創薬は典型的なサイエンス型研究開発であり、基礎研究が新薬創出に大きく貢献してきたことは繰り返し指摘されている。しかしながら、医科学の基礎研究は主に生体機能の解明を目指してなされており、創薬を一義的に狙ったものではない。このことは、基礎研究で明らかにされる多数の新規生体分子や生理的機序といった科学的知見の中から、実際に創薬に結びつく分子やメカニズムを正しく選別する能力(本稿では「創薬標的選定能力」と呼ぶ)が創薬研究者に極めて重要であることを意味する。しかしながら、この「創薬標的選定能力」の概念は、これまでの研究では殆ど考慮されてこなかった。本稿では、日本発の革新的創薬事例を取り上げ、その研究プロセスの詳細な分析より、基礎研究成果の中から適切な創薬標的となる分子やメカニズムを選択する研究者の「創薬標的選定能力」が、創薬研究の競争優位を生むことを述べる。また、「創薬標的選定能力」の醸成には、生体機能を解明する医科学基礎研究への理解に加え、疾患の発症機序や先行薬剤の作用機序に対する深い理解と洞察が必要なことを述べる。本研究がもたらす学術的、実務的意義についても論ずる。
New drug discovery typically involves “science-based” research and development, and as such, basic research is often cited as significantly contributing to new drug discovery. However, basic biomedical research primarily aims to elucidate biological functions, not to discover new drugs. This means that the ability to select correctly from numerous basic research discoveries, such as new physiological molecules and mechanisms that can lead to drug discovery (or the “drug target selection capability,” as referenced in this paper), is crucial for new drug discovery researchers.
Nevertheless, past studies have hardly considered the “drug target selection capability” concept. This paper indicates that the drug target selection capability of researchers to appropriately select new drug target molecules and mechanisms for drug discovery is a potential factor generating competitive advantage for drug researchers, based on detailed analysis of the research process behind innovative drug discovery cases in Japan. The paper also describes the necessity for deep understanding and insight regarding the mechanism of pathogenesis for diseases in fostering drug target selection capacity, as well as the pharmacodynamics of existing drugs and an understanding of basic physiological functions. The academic and practical implications of this study are also discussed.
製品開発に基礎研究の成果が活用される度合いの大きい研究開発はサイエンス型と呼ばれる。企業に対するアンケート(Mansfield, 1991;Mansfield, 1998)やサイエンス・リンケージの解析(Narin & Olivastro, 1992など)から、創薬はもっとも典型的なサイエンス型製品開発であることが明らかにされている。製薬企業における医薬品研究開発を詳細に分析したHenderson(1994)やGambardella(1995)らの研究からも、創薬における基礎研究の重要性が強調されてきた。このため、創薬における産学連携やサイエンス吸収能力の重要性が言われてきた(Cockburn & Henderson, 1998;McMillan et al., 2000;Fablizio, 2009など)。日本が生んだ革新的新薬12例の事例分析をおこなった長岡他の研究(2016)でも、基礎研究が新薬創出の科学的源泉となっていることを指摘している。
