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論文
企業家史におけるエフェクチュエーション理論とCSV概念による統合的分析
―社会リスクの変化とビジネスオポチュニティ:三好武夫・後藤康男―
片山 郁夫
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2025 年 22 巻 p. 1-38

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要旨

本研究では、日本の損保業界にあって積極経営で知られた安田火災の二人の企業家、三好武夫と後藤康男の戦略行動を分析する。三好は、モータリゼーション勃興期における極めて不確実性の高い環境にあった自動車保険事業への積極的な転換を図り、交通事故による社会的損害を軽減することに注力した。その際、彼はエフェクチュエーション理論に相当する意思決定を行い、限られた資源を活用しながら不確実性をコントロールする戦略を実行し、業界の大多数の企業がリスクを脅威であると捉える中で、機会と捉えることに成功した。一方、後藤は、CSV概念に通じる手法により、経済的価値と社会的価値をともに実現するべく、総合金融機関化、CSR活動、環境問題への取組みなどの戦略を実行し、企業としての長期的成長に貢献した。これらの戦略行動は、安田火災の企業価値向上に寄与したと考えられる。本研究は、企業家の戦略行動を読み解く上で、エフェクチュエーション理論とCSV概念の有効性を示すとともに、両者のプロセスを統合したモデルによる新たな解釈を提示する。

Abstract

This study analyzes the strategic actions of two entrepreneurs, Takeo Miyoshi and Yasuo Goto, who led Yasuda Fire & Marine Insurance Company (now Sompo Holdings, Inc.) in Japan’s postwar non-life insurance industry. Miyoshi, operating in the highly uncertain environment of Japan’s motorization era, spearheaded a shift into automobile insurance to mitigate social damage from traffic accidents. His decision-making process aligns with effectuation theory, as he leveraged limited resources while controlling uncertainty, successfully viewing risk as an opportunity rather than a threat. Conversely, Goto adopted a CSV (creating shared value) approach, implementing strategies that balanced economic and social value creation. He advanced the company’s long-term growth through diversification of financial services, corporate social responsibility (CSR) initiatives, and environmental programs. These strategic actions are believed to have enhanced the insurer’s corporate value. This paper demonstrates the utility of both effectuation theory and CSV in understanding entrepreneurial strategy, while also proposing a novel interpretive model that integrates both frameworks for a more comprehensive analysis of corporate leadership in uncertain environments.

1.  序論

1.1  研究の背景と目的

本研究では、高度経済成長期の日本の損害保険業界において、独自の経営スタイルで業界をリードした安田火災(現・SOMPOホールディングス、損害保険ジャパン)の経営トップであった三好武夫と後藤康男の企業家活動を取り上げる。

まず、三好が複雑で不確実で不透明な環境変化に対してどのように戦略的な意思決定を行い、創造的な経営構想力を発揮したのかを解明するために、エフェクチュエーション(effectuation)理論を用いた分析を行う。また、後藤が主導した社会課題を捉えて企業としての社会的価値と経済的価値を両立させる戦略展開の過程を検証するためには、CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)概念を用いる。これにより、彼らの経営活動や戦略の企業家史における位置付けをより深く理解する一助とする。

なお、本研究は、企業家史研究の特性に基づき、あらかじめ仮説を設定せず、実証的な分析により事例を探求するアプローチを採用する。特に、企業家の戦略的な意思決定や行動には、事前に予測しがたい要素が多く、エフェクチュエーション理論やCSV概念といった複雑で動的な理論を適用する際には、柔軟に分析する必要があるため、仮説の枠にとらわれず、事例から得られる洞察を重視する。

1.2  研究の意義

本研究では、わが国の企業家史の先達の研究を意識しながらも、一般的には注目されることの少ない損害保険業界、それも業界トップではなく、当時業界2位の安田火災及び同社の歴史の中でも転換点といえる時期に経営トップにあった三好武夫と後藤康男に焦点を当てる。また、彼らの企業家活動、経営戦略の分析では比較的新しい経営理論や概念を用いて読み解くことを試みた。本研究の成果は、当該企業の経営環境や企業家活動の気づきだけでなく、現代の企業や企業家の活動に対しても知見を提供するものである。

