえで、とくに、阿部氏によって〈召人〉とされてきた『和泉式部日記』の親王と女の関係などは、女の側の自発的な意向が確認できる点で〈召人〉と異なり、その差異が重要であることを指摘した。

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