これらの先行研究は、創薬における基礎研究の重要性を繰り返し指摘している。しかしながら、バイオ・医学分野の基礎研究は、生体の仕組みや機能、天然物質の性質等の基本的理解を深めるために行われているわけであり、創薬応用を一義的な目的として研究が行われているわけではない。実際、革新的創薬の源泉となった科学的発見を15の創薬事例について同定したCockburn and Henderson(1996)の研究では、それらの科学的発見は“elucidating fundamental metabolic processes”や“identifying the biological activity of new classes of compounds”を目的としたものであったことを明らかにしている。創薬の源泉となる基礎研究成果がそもそも創薬応用を主たる目的として成されていない以上、発見された基礎研究成果のうちどの成果をどのように活用すれば創薬応用に結び付くのか、を選別、同定して創薬研究へと繋いでやらないと、新薬創出には結びつかないということになる。これまでの研究は、基礎研究の中には応用も指向したmission-related basic research(Waterman, 1965)やuse-inspired basic research(Stokes, 1997)が存在することを述べてきた。これらの概念は、基礎研究成果の中に応用に転化しうるものが存在することは指摘しているが、基礎研究成果の中に応用可能性を見出す能力についての議論はされてこなかった。Stokesの研究で、基礎と応用両方に指向性のある研究者の代表としてパスツールが取り上げられていることからも分かるように、医学研究の分野では研究目的が基礎と応用にきちんと分類することが難しい(Stokes, 1997)と考えられており、生体機能の解明を目指す基礎研究の能力と、基礎研究から創薬応用に適した知見を選定する能力が、区別して議論されることは極めて少なかった。そのため、基礎研究成果の中から応用研究に転化できる可能性があるものを正しく見極める力には能力差が存在する、という概念はこれまで語られてこなかった。しかしながら、創薬の場合、前述のCockburn and Henderson(1996)の研究例を示すまでもなく、殆どの基礎研究成果は、生体機能の解明を目指す研究から得られるため、創薬を行う研究者は(基礎研究を行った研究者自身であっても、創薬応用を一義的な目的に研究する企業の創薬研究者であっても)、日々発見される新たな生体分子やメカニズムの中から、創薬応用の可能性を有する成果を創薬標的として選定して、創薬テーマとして取り組んでいるわけである。その中で、革新的新薬であってもその研究に取り組んで創薬に成功する研究者と、類似の研究領域を対象としていながら、同じ研究に取り組まずに機会損失する研究者が存在する。すなわち、多くの基礎研究成果の中から創薬可能性の高い成果を見極めて創薬応用へと繋げる能力、には研究者間で差があり、その能力が新薬創製の競争優位に影響するのではないか、というのが本稿の発想である。
現在は科学論文だけで年間10万報以上が発表されるというが、各疾患領域において創薬応用に結び付いた創薬標的は、この数十年でせいぜい数種類から十数種類程度である。その一方で、革新的新薬に結び付く基礎研究成果がありながら殆どの創薬研究者が見逃す場合もある。すなわち、日々発表される基礎研究成果のなかから、創薬応用に結び付く可能性のある成果を正しく見極め、製品化に結び付けていくことは簡単ではなく、その能力の違いが研究者の創薬力の競争優位を生む、という考え方は創薬において重要な論点と思われる。それにもかかわらず、創薬に繋がる基礎研究成果を正しく見定めて創薬標的を選択する能力(本稿では「創薬標的選定能力」と呼ぶ)という概念は、これまで創薬研究マネジメントの研究では殆ど触れられてこなかった。本稿では、日本で生み出された革新的医薬品の創薬研究プロセスを詳細に解析することで、「創薬標的選定能力」が他の研究者に先駆けて革新的新薬の創製に成功した重要な要因であったことを示す。また、「創薬標的選定能力」を醸成するためには、生体や疾患の機能に対して、また薬剤が作用するメカニズムに対して、深い理解と洞察を身に付けることが重要である、との考察を展開する。
革新的新薬の創薬研究の最上流は、創薬の標的となりうる生体分子やパスウェイが基礎研究から同定されることである。この基礎研究は主にアカデミアで行われるが、この時点で研究は創薬を直接指向したものではなく、新規の生理機能や生体メカニズムの解明を目指したものであることが殆どである(Cockburn & Henderson, 1996)。従って、次のステップとして、創薬を志す研究者は、基礎研究から見いだされた新規蛋白や生体メカニズムから、その機能を薬剤で調節(阻害や活性化など)すると治療効果が得られる、と判断されるものを創薬標的として選びだすことになる。このステップが、「創薬標的選定能力」が発揮される段階となる。
医学生物学基礎研究は、生体機能の解明を一義的な目的として行われるのであり、最初から創薬応用を狙って研究が行われている訳では無い。したがって、新規の生体分子やメカニズムを発見したからといって、それがそのまま創薬応用へと結びつく訳では無い。例えば、本稿で取り上げるNivolumabの例では、創薬標的として選定されたのはPD-1という分子であったが、PD-1は元々T細胞にアポトーシスを誘導したときに発現が変化する因子として同定され、その後の機能解析から、T細胞とB細胞が活性化したときにPD-1は発現し、生体の免疫機能を弱める方向に働く制御因子であることが解明された。これは、生体の免疫機能調節の分子メカニズムの一端を明らかにした基礎研究の成果であり、癌治療薬の創薬標的として研究が行われたわけでもなければ、最初からその応用を念頭に置いていたわけでもない。その後、基礎研究を実施した本庶自身が、PD-1を阻害することが、癌治療薬の作用メカニズムとして適切だとの新たな着想を得た。当時の癌免疫治療薬は、生体の免疫機能を高める作用メカニズムであり、十分な効果を示していなかったが、本庶教授は、効果が不十分なのは、PD-1を介して癌細胞が自己の免疫攻撃から回避しているためであろうと考え、PD-1を阻害することが有望な癌治療薬になる、と発想したのである。これによって、PD-1は創薬応用へと結びついた。つまり、創薬標的の選定は、生体機能を解明する基礎研究とは別物であり、別目的で実施された基礎研究の成果の中から、新薬作用メカニズムとして適した生体機能や分子を正しく選び出す能力が、基礎研究能力とは別に存在している、と考えられるのである。