1.3  安田火災の歴史と業界の動向

(1)  安田火災の創業と成長

安田火災の前身会社の東京火災は、1888(明治21)年設立のわが国最初の火災保険会社である。

設立願書では、「あまねく都下の災害を排除し、府民の安穏を図り、会社も応分の利益を収受するため、火災保険会社を創設したい」1と保険事業を通じて社会の繁栄に貢献する決意を示した。また、当時の郵便報知新聞には、「わが火災保険会社はこの多数の損害を弁償し、社会の幸福を増進せんがため、(中略)創立事務所を設置せり」2と開業広告が掲載されている。いずれも、火災被害という災害に対して、火災保険を通じて社会の繁栄・幸福を図るという創業者の志が込められている。

その志の表れが自前の消防組である。東京火災は、業界で唯一私設の消防組を持つユニークな火災保険会社だった。いわゆる「町火消し(まちひけし)」、今でいう「消防団」を自社の組織に置いていた。消防組は、「契約者を24時間365日体制で火災から守るという献身的なお客さまサービスの精神」3で結成されたという。

「吉原の大火」を描いた錦絵では、東京火災の社章「とびぐちマーク」を背に染めた半被(はっぴ)を着て消火活動に従事する同社消防組の姿がある(図1)。「とびぐちマーク」のデザインは、消火で使う鳶口(とびぐち)をクロスし、縦にはInsurance(保険)のIを重ねて、火に対する水を表現した4。また、この「とびぐちマーク」を刻印した木板は、火災保険の契約者の門口に取り付けられ、金閣で知られる鹿苑寺の山門などに残っている(図2)。

図1 明治30年の吉原大火錦絵

(出所)安田火災百年史(1990)。

図2 門口に取り付けられたとびぐちマークの名残り

(出所)筆者撮影(撮影日 2007年8月8日、2007年10月11日)。

志高く創業した東京火災だが、1890(明治23)年の「横須賀の大火」に続き、1892(明治25)年の「神田の大火」という大災害に見舞われ、多額の保険金支払義務を負うこととなったことで、深刻な経営危機に陥った。最終的には、当時の社長、前任社長が私財を提供して多額の保険金支払いをしたが、財務基盤が揺るぎ、1893(明治26)年に安田善次郎の救済を受け、安田グループ傘下になった5

安田善次郎による経営再建は大きな効果をもたらし、業績は急速に回復していった。その後も様々な環境変化がありながらも着実に東京火災は成長していった。

第二次世界大戦による戦局が厳しさを増す中、損保業界も国策として再編されることになり、1944(昭和19)年2月、東京火災、帝国海上、第一機罐の3社が合併して、安田火災海上保険株式会社(以下、安田火災)となる。

安田火災は、損保業界の発展とともに一定の業績を挙げてはいたが、その伸びは業界他社を下回っており、特に業界トップの東京海上との比較でいえば、1950(昭和25)年に対東京海上の73.5%だった全種目正味保険料が、1960(昭和35)年には57.8%に落ち込むなど低迷著しい状況にあった。本研究で取り上げる企業家三好武夫は安田火災がこのような厳しい状況にあった1960(昭和25)年に社長に就任し、その立て直しを図ることになった。

なお、2002(平成14)年、安田火災は、日産火災、大成火災と再編され、株式会社損害保険ジャパン(損保ジャパン)となった。その後、2010(平成22)年に、損保ジャパンと日本興亜損保が経営統合して誕生した持株会社が現・SOMPOホールディングスであり、2014年に損保ジャパンと日本興亜損保が合併し、商号変更を経て生まれたのが、現・損害保険ジャパン株式会社(損保ジャパン)である6

(2)  損保業界の戦後の動向

戦後の損保業界は保険資源の戦災による喪失で苦境に陥り、火災保険に注力するところから再建を模索していた。しかし、対象となる物件が少ない状況での営業活動だったため、リスクの高い物件の保険引受も行われるようになり、各地で火災事故や大火が発生する事態に陥った。損保業界は、火災保険料率の引き上げを突破口にして事業の再建を図るため、各方面に要請し、1947(昭和22)年には大幅な料率引き上げが実施された7

1952(昭和27)年、サンフランシスコ条約の発効、国際通貨基金の加盟などを経て、日本経済が正常化するとともに、業界各社の損害率も安定していき、1955(昭和30)年には業界全体の元受正味収入保険料は戦前規模を上回るようになった。

一方、モータリゼーションの進展による自動車保有台数の急激な増加で交通事故が劇的に増加し、被害者救済が社会問題化していた。そのため、自動車保険料率の水準が実態に追いつかず、損保各社の経営を圧迫していた。1970(昭和45)年、ようやく自動車保険料率の実態ベースへの引き上げが実現し、業界は自動車保険の成長とともにその規模を拡大するフェーズに入った。

