日本考古学
Online ISSN : 1883-7026
Print ISSN : 1340-8488
ISSN-L : 1340-8488
宮崎県都城市坂元A遺跡における水田跡の調査
桑畑 光博原田 亜紀子外山 隆之
著者情報
ジャーナル フリー

2002 年 9 巻 13 号 p. 93-103

詳細
抄録

宮崎県都城市南横市町に所在する坂元A遺跡は,大淀川の支流である横市川右岸の沖積段丘の端部から後背低地(標高147~146m)にかけて立地する。県営の農業基盤整備事業に伴って,平成12年度に都城市教育委員会が発掘調査を実施し(調査面積は約2800m2),調査の結果,縄文時代晩期後半・弥生時代・中世の各時代の水田跡を検出することができた。最下層の水田層である9c層は他の層との層位関係や出土土器から,縄文時代晩期後半に位置付けられるもので,国内最古級の水田跡である。その水田域は,西区を中心にかなり限定された範囲で検出され,水田区画はいずれも狭く不整形である。また,調査区域内において用排水路や堰などの確実な水利施設は認められなかった。地形条件や土壌環境に適応した水田であると考えられ,水利施設を完備し,整然と区画されている北部九州の同時期の水田跡とはかなり異なる構造や特徴をもっていることが指摘できる。日本列島における水田稲作のはじまりに関する研究を進めていく上で重要な資料である。弥生時代前期後半の水田跡は,縄文時代晩期後半の水田域よりもやや広がるようであり,弥生時代中期後半の水田跡はさらに,後背低地の地下水位の高い地点にも広がっている。そこから,同時期の丸杭や木製品がまとまって出土した。中でも,組み合わせ式の木製品については,刃部の形状と水田跡からの出土状況により,農具(耕起具)であると推定したが,その機能と系譜を含め検討を要する資料である。弥生時代後期末の水田跡は調査区域のほぼ全域に展開している。おおむね整然と区画された状態をみることができ,小規模な洪水によって砂に覆われながらも小畦畔や水田区画が維持されていった状況が確認できた。中世の水田跡は鎌倉時代と室町時代のものが確認できたが,そのうち15世紀後半の桜島文明軽石降下後の復旧によるとみられる水田区画は調査区域のほぼ全域で明瞭にとらえられた。このように,坂元A遺跡では,同じ遺跡の中において時代ごとの水田区画の変遷をみることができるだけでなく,当地域における水田稲作の普及と展開を知る上で貴重なデータを得ることができた。

著者関連情報
© 有限責任中間法人日本考古学協会
前の記事 次の記事
feedback
Top