別の例を示す。間接リウマチの治療薬として大型化しているTocilizumabは、IL-6受容体を阻害する抗体である。IL-6とその受容体は、大阪大学岸本忠三教授らによって発見されたが、それはB細胞を抗体産生細胞に分化させる因子とそのシグナル伝達経路を解明する研究から見いだされたものであった。それを自己免疫治療薬の標的として創薬標的に選んだのは、自己免疫疾患の研究を長年実施し、B細胞の活性化抑制がその治療に効果的であると掴んでいた大杉義征氏(当時中外製薬)であった(大杉, 2013)。大阪大でIL-6研究を主導した平野俊夫氏ですら、関節リウマチに対する創薬標的としての妥当性を当時は予想できなかった旨を述べており(日本インターフェロン・サイトカイン学会, 2010, p.163)、このことからも、基礎研究能力と、基礎研究の発見から創薬標的を選定する能力とは、別物であり、独立した能力として議論される必要があることが分かる。また、この2つの能力は、本庶教授の場合のように、同一研究者が両方を併せ持つ場合もあれば、Tocilizumabの場合のように、独立した2人の研究者がそれぞれの能力を発揮する場合もある。本稿の事例では、前者の例を取り上げ、創薬標的選定能力の概念とその養成要因を論ずる。
2.2 「創薬標的選定能力」とその分析主体本稿が焦点を当てるのは、基礎研究知見から新薬作用メカニズムとして適切な生体機能や分子を正しく選定できる能力、である。この能力は、上記に示したように、医学生物学の基礎研究能力とは独立に存在する能力概念である。本能力概念が重要なのは、無数の基礎研究知見の中から、実際に創薬応用に結びつく生体機能や分子がごく一部であるからである。また、創薬に応用された基礎研究の発見が成されても、それを実際に創薬に応用できた研究者もいれば見逃した研究者もいるわけで、本能力が、創薬の競争優位を考える上で重要な概念と考えられるからである。特に、創薬は、極めて成功率が低い研究開発であり、研究段階で実施される研究テーマのうち、実際に上市医薬品にまでつながる確率は0.1%(Bioscience Innovation and Growth Team, 2004)といわれている。その成功要因の最も重要な要素として、right target(新薬として正しい創薬標的が選ばれていること)が挙げられており(Cook et al., 2014)、基礎研究知見の中から新薬応用に適した作用メカニズムを正しく選ぶ能力は、創薬の成功に極めて重要である。
「創薬標的選定能力」を発揮するのは、創薬研究を開始する研究者個人である(従って、本研究は創薬を行う研究者の個人能力に焦点を当てている)。ここで注意すべきは、創薬を行う研究者として、製薬企業研究者だけを必ずしも念頭に置いているわけではない。上述したNivolumabの例のように、生体機能の解明を目指す医学生物学基礎研究を実施した研究者自身が、創薬標的選定を行って創薬研究を実施する場合もあれば、Tocilizumabの例のように、基礎研究者とは別の、創薬応用研究を専門に実施する企業の創薬研究者が本能力を発揮する場合もある。実際、日本の創薬では、製薬企業研究者による自社創薬、産学連携による創薬、アカデミア研究者が基礎研究と創薬応用研究を両方自分で実施するアカデミア創薬、が行われている(Okuyama & Osada, 2013)。自社創薬では、企業の創薬研究者が創薬標的を選定しているはずだし、アカデミア創薬では基礎研究を行ったアカデミア研究者自身が創薬標的選定を行っているはずだし、産学連携の場合はケースバイケースで両者の場合が考えられるだろう。従って、「創薬標的選定能力」の分析対象として、研究者の属性を特定することは重要ではない。むしろ、作用メカニズムを選んで創薬研究を実施する研究者すべてに重要な能力概念として、「創薬標的選定能力」を論じ、その醸成に重要な要因を考察することが、本研究の狙いである。
本能力概念は、一般に「トランスレーショナルリサーチ」といわれる研究に対する能力を指しているわけではない。トランスレーショナルリサーチが指す範囲は、基礎研究から前臨床研究、臨床開発、実臨床まで幅広く(NIH, 2018)、その明確な定義は十分定まっていない(Weber, 2013)。また、創薬におけるトランスレーショナルリサーチは、「開発中の医薬品を用いた臨床試験のステップを加えた前臨床、臨床試験、臨床研究のサイクルで構成」されるとされており、医薬候補化合物が同定されてから臨床応用がなされるまでのステップに対する研究を指すことが多い(藤田他, 2016)。これに対し、本稿が論ずる「創薬標的選定能力」は、基礎研究が明らかにした生体分子のうち、その機能を医薬品によって調節することで新薬となる可能性が高い生体メカニズムを、正しく選択するステップを指す。すなわち、医薬候補化合物の探索・最適化を開始する前の、創薬研究の最上流部分を指している。このステップがトランスレーショナルリサーチに含まれるという考え方はできるが、一般に言われるトランスレーショナルリサーチの範囲はより広く、その研究に求められる能力もより漠然としており、「創薬標的選定」のステップに着目して、そこに求められる能力を論じている先行研究は稀少である。
2.3 先行研究レビュー創薬の競争力に重要な因子として強調されてきたのは、基礎研究の重要性である。創薬はアカデミアの基礎研究が製品開発に活用される典型的なサイエンス型ものづくりであり(Mansfield, 1998)実際に基礎研究が多くの新薬の源泉になっている(Cockburn & Henderson, 1996)。これはUSや日本の革新的新薬の研究プロセスを詳細に調査した研究からも指摘されている(Gambardella, 1995;長岡, 2016)。そのため、創薬に重要な組織能力として、自ら基礎研究を実施することによって外部の基礎研究への理解度を高めるサイエンス吸収能力が言われてきた(Cockburn & Henderson, 1998;Toole, 2012)。しかし、2.1に述べたとおり、「基礎研究能力」と「創薬標的選定能力」は独立して存在する概念と考えられる。Gittelman and Kogut(2003)は、優れた基礎研究者がインパクトの大きいイノベーションを生んでいるわけではないことを示し、基礎から応用へと適切に繋げるbridging scientistの重要性を述べている。star scientistは特許の引用数に正の影響を与えないとの報告もある(Hess & Rothaermel, 2011)。これらの報告もまた、基礎研究能力と、基礎研究知見から創薬応用につながる知識を正しく選定する能力が別であることを支持している。したがって、基礎研究知見に対する理解度を高めても、それが創薬標的に対する見極め能力を向上させることにはならず、サイエンス吸収能力の概念で、創薬標的選定能力の考え方が十分説明されるとは言えない。