その後は、企業保険分野、大衆保険分野ともに世の中のニーズに応える保険商品・サービスを開発・展開していく中で損保業界は発展していく。中でも消費者ニーズに対応した商品として支持されたのが、補償と貯蓄を兼ねた「積立ファミリー交通傷害保険」に代表される積立型保険である。積立型保険は当初は、補償が主で貯蓄は従であったが、日本経済・社会にのちにバブルといわれた投機的風潮が強くなる中で、主従は逆転し、金融商品としての性格を強く帯びるようになり、損保業界は金融他業界との競争を経て資産規模を急拡大していった。

戦後の日本の損害保険業界は、いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる行政指導体制のもとで、約50年間にわたり20社体制を維持してきた。しかし、その後1990年代半ば以降の商品・保険料の自由化や業界再編の波を経て、現在では、東京海上ホールディングス、MS&ADインシュアランスグループ、SOMPOホールディングスという3つの大手グループが中心となる体制へと移行している。

2.  先行研究レビュー

2.1  企業家史の研究

企業者と企業家はほぼ同義であるが、本研究では、近年の一般的な理解にしたがって企業家を用いる。企業家史の研究は、本格的には1948年にハーバード大学内に「企業者研究センター」が設けられたことが始まりである。その後、1960年代以降、日本では企業者史の方法論に関する研究や企業家に関する実証的研究や類型化の研究が進展した8

ヒルシュマイヤー・由井(1977)は、戦後活躍した経営者・企業家を「財界指導者」、「社員出身の専門経営者」、「戦後の企業家」、「中堅的企業の経営者」と4タイプに分類した。また、さらに「戦後の企業家」を「会社の再建者」、「戦前からの中小規模企業の創立者で戦後成功した者」、「未知の技術開発で新たなブランドを確立した者」の3つに類型化した9

佐々木(2001)は、ヒルシュマイヤー・由井(1977)の分類を時代に合わせて現代化し、特に戦後日本の主たる企業家の多様な役割やリーダーシップの特徴を「事業創造型リーダー」、「企業再生型リーダー」、「産業界のリーダーまたは財界のリーダー」に類型化した10。この発展は、経営者・企業家に関する類型を新たな社会経済環境における役割やリーダーシップの視点から再解釈し、新たな理解を加えた。

本研究では、三好武夫と後藤康男の活動が、既存の企業家史で取り上げられる企業家と異なる視点として、昭和から平成初期にかけての経済環境や社会リスクをいかにして事業機会と捉えたかについて、新たな視点を提供することを目指した。例えば、彼らは高度成長期からバブル崩壊後の停滞期にかけて、社会的リスクを事業機会に転換する独自の戦略を展開しており、戦後の企業家史に対して新しい視点と示唆の提供が期待される。

なお、長谷川(2019)は、三好武夫を対象とした企業家史研究において、三好の拡大均衡戦略及び自動車保険に対する政策転換を詳細に分析し戦略的背景と意義について言及している。また、企業家史ではないが、片山(2019a)片山(2019b)では、戦後の自動車保険をめぐる企業間競争と協調に関する研究を行う中で損害保険会社の比較研究とともに安田火災の企業戦略を分析している。

本研究では長谷川(2019)片山(2019a)片山(2019b)の研究成果を受け入れたうえで、異なる観点を加えて三好武夫と後藤康男の企業家活動を捉えていく。

2.2  エフェクチュエーション理論に関する研究

Sarasvathy(2008/2015)は、原著(2008年)及び翻訳版(2015年)において、起業家が不確実な環境下で意思決定を行うプロセスを明らかにし、その思考方法としてエフェクチュエーション理論を提唱した。Sarasvathy(2008/2015)は、エフェクチュエーションが起業家の思考や行動の原則であることを重視し、起業家的行為の(記述的・規範的)理論ではなく、起業家的行為の論理である11とする一方で、「不確実な状況における意思決定の一般理論である」12とも述べている。

エフェクチュエーションでは、何ができるのかという「手段主導(means-driven)」に重きをおき、不確実性が高い状況でリターンを把握することはできないことから、損失を許容する範囲をコミットする。また、予測的なアプローチではなく、ステークホルダーとのパートナーシップ関係の構築に取組み、パートナーがもたらす新たな手段や目的を取り入れながら、機会コストや精緻な競合分析ではなく、コミットの意思がある全てのステークホルダーとの関わりを生かす。また、想定外の事態が起こっても、それを梃子として活用し不確実な状況に適応していく。以上のプロセスを実行しながら、コントロール可能な行動に注力することで、未来を切り開く。この一連のプロセスは5つの原則と呼ばれている13

