音楽学
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六孔尺八と八十四調の関係
明土 真也
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2016 年 62 巻 1 号 p. 14-30

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抄録

本論文では、法隆寺の尺八および正倉院の尺八八管の音律や出自等を再考する。
従来、七声音階を奏することのできる六孔尺八は燕楽専用の楽器とされてきたが、最近の研究で法隆寺の尺八は隋代以前の作と判断された(明土 2013)ため、唐代に生まれた燕楽専用の楽器とは考えられない。そこで、隋代に存在した七声音階の理論である八十四調理論に着目し、六孔尺八の音律等を考察することで、六孔尺八が八十四調理論を実用化するために開発された隋唐の楽器であることを指摘する。
法隆寺の尺八に関しては、なぜ全音階的な音律なのかが不明であったが、指孔に対して全閉と半開を併用することで半音階を吹奏することが可能であり、一管で八十四調の全てを演奏するための尺八と判断できる。そして、鄭訳が568年に八十四調理論を提唱したことと、法隆寺の尺八が隋代以前の作であることを勘案すれば、六孔尺八の創製は582~618年に限定できる。また、正倉院の牙尺八の音律と『舊唐書』『新唐書』の記述を精査することにより、626年になされた唐朝での八十四調理論の採用を受け、呂才は十二管の楽器を自発的に開発したと推定できる。
次に、呂才以降の尺八である太蔟と姑洗の二管を取り上げ、指孔に対し全閉と全開のみで七声音階を奏する平奏法、および、平奏法に対して一つの律のみ、一律低める変奏法と一律高める清奏法を適用することで、唐の天宝十四調、日本の唐楽六調子と高麗三調子の全てを吹奏できること、さらにこの二管に黄鐘管を加えた三管で、俗楽二十八調の全てを吹奏できることを明らかにする。また、百済の義慈王がこの3種類の管を日本に贈ったのは653年であるため、俗楽二十八調はこの時までに成立していたと考えられる。そして、燕楽が創られた640年から653年までの間に遣唐使の帰国はないため、日本は百済を通じて俗楽二十八調の存在を知ったと考えられる。

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2016 日本音楽学会
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