一方で、上述した先行研究は、基礎研究から応用ポテンシャルのある知見を見抜く能力が具体的にどういった能力で、どうやって醸成されてくるのか、については何も述べていない。吸収能力の概念を拡大し、外部知識を製品開発に活用するrealized absorptive capacityについて述べている研究もあるが(Zahra & George, 2002)、その能力の構成要素や養成要因についての分析は殆どされていない。
加えて、吸収能力の概念は、組織レベルでの分析が主であった。吸収能力以外にも、知識の統合能力(Henderson & Cockburn, 1994)、Innovative capability(Subramaniam & Youndt, 2005)、産学ネットワーク(Cockburn & Henderson, 1998;Zucker, Darby, & Armstrong, 2002)、市場機会への適合力(Biedenbach & Muller, 2012)、などが、創薬に重要な能力として指摘されてきたが、いずれも企業単位で分析された組織レベルの概念であった。一方、本研究が焦点を当てる創薬標的選定能力は、2.2に述べたとおり、研究者個人の能力である。創薬の研究段階は、通常少人数で行われ、一人の研究チャンピオンが重要な役割を果たすことが多い(桑島, 2006)ため、組織全体より個々の創薬研究者に焦点を当てたマネジメント研究が重要となる。しかしながら、創薬研究は不確実性が極めて高い「ゴミ箱モデル」(桑島, 2006)で、闇研究が功を奏することも多く(長岡, 2016)マネジメントの効果は限定的とも考えられており、創薬研究者の個人能力に焦点を当てた研究はあまり進んでいない。
医科学研究は、臨床での課題を解決する応用研究の側面と、基礎的な生物学的、化学的、生理学的なメカニズムへの理解を追求する側面の両方を有することが、古くから指摘されてきた(Comroe & Dripps, 1976)。しかし、医学領域では、研究目的が基礎と応用にきちんと分類することが難しい(Stokes, 1997)と捉えられ、「基礎研究能力」と「創薬標的選定能力」を区別して論じられることは稀であった。研究者単位の分析としては、Stokes(1997)は、自然に対する理解のフロンティアを広げる意義と応用に繋がる可能性を併せ持つ基礎研究をuse-inspired basic researchと呼び、この両方を実施する研究者をパスツール型研究者と呼んだ。こうしたパスツール型研究者は、産学連携による製品開発に大きく貢献してきたことが報告されている(Fabrizio & Di Minin, 2008;Baba et al., 2009など)。しかし、基礎研究成果から応用研究につながる知識を選定するステップに研究者個人間で能力差がある、という視点での分析や考察は、これまでされてこなかった。また、パスツール型研究者が有するであろう、基礎研究から応用ポテンシャルを見極める能力が、実際にどんな能力なのか、それがどうやって養成されるか、についての先行研究も殆ど無かった。
創薬標的を適切に選定する能力に関しては、主に技術面から議論されてきた。健常人と患者の間で発現量に差がある遺伝子や蛋白を同定し、創薬標的を探索しようというオミックス技術や、一塩基多型と疾患発症率の相関をみることで、疾患感受性遺伝子を同定するGenome-wide association study(GWAS)などである。しかし、いずれの技術も、実際に創薬に結びついた標的を同定出来た事例は乏しく、創薬標的選定能力の向上に対する技術開発の貢献は、十分ではない(Varmus, 2010;Folkersen et al., 2015)。この点からも、創薬標的同定の確度を高める研究者個人の能力に着目する研究には意義があると思われる。
本稿では、日本が生み出した革新的な癌免疫治療薬であるNivolumabの創薬事例を取り上げ、本創薬研究において、創薬標的分子としてPD-1を選定した京都大学医学部本庶佑教授の「創薬標的選定能力」に焦点を当てる。具体的には、基礎研究でのPD-1の発見と、PD-1を新規癌免疫治療薬の創薬標的として選定したプロセスを分析し、「創薬標的選定能力」が、他の創薬研究者に先駆けて革新的創薬の創製を可能にした競争力の源泉であったことを示す。また、その能力をもたらした研究者の背景を事例から分析・考察し、対象疾患の原因や薬剤の効き方のメカニズムに対する深い追究と理解が本能力を養成する要因であったことを示す。
本事例は、後述するように、PD-1を新規癌免疫治療薬の創薬標的として適切だと判断出来た研究者が、本庶以外にほぼいなかったため、後にNivolumabがもたらした大きな成功の機会を、本庶チーム以外の研究者たちが逃した事例であり、「創薬標的選定能力」の創薬競争力における重要性を考察するのに適切な事例である。また、本庶自身の複数の著書や、他の書籍・文献に多くの記述が存在し、本庶教授がPD-1を発見してから、それを癌免疫治療薬の創薬標的として選定するまでの思考プロセスを詳細に追跡することが可能であった。これらの理由から、本事例を選択した。