一方、Sarasvathy(2008/2015)は、エフェクチュエーションと対比される考え方として、コーゼーションを挙げた。これは、未来を予測可能であり、目的が明確であり、経営環境が企業活動から独立している場合に有効とされる。エフェクチュエーションは、未来を予測不可能で、目的が不明確であり、経営環境が企業活動によって変化していく際に有効である14

Sarasvathy(2008/2015)は、起業家は、コーゼーションとエフェクチュエーションのアプローチを組み合わせながら用いていると指摘する。この点については、吉田(2018)は、市場創造の経験を持つマーケターはエフェクチュエーションに基づく意思決定とコーゼーションに基づく意思決定を同時に行っており、両者は排他的関係にはないと述べている。また、Kuriki(2021)は、ビジネスモデルの研究において、価値を創造する段階ではエフェクチュエーションが用いられ、創造した価値を保持していく段階ではコーゼーションが用いられると述べている。いずれも、エフェクチュエーションとコーゼーションとは対立軸ではなく、同時に成立することも、使い分けにより補完性もあるとする。

本研究では、「起業家」を広い意味での「企業家」と読み替えて使用する。また、エフェクチュエーションとコーゼーションの補完性については、先行研究と認識を同じくするものの、本研究では、エフェクチュエーションに軸を置き、その論理を企業家の意思決定の理論枠組みとして活用するため、エフェクチュエーション理論と表現する。

2.3  CSV概念に関する研究

CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)は、Porter & Kramer(2011)によって提唱された概念で、企業が経済的価値と社会的価値の両立を目指すアプローチである。彼らは共通価値の概念を「(企業が)社会のニーズや問題に取り組むことで社会的価値を創造し、その結果、経済的価値が創造される」15、「企業が事業を営む地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら、みずからの競争力を高める方針とその実行と定義できる」16とした。Porter & Kramer(2003)の競争優位のフィランソロフィの議論を皮切りに、Porter & Kramer(2008)では従来型の受動的CSRではなく、戦略的CSRを推進する必要を訴え、最終形としてPorter & Kramer(2011)でCSV概念を提唱するに至ったのである。

CSV概念については、研究者によって評価が分かれることを指摘しておく必要があるだろう。長谷川(2014)は、CSV概念を企業事例の検証によって、企業と社会に有意な成果をもたらすことを確認し、経営史や競争戦略論の研究に新たなフレームワークを提供する可能性があると指摘した17。また、足立(2018)は、CSVは企業の本業以外の社会貢献活動の意義を軽視しており、過大評価せず広義のCSRの一環として活用すべきと指摘する18。また、岡田(2015)は、「既存の戦略理論の完全な否定ではなく、発展・進化としてとらえることもできる。(中略)企業は、より積極的に社会的・環境的価値の創造を本業の事業活動全域に織り込んでいけるかどうかで差がつくだろう」19とCSVの意義を認めつつも、いくつかの批判の存在を示した。岡田(2015)は、CSV自体が新たな概念ではなく、先行する研究があるという点、また、より本質的な批判として、「企業がCSVの追求を免罪符にして、企業にとっては規範的責務であるCSR自体への意識を低め、努力を怠ってしまうのではないかという危惧」20を指摘している。

以上のCSV概念に関する肯定的・批判的議論は、CSVが企業の競争優位をもたらす可能性に対する期待と疑問の表れであると考えられる。実践企業が数多く存在する一方で必ずしも十分な実証が行われていない状況は課題といえるだろう。

本研究では、諸議論を認識したうえで、CSV概念を損保業界の企業家の戦略行動分析に使用する。損保事業は、世の中に存在する様々なリスクによってもたらされる経済的損失に対して、海上保険、火災保険、地震保険、自賠責保険、自動車保険などを通じて軽減・転嫁・解消する仕組みである。これは社会的課題の解決を図りながら、企業収益を追求するというCSVの概念と整合性が高いといえる。筆者は、このことから、損保事業がCSVを事業の本質に持っていると考えている。その意味では、CSVは三好武夫と後藤康男の戦略との関連性は高い。特に、後藤康男の戦略のうち、CSR活動や環境問題への取組みをCSVの観点から分析し、彼の経営戦略がどのように企業価値の向上につながったのかを捉えていく。

