本論文は,高度成長期日本の地域開発政策の代表的事例である鹿島開発について,先行研究が看過していた史実を見出し,その史実をもとに再考するものである。先行研究は,当時茨城県知事であった岩上二郎の活動を起点に,知事の指導力や中央省庁・財界の関与が鹿島開発の展開に作用していたことを指摘した。他方,先行研究は,鹿島開発の展開を決定付けた物事を明らかにするには至っていない。そのため,鹿島開発は,代表的事例でありながら,依然として未解明の部分を少なからず残している。そこで,本論文は,先行研究が対象としなかった時期・主体・事業を射程におさめ,鹿島開発の中心であった鹿島港整備の過程を論じることで,鹿島開発の全容の解明を試みた。
その結果,大きく三点の史実が明らかになった。第一に,岩上知事の先代である友末洋治知事の在任中,県が鹿島港整備構想を形成しえなかった反面,国はその構想を形成していた。第二に,鹿島港整備構想の浮上・具体化・実施の各段階において,中央省庁出先機関である運輸省第二港湾建設局が中心的な役割を果たし,茨城県は後景に退いた。第三に,茨城県は鹿島港整備を主導しえなかったものの,自県の制約を現実的に解釈し,県政全体の中で裁量の余地を見出し,その余地において主体的に活動した。
これらの史実の解明を通じて,本論文は,鹿島開発について,出先機関の「中央主導型」の行動様式と,それに対する「農業県」である地方自治体の「後景化」戦略が交わることで,「国家的事業」としての鹿島開発とそれに付随する茨城県政が展開されたことを明らかにした。