なお、本創薬事例は、本庶教授が小野薬品及びメダレックス社と共同で研究開発を行ったものであるが、PD-1を新規癌免疫治療薬の創薬標的として選定したのは小野薬品やメダレックスの研究者ではなく、本庶教授であったことは、複数の書籍に詳述されている(本庶, 2013;本庶, 2019;岸本・中嶋, 2016)。当時、小野薬品には癌治療薬の研究開発の経験が無く(本庶, 2019, p.50)、本庶教授の師である早石修教授と1960年代から懇意であった縁で開発を引き受けたのが経緯である(岸本・中嶋, 2016, p.235)。また、メダレックスは、本庶がPD-1を新規癌免疫治療薬の創薬標的として選定し、小野薬品と共同研究開発を決めた後に、メダレックスの抗体医薬の技術を活用するために小野薬品が提携して研究開発に加わったのが経緯である(本庶, 2019, p.50–1;長岡他, 2016, p.335–6)。従って、本創薬事例で、「創薬標的選定能力」を発揮したのは、小野薬品やメダレックスの研究者ではなく、本庶教授であったことは明白である。
3.2 概要Nivolumabは、programmed cell death 1(PD-1)蛋白の機能を阻害することで抗癌作用を示すヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体で、ヒトに元来備わっている免疫反応を利用して腫瘍を排除する癌免疫療法の新しい治療薬である。臨床試験で画期的な効果を示し、悪性黒色腫で2014年、肺癌患者の8割を占める非小細胞肺癌で2015年に承認を取得し、その売上は2017年3月期に1260億円まで拡大すると見込まれている(日本経済新聞2016/6/20)。PD-1分子は活性化したT細胞などの細胞表面に発現する蛋白質で、一部の癌細胞は細胞表面にPD-L1と呼ばれる蛋白を発現しておりこれがPD-1と結合してT細胞を不活性化することで自己免疫による攻撃を回避している。Nivolumabは、PD-1分子に結合してPD-1とPD-L1の相互作用を遮断することで、T細胞の癌細胞への攻撃を活性化し、抗癌作用を発揮する(吉田他, 2015)。PD-1は、京都大学医学部本庶らが単離・同定し、同大湊らと共同で癌細胞の免疫回避機構に関与していることを解明した。本庶と小野薬品らが共同でPD-1阻害薬を開発した。
3.3 基礎研究1990年代初期、本庶らはT細胞等でアポトーシス(細胞が自ら死を選ぶ生命現象)の際に発現増強する因子としてPD-1を同定した(Ishida et al., 1992)。ところが、PD-1分子を細胞に過剰発現させてもアポトーシスは誘導できず、PD-1の生体での役割は不明であった。本庶らはPD-1を欠損したPD-1ノックアウトマウスを作製し、湊らと共同で解析した。PD-1ノックアウトマウスはすぐには表現型が現れなかったが、半年ほど粘り強く観察を続けた結果、PD-1ノックアウトマウスが関節炎や腎炎を発症し、自己の免疫機構が過度に働いて起こる全身性エリテマトーデスに類似した症状を示すことを見出した(Nishimura et al., 1998)。別系統のマウスでもPD-1ノックアウトマウスを作製したところ、やはり半年ほど経って免疫細胞が心臓を攻撃して起こる拡張型心筋炎が発症することも突き止めた(Nishimura et al., 2001)。これらの結果から、PD-1は生体の免疫機構を負に制御する因子であり、その欠損によって自己免疫疾患様の症状が現れる、と考えられた。その後、本庶らと共同研究をした米国ジェネティクス・インスティチュートのグループが、PD-1と結合するリガンド分子としてPD-L1を同定し、PD-1はPD-L1と結合することでT細胞の働きを抑制していることが明らかとなった(Freeman et al., 2000)。
3.4 癌免疫治療薬の創薬標的としてのPD-1の選定PD-L1は癌細胞を含む様々な組織に分布していたため、本庶らは、PD-1-PD-L1シグナルが、癌がキラーT細胞の攻撃から逃れるブレーキとして働いていて、PD-1の作用を抗体等で阻害すればブレーキが解除されて癌を排除できるのではないか、と考えた。従来のサイトカインや癌ワクチンを用いた癌免疫療法は効果が弱かったが、本庶は、癌細胞はPD-1-PD-L1等のシグナルを介して生体の免疫反応から逃れており、その状態でサイトカインや癌ワクチンで免疫を活性化しても十分効果は得られない、それが従来の癌免疫療法の効果が弱かった理由であり、そのブレーキをPD-1阻害によって外してやれば十分な効果が出るはずだ、と考えた(本庶, 2013)。本庶と湊らは腫瘍免疫に関わるPD-1研究を開始した。湊らは、PD-L1高発現骨髄腫細胞をマウスに注入すると短期間で増殖してマウスを死に至らしめること、この作用がPD-L1に対する阻害抗体で抑制できることを示した。本庶研究室は、PD-1ノックアウトマウスに骨髄腫細胞を移植するとその増殖が抑制されることを示した(Iwai et al., 2002)。これらの結果から、癌細胞が免疫の攻撃を回避する機序のひとつとしてPD-1-PD-L1シグナルがあると考えられ、PD-1やPD-L1の阻害剤が癌免疫を活性化する癌治療薬と成り得る可能性が示唆された。また、PD-1-PD-L1シグナルを阻害することによる副作用の可能性についても、本庶は「PD-1がなくてもマウスはすぐに死んだりしなかったので、重篤な副作用もないだろう」(週刊東洋経済 2015.7.18 p.57)と考え、湊は、PD-1の働きは病巣部の近辺で局所的・限定的なものにとどまるので副作用は穏やかだろうと考えたという(岸本・中嶋, 2016, p.233–234)。