2.4  事業機会の認識に関する研究

Shane & Venkataraman(2000)は、起業を活性化する重要な要素として事業機会の認識に関する概念を提唱した。このため、多くの研究者が企業家、企業、事業機会などの視点から、この課題に取り組んできた21。企業家が市場で未発見の機会をいかに見出し、事業展開に結びつけるかを理解する理論的枠組みとして、この概念は重要である。企業家が事業機会を発見力と行動力によって新たなビジネスチャンスをいかにして創出するかという洞察を深める。

本研究では、三好武夫と後藤康男の戦略を分析するにあたり、事業機会の認識の重要性は認めつつも、主として不確実性の高い環境における意思決定プロセスや、社会的価値と経済的価値の創出に焦点を当てているため、事業機会認識の概念を理論枠組みとして使用しない方針とする。

3.  研究の方法

3.1  研究デザイン

本研究は、質的研究を基盤とした事例研究のアプローチを採用している。対象となるケースは、安田火災の積極経営を牽引した経営者、三好武夫と後藤康男の戦略行動であり、それぞれの企業家活動の理解を深めるための詳細な分析を実施する。特に、エフェクチュエーション理論とCSV概念を適用して、それぞれの戦略的な意思決定のプロセスを明らかにする。

3.2  データ収集と分析手法

データは主に、損保業界に関する統計資料、ディスクロージャー資料、新聞記事、損保会社の社史、経営者語録、経営者インタビュー、学術論文などの既存のデータから収集・分析した。具体的には、企業家の戦略行動に関する主要な要素を抽出し、それらの特徴やパターンを理論的枠組みに基づいて考察する。

3.3  事例研究のアプローチと比較分析の方法

三好武夫と後藤康男の経営戦略を比較分析するために、事例研究のアプローチを採用し、それぞれの事例をエフェクチュエーション理論とCSV概念の観点から評価した。両者の戦略比較では、理論的枠組みを基にした定性的な比較分析を行い、共通点や相違点及び企業の戦略成果にどのような影響をもたらしたのかを検討する。

4.  理論的枠組み

4.1  エフェクチュエーション理論

(1)  理論の基本原理と背景

エフェクチュエーション理論は、Sarasvathy(2008/2015)が熟達した企業家への調査で発見した意思決定の共通思考様式である。企業家は、不確実な環境でコーゼーションではなく、手持ちのリソースや偶然の機会を活用し、柔軟な戦略形成を重視する。

(2)  5つの基本原則

この理論では、企業家は「利用可能な手段」を基に意思決定を行い、予測困難な機会に柔軟に対応する。以下の5つの基本原則22を通じて、企業家はリソースの制約や環境の不確実性に対応しながら、成功を目指す。

「手中の鳥の原則」は、「目的主導(goal-driven)」ではなく、「手段主導(means-driven)」の行為の原則であり、企業家は手元のリソースを最大限に活用する。三好武夫は、戦後の自動車保険市場へ進出する際に限られた資源をどのように生かしたのかを検討する。

「許容可能な損失の原則」は、期待利益を計算したうえで投資するのではなく、許容できる損失を事前にコミットすることである。三好がどのようにリスクをコントロールしながら、新市場に挑戦したのかを評価する。

「クレイジーキルトの原則」は、信頼できるパートナーと交渉し、協働することに重点をおく。三好が他企業や関係者と連携し、自動車保険市場を開拓したのかを検討する。

「レモネードの原則」は、予期せぬ事態が発生したとしてもそれをチャンスに変えることである。三好は、予測不可能な経済や社会の変動をビジネス機会に活かしたと考えられる。

「飛行機の中のパイロットの原則」は、未来はコントロール可能であるという信念を持つことである。三好はどのような信念で市場を開拓し、新たな業界基準を作り出したのかを検討する。

これらの原則に基づき、三好がモータリゼーションの不確実な環境下で、どのように意思決定を行い戦略展開を進めたのかについて具体的かつ体系的に分析する。

(3)  学術的意義と本研究における適用

エフェクチュエーション理論の新興市場や不確実な環境における有効性に鑑み、本研究では、三好武夫が安田火災の成長を期し、モータリゼーションの潮流をつかみ、自動車保険市場を開拓していった戦略分析に本理論を適用する。

4.2  CSV(Creating Shared Value)概念

(1)  基本原理と背景

Porter & Kramer(2011)は、従来の資本主義では、企業の利益と公共の利益はトレード・オフであり、低コストの追求が利益の最大化をもたらすという考え方が支配的だったと指摘し23、企業が事業を通じて社会問題を解決しつつ競争力を高めるCSV概念を提唱した。つまり、CSV概念は、従来型のCSRにあった企業評価の向上を主目的にするのではなく、社会的価値と経済的価値の双方を創造する戦略的アプローチである24

