抄録
霊長類においても、血縁淘汰が働いていることは、様々な観察から示唆されてきた。特に分子生態学の発展により、生まれたグループから分散した後も血縁関係に基づいた社会関係が維持されている例が多数報告され、グループをまたいだ血縁淘汰の重要性が注目されている。テナガザルは、グループ間交渉(グループエンカウンター、歌)が日常生活の重要な部分を占めている点で、グループをまたいだ血縁淘汰を評価するのに適した生き物である。しかし、オスもメスも成熟すると生まれたグループから出ていくこと以外、分散の詳細はよくわかっていなかった。本研究では、タイのカオヤイ国立公園に生息するシロテテナガザル17グループを対象に、血縁ネットワークの有無と分散様式について調査を行った。具体的には、遺伝マーカーに基づく3つの指標(mtDNAまたはY染色体のハプロタイプ共有パターン、血縁度)とグループ間距離の相関についてMantel検定を行った。その結果、オトナのオスでは隣接するグループにいる個体ほど、高い血縁度を持ち、かつY染色体ハプロタイプを共有していた。一方、オトナのメスでは、血縁度、mtDNAハプロタイプの共有パターンのどちらについても、有意な相関関係は検出されなかった。これにより、オスは隣接するグループに分散する傾向がある一方、メスの分散はランダムであり、オス間に血縁ネットワークが存在することが明らかとなった。直接的なグループ間交渉であるグループエンカウンターにおいて、オスが主要な参加者であることから、隣接グループのオスと血縁関係にあることは、配偶者防衛・テリトリー防衛の両面において、防衛コストを軽減でき、有利であると考えられる。また、分散前のオスもエンカウンターに参加し、隣接グループのオスの状態を常に偵察可能なことから、隣接グループの同性個体と入れ替わる機会をより感知しやすく、そのことも分散を後押ししていると考えられる。