上記の結果を受けて、本庶はPD-1阻害を医療応用に結び付けるべく、PD-1阻害薬の共同研究を国内のいくつかの製薬企業に打診した。しかしほぼすべての企業が否定的な反応を示した。当時癌免疫療法は、「副作用も少ないが効果も微小」と揶揄されており(岸本・中嶋, 2016, p.195)、癌免疫療法に関しては従来から懐疑の目が向けられていた(本庶, 2013, p.173–174)。1980年代のIL-2治療や養子免疫療法、1990年代以降の癌ワクチン療法など癌免疫を利用した様々な試みがされてきたものの、いずれも癌免疫療法の地位を確固たるものにする十分なエビデンスが得られていなかったからである(柴山, 2016)。その中で、小野薬品と提携することが出来た。当時、小野薬品は、癌治療薬の研究開発の経験が無く、一度は共同研究の申し出を謝絶したが(本庶, 2019, p.50)、本庶教授の師である早石修教授と組んで1960年代からプロスタグランジンの医薬応用を目指して研究してきた歴史があり、その縁があって最終的に受諾したという(岸本・中嶋, 2016, p.235)。しかしながら、小野薬品社内でも本テーマに関する許可は容易に得られず、組織としての本格的な医薬品開発の意思決定には相当の時間がかかった(長岡他, 2016, p.334)。その後、本庶教授と小野薬品はPD-1を介した免疫抑制シグナルを阻害することにより免疫応答を賦活し癌の治療を行う用途特許を共同で出願した(WO2004/004771号)。特許出願後、小野薬品は抗体でPD-1の作用を阻害することを指向したものの自社に抗体医薬作製技術を有していなかったため、技術を有する国内13社に共同研究開発を打診した。しかしそのすべてから、「癌免疫療法は信頼できない」という理由で謝絶されたという(週刊東洋経済 2015.7.18 p.57)。
3.5 Nivolumabの獲得と臨床開発小野薬品は、独自のヒト型抗体作製技術を有するメダレックスと提携し、ヒト型抗ヒトPD-1抗体Nivolumabを作製した。小野薬品は動物における効果の検証試験を行い、担癌マウスで抗PD-1抗体が腫瘍の増殖を抑制することを示した(長岡他, 2016, p.335–6)。これらの結果より、Nivolumabの臨床試験が2006年より開始された。臨床では、予後不良で知られる悪性黒色腫において第III相試験で標準治療のダカルバジンより1年生存率を有意に延長した。また非小細胞肺癌では、第I相試験で重治療歴を有する末期患者群で画期的な全生存期間の成績を示し、ドセタキセルを対照とした第III相試験では無再発生存期間と全生存期間を共に有意に延長して早期試験終了となり、そのまま米国で承認となった(竹内・西川, 2015)。こうしたNivolumabの画期的な効果を受けて、癌免疫療法は2013年のScience誌のブレークスルーオブザイヤーに選ばれ、本庶教授は2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。
3.6 PD-1阻害薬における「創薬標的選定能力」本事例では、本庶教授が、従来の癌免疫療法が十分効かないのはPD-1-PD-L1のシステムを介して癌細胞が生体の免疫攻撃から逃れているためということを自分たちの研究から明らかにし、PD-1を阻害することでこの回避メカニズムを外してやれば自己免疫によって癌細胞が排除される、と考えたことが、PD-1の創薬応用を導いた。当時本庶以外の創薬研究者がこの創薬応用可能性を正しく見定めていなかったことは、本庶や小野薬品からの共同研究の申し出を、国内製薬企業十数社がすべて謝絶していたことから明らかである。その理由として、各社とも、癌免疫療法は効果が薄く信じられない、旨の返答をしていたことから、謝絶理由はPD-1阻害が創薬応用につながらない、と考えていたから、ということも明白である。もし、本庶教授以外に、PD-1阻害による癌免疫治療薬のポテンシャルを正しく見定められて創薬研究に取り組んだ研究者がいれば、現在Nivolumabがもたらしている大きな治療効果と経済的成功を同様に手にしていたわけで、PD-1阻害が癌免疫治療薬の創薬標的として適切だと見抜く「創薬標的選定能力」の欠如が、創薬の大きな機会損失につながったと言える。もちろん、創薬研究テーマを開始したからと言って製品化まで成功するとは限らない。しかしながら、当時の小野薬品は癌領域の研究開発に経験を有しておらず(本庶, 2019, p.50)、抗体作製技術も社外に求めていたことを考え合わせると、Nivolumab創製に小野薬品の研究者が有する研究力の比較優位性が大きく寄与した、との仮説は支持しがたい。また、Nivolumabの成功を見て複数他社が遅れてPD-1やPD-L1阻害剤の開発に参入し、2016年1月時点で5剤が承認もしくは後期開発の段階にある(長岡他, 2016)。このことから、PD-1はいったん創薬標的に選んで研究テーマを開始すると、医薬品創製のプロセスには特段の難しさは無いと考えてよいだろう。そうなると、やはりPD-1阻害を有望な癌治療薬のメカニズムと見定めて取り組めたかどうか、という本庶教授の「創薬標的選定能力」が、他の研究者達が成し得なかったイノベーション実現のキーだった、と考えられる。
3.7 PD-1阻害薬における「創薬標的選定能力」を導いた要因本事例では、本庶が癌における自己免疫回避の機序を追究し、これまでの癌免疫療法が効かないメカニズムについて深い理解と洞察を得ていたことが、PD-1を創薬標的に選んだ「創薬標的選定能力」を導いた。従来の癌免疫療法は、サイトカインによるT細胞の活性化や癌ワクチンによる癌細胞特異的抗原へのT細胞の感作など、癌細胞を異物とみなして攻撃する生体内の免疫機構を賦活化することで抗癌作用を発揮するメカニズムであった。しかしながら、本庶らが明らかにしたとおり、癌細胞にはPD-1-PD-L1を介して生体内の免疫による攻撃から回避するメカニズムがある。癌細胞が発現するPD-L1がT細胞上のPD-1と結合すると、T細胞は癌細胞を異物ではないとみなして攻撃しなくなる。この回避機構があるがために、いくら生体内の免疫機構を賦活化する治療を行っても、十分な抗癌作用が得られなかったのである。サイトカインや癌ワクチン療法などの癌免疫療法が開発された時代には、この回避機構の分子メカニズムは分かっておらず、したがって癌免疫療法がなぜ十分な効果を発揮できないかの理解は不十分だったまま、癌免疫療法は効かない、という見解が研究者の間で形成されていたわけである。一方、本庶教授は、自著の中で「免疫系はつねにアクセルとブレーキのバランスによって適切な水準に保たれている」「大きなガン腫を持った生体は大量の抗原にさらされており免疫寛容の状態にある」「いくらガンワクチンなどの抗原を投与しても、ブレーキが強く入った免疫寛容の状態では免疫系は反応しない」「もしブレーキを利かなくした場合、免疫系は著しく亢進し、その結果ガン細胞を異物として認識して殺してしまう」と書いている(本庶, 2013, p.174–175)。