(2)  社会的価値と経済的価値の両立

CSV概念では、企業は、従来型のCSRを超え、社会問題を解決すると同時に自社の利益も追求する。これは、CSVが単なる慈善活動や社会貢献活動ではなく、企業の競争力を強化する戦略であることを意味する25Porter & Kramer(2011)がCSV実現の手段として示した3つの方法26で分析する。

「製品と市場を見直す」という点では、社会的ニーズを満たす製品やサービスの提供を通じて、新たな市場を創出し、競争優位を築く。この理論的枠組みによって、後藤康男が市場や製品戦略において社会的価値をどのように考慮したかを分析する。

「バリューチェーンの生産性を再定義する」では、サプライチェーンや製造プロセスを改善し、社会的価値と経済的価値を同時に高めていく。後藤がこれをどのようなプロセスで企業経営において社会的価値を重視したのかを評価する。

「地域社会にクラスターを形成する」については、企業が地域の経済や社会に貢献することで、地域全体の発展を支援する。これは単に企業自身が成功するということではなく、企業が地域全体の発展に向けて支援するべきだという考え方である。後藤の地域社会への貢献を理解分析する。

(3)  企業戦略としてのCSVの意義と本研究での適用

企業戦略としてCSVを採用する意義をPorter & Kramer(2011)は、次のように述べている。

「共通価値を創造できる最大のチャンスは、自社事業と密接に関連し、かつその事業にとって最も重要な領域で見つかるだろう。(中略)またその規模と市場での存在感から、社会問題に有益な影響を及ぼすことのできる領域でもある。」27

本研究では、CSVの枠組みを使い、後藤康男の総合機関戦略に加えて、CSR活動や環境問題への貢献活動の分析を行い、彼の戦略がいかなる形で企業価値向上につながったのかを明らかにする。

4.3  理論の統合と本研究への適用方法

本研究では、エフェクチュエーション理論とCSVの概念を統合的に活用し、企業家の意思決定プロセスとその社会的影響を包括的に理解するための相互補完的な理論的枠組みとして適用する。

まず、エフェクチュエーション理論では、企業家がいかにして不確実な環境で意思決定を行い、新たな機会を創出するのかにフォーカスしている。三好武夫の戦略を分析する際には、この理論を使い彼がいかにして限られたリソースを最大限に活用し、自動車保険という変化の激しい市場環境に適応したのかを探索する。

次に、CSVの概念では、企業がいかにして社会的価値と経済的価値を両立するのかが重要である。後藤康男の戦略を分析する際には、総合金融機関化及びCSR活動や地球環境保護活動を通じて彼がどのようなプロセスで社会的価値を創造し、ビジネスチャンスに転換していったのかを検討する。

この2つの理論を組み合わせることで、両者の経営戦略がどのような形で異なるフェーズで補完し合い、企業の持続的成長を実現したかを解明する。

5.  三好武夫の企業家活動と戦略分析

5.1  企業家活動

(1)  生い立ち

1907(明治40)年、三好武夫は松山市で運送業を営む父茂一、母ヒサの次男として愛媛県松山市に生まれた。三好は兄1人、弟2人、妹1人の5人兄弟だったが、3つ年長の兄が早逝したため、実質的には長男として育った。

父の事業は立ち行かなくなり、一家は大阪に転居、父は造船所で働いたが、三好が中学1年生のときに倒れ、1年の療養後に亡くなる。一家は親戚を頼って出身地の松山市に戻り、三好は松山中学、松山高校と優秀な成績を修め、東京帝国大学法学部に進学後も勉学に励んだ。

(2)  東京火災入社

三好は、1930(昭和5)年4月に東京火災(後・安田火災、現・損保ジャパン)に入社した。芙蓉グループの持株会社である安田保善社を受験し、傘下の安田銀行(後・富士銀行、現・みずほ銀行)への入社が決まっていたが、同グループ傘下の東京火災の南莞爾(当時の実質的トップ)から請われ東京火災に入ることが決まった28

三好は入社後営業部営業課で火災保険の営業に携わり、翌年総務部業務課に異動する。そこでは、出勤時にエレベータに乗った際に後から来た社長(安田財閥出身者)一行に三好を含む一般社員たちが追い出された経験は正義感溢れる三好の記憶に強く残った。また、部店長会議では最終的に業務課長の意見が採用されていたが、実は事前に周到な打ち合わせをしていたことを知る。出張先の旅館では、保険金詐欺紛いの密談をする男たちの隣室となり、幸いにも男たちは不正を断念したが、世の中は綺麗事だけでは済まないことを痛感するという経験をしている29

