1920年代において、日本のサイレント映画は西洋音楽の土着化と舞台から映画へという同時代的な転換との複合的な帰結による改革のなかにあった。当初、1910年代の日本映画は歌舞伎の強い影響下にあった。当時の邦画は舞台劇の一種の安価な代用品とみなされており、ロングショット、長廻し、固定カメラで撮影されていた。音楽演出においても三味線や太鼓などの伝統的邦楽器によって歌舞伎の舞台劇を模倣することが目指されていた。ところが1920年頃になるとこうした舞台志向の映画は、クロースアップやクロスカッティング等の映画に必要な技法を追求せず、古臭い物語に安住することで批判されるようになった。そして新しい邦画を模索する純映画劇運動のなかで、伴奏音楽もまた、洋楽と洋画伴奏のもとで再編成されることになる。しかもこの動きは、歌舞伎などの伝統の根強い時代劇においても浸透し、洋楽合奏や和洋合奏による古典邦楽曲や輸入洋楽曲の演奏、さらには新作伴奏曲をともなって上映されるようになるのである。本論文は、東京における日活の封切館であった浅草富士館や神田日活館の興行実態や伴奏曲をめぐる言説、および伴奏譜の資料考証を交え、複合的にこの再編成のありようを捉え直す試みである。まず浅草富士館の支配人三宅巌の試行錯誤に注目し、歌舞伎的伝統の根強い富士館でどのように洋楽合奏や和洋合奏が導入されたのかを考察する。次いで残る2節では、現存する楽譜資料や同時代の言説の検証により、1926年頃の時代劇伴奏のレパートリー、そして時代劇伴奏の代表的作曲家のひとりであった松平信博の1927年以後の実践を考察し、1920年代後半にどのように楽曲と編成における邦楽と洋楽の折衷ないし再編成が進んだのかを示す。