すなわち、癌細胞はPD-1-PD-L1等のシグナルを介して生体の免疫反応から逃れるブレーキがかかった状態にあり、その状態でアクセルとなるサイトカインやがんワクチン等を投与しても十分効果は得られない、それが従来の癌免疫療法の効果が弱かった理由であり、そのブレーキをPD-1阻害によって外してやれば十分な効果が出るはずだ、というメカニズムまで踏み込んで考察していたわけである。この考察があったからこそ、癌免疫療法がそれまで必ずしも十分な効果を示していなかったにも拘らず、PD-1阻害によって十分な治療効果が狙える、と確信できたのであろう。一方、多くの製薬企業研究者は、過去の癌免疫療法の効果が不十分なことから「免疫療法は信頼できない」として本庶や小野薬品からのPD-1阻害薬共同研究の打診を断った。つまり、本庶以外の殆どの研究者が、癌免疫療法がなぜこれまで十分な効果を示さなかったのか、というメカニズムを深く追究することなく、癌免疫療法はこれまで奏功しなかった、という事実だけをとらえて、もう癌免疫療法は狙っても無駄だ、という先入観を持っていたわけである。本庶教授は、癌で起こっている生体機構と既存薬の作用メカニズムについて追究し、深い理解と洞察が得られていたからこそ、PD-1阻害薬が既存薬を上回る効果を示す新しい癌免疫治療薬になると確信できたのである。
創薬研究では、医科学の基礎研究が明らかにした生体分子やメカニズムから、その機能を医薬品で調節すれば疾患の治療につながるもの(いわゆる創薬標的)を選び出し、医薬化合物を探索することになるが、この創薬標的を正しく選択する研究者の能力を、我々は「創薬標的選定能力」と概念づけた。本研究では、革新的新薬の研究開発に成功した事例から、創薬研究を行う研究者の「創薬標的選定能力」が、他の研究者に先駆けて革新的新薬の創製に成功した重要な要因であったことを示した。本稿で取り上げたNivolumabの例では、創薬研究の発想の元となった基礎研究成果は、免疫細胞のアポトーシスに関わる因子とその役割を同定する目的の基礎研究から得られたもので、当時世界最先端の研究成果であった。それらの学術的成果は著名な科学雑誌に発表され、世界中の研究者が知ったはずである。それにもかかわらず、PD-1阻害薬創製の打診を小野薬品以外の多くの製薬企業が断った事実から、殆どの創薬研究者がPD-1の創薬応用可能性を認識できていなかったことは明らかである。また、小野薬品も、当時は癌治療薬研究の経験が無く、一度は本庶教授の申し出を謝絶したが、その後ゆかりの先生との関係性を考慮して受諾した、という経緯から考えると、小野薬品側がPD-1の創薬応用可能性を正しく認識した上でPD-1阻害薬の研究に取り組んだ、とは考えられない。PD-1阻害の癌治療薬としての適切さを見抜けたのは唯一本庶のみであり、本庶が発揮した「創薬標的選定能力」によって、Nivolumabという大きなイノベーションが実現されたのである。したがって、医科学の基礎研究成果から創薬応用可能性の高い創薬標的を正しく選択する「創薬標的選定能力」は、創薬を行う研究者が、他の創薬研究者に先駆けて革新的創薬に成功する競争優位の源泉を示す能力概念と言えるのである。
本研究の事例からは、「創薬標的選定能力」は、疾患メカニズムに対する正確な理解と、薬剤が効く/効かないメカニズムについて深く考察する科学的洞察力の2つの能力から構成されると考えられる。前者は、創薬対象とした疾患において、生体機能がどう変化することで疾患が起こっているのかというメカニズムを分子レベルで正確に把握する能力(本事例では、癌細胞がPD-1-PD-L1システムを介して自己の免疫攻撃から逃れることで生存するというメカニズム)である。後者は、薬剤がその疾患に対して効果を発揮するメカニズムを考察し、医科学基礎研究から見いだされた生体分子やメカニズムを薬剤で調節したときに、既存薬では達成出来ない治療効果を得られるかどうか、を正しく予測出来る能力(本事例では、既存の癌免疫治療薬は生体の免疫機能を活性化するメカニズムのため、癌細胞が自己の免疫から逃れる機能は抑制できず、その機能をPD-1阻害によって抑制すればより強い癌退縮効果が期待できるという予測)である。この両能力が揃うことで、適切な「創薬標的選定」が成されると考えられる。従って、高い「創薬標的選定能力」を研究者が有するためには、医科学基礎研究の最先端知見を理解し、生体分子や機能の情報を把握していることと、先行治療のメカニズムとその限界を理解し、より効果の高いメカニズムを選定できる洞察力を身につけていること、の2点が備わることが必要である。
4.2 「創薬標的選定能力」の養成とその評価では「創薬標的選定能力」はどのように養成されるのか?本庶は、生体内の自己と非自己を見分けて異物を排除する免疫機構の解明を研究し、多くの先駆的な基礎研究成果を挙げてきた世界の免疫学の大家である。PD-1が生体の免疫機能を負に制御する因子であることも、自らの研究で明らかにしていた。加えて、生体原理を解明する基礎研究だけでなく、癌治療への応用を見据えた研究も自ら実施し、癌細胞がPD-1-PD-L1システムを介して自身の免疫の攻撃を逃れており、PD-1阻害が有効な癌治療薬になるだろうことを予測した。すなわち、生体機能を明らかにする基礎研究と、創薬を指向して疾患メカニズムや薬の作用機序を検討する疾患研究の両方を実施することが、「創薬標的選定能力」を養成する一因となる可能性がある。殆どの製薬企業の創薬研究者が、PD-1阻害の有効性に対して正しい判断を行うことが出来ず、PD-1阻害薬創製の共同研究を謝絶していたことから、創薬を指向した応用研究だけ行っていても「創薬標的選定能力」の獲得は困難である可能性がある。生体機能の解明を目指す基礎研究と、創薬応用を指向した研究を並行して実施することで、基礎研究で見いだされた生体分子やメカニズムの中から、先行治療薬に比べて高い効果を示すポテンシャルがある新規創薬標的を適切に選定できる「創薬標的選定能力」が養成されると考えられる。それだけに獲得障壁が高く、所有していれば競争優位となると考えられるのである。