(3)  地方勤務と本社での戦時業務

三好は、本社で4年勤務したのち、1934(昭和9)年から7年間、前橋市、仙台市、新潟市などの地方勤務を経験している。仙台支店地方主任の時は、地方経済の実態や農村の貧しさを目の当たりにした。新潟では、実質的な新潟支店長として地元財閥との取引に成功する。先方と本社幹部の会食を地元料亭で催す際には、作法がわからず女中頭に頭を下げ全面協力を頼み込み乗り切ったという。

1941(昭和16)年、本社業務部業務課の副長となり、大蔵省の戦争保険の業務に携わった。大蔵省保険課は徴兵で人手不足になり、大手5社から1名ずつ同省嘱託として出向しており、三好もそのうちの一人だった30。政府関係の重要業務に従事していたことから徴兵は免除されている。

1944(昭和19)年2月、東京火災、帝国海上、第一機罐の3社合併により安田火災が誕生し、三好は企画部企画課副長となる。多くの社員が戦地に駆り出され、残る社員は僅かとなり、保険対象物件は激減し、事業が立ち行かない中、1945(昭和20)年8月に終戦を迎える。

(4)  戦後の混乱期を経て経営幹部に昇格

1946(昭和21)年2月、安田火災は危機打開のため、新役員体制を発足させたが、GHQの戦後体制の中で、財閥解体、兼職禁止、パージ(公職追放令)が行われ、翌1947(昭和22)年2月、4月には経営トップをはじめ大幅な役員体制の変更を余儀なくされた。

1947(昭和22)年3月、企画部企画第一課長に昇格した三好武夫は、新役員体制で檜垣文市の社長就任に尽力したとされる31。また、復員した社員の仕事もなく、インフレで物価が高騰し、人々の生活は困窮していたことから、物資の買い出し、斡旋によって、社員の生活を守ることに奔走した。当時の重要課題は厚生面だけでなく、安田財閥系の旧東京火災と旧帝国海上出身者の不満や分割問題にあった。三好は管理職兼職員組合中央委員長を1年間務め、安田火災の一本化に努力した。

1952(昭和27)年、東京営業第二部、翌年は東京営業第一部の次長を経て、1954(昭和29)年、秘書部長に就任する。

1956(昭和31)年、秘書部が改称され、人事部長となり、同年6月に取締役人事部長になった三好は、人材活用、人材確保に全力を挙げた。社員採用では社長面接を経て決定する方法に変更し、地方人材の把握や社員の意見にも耳を傾けた。

(5)  社長就任と三大経営方針

1963(昭和38)年、三好武夫は安田火災の社長に就任した。三好が社長に就任した当時、安田火災は、業界2位の歴史ある損保会社だったが、業績は低迷しており、業界1位の東京海上との差は大きく、業界3位の大正海上とは僅差でまもなく逆転されるとの声すらあった。三好は、就任直後の訓示で、「大いに働いてくれ、働かない人はちょっと横にどいてもらう」32と刺激的な言葉で檄を飛ばした。

三好が打ち出した経営方針は以下の3点である。

まず最初の経営方針は、拡大均衡である。これは、リスクを扱う損保会社は規模が大きくなければ顧客のリスクをしっかりと受け止めることができない。会社の規模が大きくなると、規模の経済が働き、収入保険料も拡大し、全体として収支がバランスし、赤字にはならないという発想である。

三好は拡大均衡を基本方針と位置付け、「拡大均衡政策とは、いわゆるボリュームを増やしていくことであるが、(中略)赤字を出しては意味がない。」33、「資本主義社会の中ではね、内容がよくたって小さいんじゃナンセンスなんですよ。(中略)大きな会社でなきゃ私は意味がない」34と語った。

次は、T号作戦である。業界トップの東京海上に追いつけ追い越せという意味を含んで同社の英語表記の頭文字「T」を作戦名に付けた。これは業績面と業界の既成概念や既存秩序を打破するという観点があった。日本損害保険協会(業界団体)の会長職はほぼ東京海上が慣習的に独占してきたのは典型例である。三好は、正攻法で協会長になれるよう努力していくことが大事だと周囲に語ったが35、自ら率先して行動し、その姿を社員に示すことで、業界を代表するような強い人材の育成に力を注いでいた。

