テナガザルはペア型を基本とする暮らし,歌と呼ばれる複雑な音声コミュニケーションをおこなうことが知られている。歌の音響特性やレパートリー・構造には,種および性により違いが認められている。一方,異性と飼育されていない雌個体やペア形成初期の雌個体ではひとりで雌雄両方のレパートリーを発声することが少数例報告されている。このような稀な現象への理解を深めるために,飼育下という野生とは異なる環境にて,近隣ケージにくらす別種の存在や社会的集団構成の変化が音声にもたらす影響について検討した。2017年4月から10月の間,日本モンキーセンターのテナガザル3個体,Hylobates agilis♀(以下♀A),Hylobates muelleri♀(以下♀M),Hylobates lar♂(以下♂L)を対象とした。♀Aと♀Mは隣あうケージにそれぞれ1個体で暮らしていた。7月から,単独飼育個体への社会的エンリッチメントの取り組みとして,♀Mのケージに♂Lを段階的に導入した。異種でのペアとなるため,避妊をしている。4時から19時の時間帯に,各個体の音声の有無・誰と一緒に発声しているか・発声レパートリーを記録した。結果,♂L導入に関わらず,♀Aと♀Mはほぼ毎日一緒に歌いつづけた。歌い方にはいくつかの決まったパターンがみられ,♀Aが♂のレパートリーを受け持つなど,通常の雌雄ペアとは異なる現象が確認された。一方,ペアにした♀Mと♂Lとのデュエットの生起率は,金網越しの出会わせ・日中同居・夜間同居の順に段階が進むにつれて増加した。夜間同居開始後には毎日一緒に歌うようになり,この期間に入って初めて,ペアの歌構造全体が確認された。♀Aを含めた3個体による歌もみられた。ペア形成開始から3か月間,形成完了後2週間までを分析したので,範囲が短かったかもしれない。歌の有無だけでなく,質的な違いについても今後検討したい。