「創薬標的選定能力」を有した研究者の同定は、製薬企業や、創薬を目指す大学等研究機関にとって重要だが、「創薬標的選定能力」の高さはどう評価できるのだろうか?大学と企業研究者の共著論文数による“connectedness”の測定(Cockburn & Henderson, 1998)、論文と特許数両方の計測による“パスツール型”の測定(Baba et al., 2009)、“star scientist”の同定(Zucker, Darby, & Armstrong, 2002)などが有用な可能性はあるが、研究者の論文と特許の引用数は負の相関を示す(Gittelman & Kogut, 2003)、star scientistは特許の引用数に正の影響を与えない(Hess & Rothaermel, 2011)との報告もあり、有用性は懐疑的である。また、生体機能への習熟度と創薬応用への洞察力は、論文数や特許数、その引用数といった指標よりも精緻な測定法が求められるとも考えられる。「創薬標的選定能力」の評価法については今後の課題である。
4.3 本研究の意義学術的見地からは、創薬研究の競争優位に影響を与える可能性のある要因として「創薬標的選定能力」という新しい概念を提示したことが本研究の意義である。本研究は、基礎研究成果が有する応用可能性は自然に認識できるものではなく、応用可能性を正しく見極めるには基礎研究遂行能力そのものとはまた別の能力が必要である可能性を示した。その醸成には応用を指向した基礎研究の蓄積が必要であり、その能力を有する研究者は限られる。それ故、創薬において競争力と成り得る能力である、という見方である。先行研究は、創薬における基礎研究の重要性と、基礎研究を理解するためのサイエンス吸収能力の重要性を指摘してきた。「創薬標的選定能力」は、吸収能力の研究の中で概念化されているrealized absorptive capacity(外部知識をイノベーションへと活用する能力)に包含される、との考え方も出来るが、創薬という典型的なサイエンス型研究開発において、基礎研究を創薬応用につなげるために重要な能力が実際にどういった能力なのか、を具体的に明らかにし、その能力を養成するための要因を考察したという点において、本研究は新規性があると考える。日々膨大な量の研究成果が論文や学会等で発表され、そのうち産業応用される基礎研究はごく一部であろうこと、本稿の事例で示したとおり、仮に同じ基礎研究知見を知っていても、それが内包する創薬応用可能性を正しく見定めて創薬標的として選定出来る能力には研究者間で差があること、を考えると、「創薬標的選定能力」は、創薬を行う研究者が、ライバル研究者に先駆けて新薬開発に成功するために重要な能力と考えられる。
実務的見地からは、「テーマ選定能力」を有する研究者をどうやって育成していくのか、が課題となろう。アカデミアは、生命現象の理解を深める基礎研究を実施するのが一義的な目的であり、一方、製薬企業は創薬応用研究を実施して継続的な開発パイプラインを生み出す必要がある。したがって、生体機能の解明を目指す基礎研究と、疾患機序や治療薬のメカニズムを調べる研究を、一人の研究者が並行して実施するモチベーションを高める仕掛け作りが求められる。例えば、疾患研究や治療薬のメカニズム研究を専門に行う公的研究機関や部門を設けて、本能力を有する研究者を育成する仕組みを国が支援する、などの取組みが有用かもしれない。
4.4 本研究の限界本研究の限界は、事例に基づく解析のため議論の一般化が可能かどうかという点である。本研究は、シングルケーススタディであり、トートロジーに陥る危険性を十分認識しなければならない。本研究では、共同研究の打診を受けた殆どの創薬研究者が、PD-1阻害の創薬応用可能性を見抜けずに謝絶したことを一つの論拠として、「創薬標的選定能力」の存在を論じているが、具体的にどのような判断が働いて謝絶したかの経緯を明らかには出来ていない。従って、「創薬標的選定能力」の重要性をより主張するためには、「創薬標的選定能力」が低いとはどのような事例なのか、それが創薬の成否にどう影響するのか、について、更なるカウンターアーギュメントが必要であると考える。また、事例の積み上げと共に、本稿で論じた「創薬標的選定能力」を何らかの形で代理変数化し、定量的な手法で本稿の主張の妥当性を検証していく必要もあろう。加えて、創薬の事例を分析対象としているが、本稿の主張がサイエンス型産業に広く適用できるかどうかにも検討が必要である。本研究では、応用を指向して自然現象の根本的理解を進める研究を、生体機能を解明する基礎研究と並行実施することが「創薬標的選定能力」の醸成に必要でないかとの議論を展開したが、あくまで必要条件の一つにすぎず、「創薬標的選定能力」を身に付けられる研究者の特性を更に明らかにしていく必要がある。特性を明らかにすることで、基礎研究を製品化に繋げるために必要な能力要素を考察でき、サイエンスに依拠した研究開発の学術的研究に貢献が期待できる。また、「創薬標的選定能力」を有する研究者を効果的に同定できたり、「創薬標的選定能力」を強化する施策を立案できたりするため、実務面での貢献が期待できる。
本研究では、創薬において「創薬標的選定能力」の有無が創薬を行う研究者の比較優位につながることを事例分析より示した。また、その能力の養成には、生体機能の解明を目指す基礎研究と、応用を指向して自然現象の根本的理解を進める研究を並行して実施することが効果的である可能性を指摘した。創薬に代表されるサイエンス型研究開発において、基礎研究の重要性やアカデミアとの結びつきの重要性は指摘されてきたものの、基礎研究成果の中から応用に結び付く成果を正しく選択・同定するプロセスに能力差が存在し競争優位の源泉になりうる、という考え方はこれまで提示されてこなかった。本研究がサイエンス型研究開発における学術的、実務的貢献の一助になることを期待する。