最後は、安田火災ファミリー主義である。これは、社員と代理店を大切にするという趣旨で、社員に不幸があった場合、子供が一人前になるまで配偶者を雇用した実績は数多い。福利厚生では、主要なビルに診療所を設置し社員の健康を支援し、人事制度では、再雇用制度、終身年金制度、定年延長なども実施した。三好の父が病気で他界した際に周囲が支えてくれた経験や地方勤務で知った社会的弱者の実態などを踏まえ、弱者をサポートすべきだという発想に至ったのではないだろうか。

(6)  積極拡大策への転換

三好武夫が社長に就任したのは、日本経済が戦後の混乱期から復興期を経て高度経済成長期に入った時期だった。彼は、安田火災の安定と成長を期して積極的な拡大策として、自動車保険・不動産・人事に関する戦略の転換を決断した。これは、日本の経済成長にともなう損害保険業界の新たな課題に対応するためのものだった。

①自動車保険の積極策への転換(積極的進出)

1950(昭和25)年から1995(平成7)年までの45年間の大手5社、東京海上、安田火災、大正海上(三井)、住友海上、日本火災のマーケットシェア推移を見てみよう(図3)。

図3 損保大手5社の全種目マーケットシェアの推移(1951–1995年)

太枠は三好武夫の社長在位期間(1963–1980年)

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)』、『損害保険戦後統計』を基に筆者作成。

1950年代から1960年代初めまでの損保業界において、業界トップ企業は東京海上で、安田火災は2位ではあったが、3位以下との差は僅かになっていた。

安田火災は、旧安田財閥の芙蓉グループに属していた。企業グループとしては、三菱、三井、住友といった旧財閥に属する損保会社がグループ内の強固な関係性と多数の有力企業を背景に事業ドメインを企業保険においていたのに対し、芙蓉グループ内企業の関係は緩やかであり、安田火災は企業保険では劣後していた。このため、安田火災は家計・個人を対象とする大衆保険の将来性に注目していた36

1963(昭和38)年12月、三好は、「自動車保険政策転換について」と題する社長通達で、自動車保険37に対する従来の消極姿勢を180度転換する決意を明らかにした。三好は、「自賠責保険の社会的使命は、社会の中堅層をなす自動車所有者はもちろん、一般の人々にまでも広く認識されてきた。この期におよんで、なおかつこの保険を敬遠するならば、(中略)社会の信用を失墜する」38と自動車保険と損保会社の社会的使命を強調した。

当時、損保業界は護送船団方式と呼ばれる同一商品・同一保険料でビジネスを展開し、企業行動も同質的であったが、三好は業界の風潮に逆らい、各社が消極的姿勢にあった自動車保険に徹底的に取組んだ。

1960年代の日本ではモータリゼーションの急速な進展により、交通事故による死傷者が急増し、「交通戦争」と呼ばれるほど深刻な社会問題となっていた。1960(昭和35)年には330万台だった自動車保有台数が、1970(昭和45)年には約1,900万台に増加し、事故による死傷者数も30万人から約100万人に跳ね上がった(図4)。保険事故と支払保険金も急増し、損保各社の収支は急激に悪化していった。業界各社が自動車保険契約の引受けに消極的な姿勢をとる中、三好は経営トップとして相当な覚悟で自動車保険への積極転換を決断したのである。

図4 自動車保有台数と死傷者数の推移(1960–1970年)

(出所)『自動車保険の概況』『警察庁交通局統計』(各年度版)を基に筆者作成。

しかし、積極転換の浸透は容易ではなかった。安田火災元専務の石河正樹は、「経理部長が会議から戻ってきて、『おーい、自動車をやるんだってよ!』と言って会議の資料を机に叩きつけたという話を聞きました。自動車保険なんかやったら会社が潰れてしまう。そんな時代だったのです」39と当時の生々しいエピソードを語っている。三好自身も「社員間における相違もありますし、役員会の意見の相違もあります。どっちがよいかとしょっちゅうケンカをした」40と語り、さらに「毎年赤字続きで、本当に社長は会社をつぶす気かと言われておりました。」41と述べている。加えて、自動車保険の担当取締役までもが「社長は自動車保険をやれやれと言っているが、とんでもない話だ。あんなものをやったら会社が潰れちゃう。赤字になるから絶対やるな」42と指示をするほど役職員の大多数が三好の方針に疑念を抱いていた。

三好は、約2年をかけて、根強い懐疑論や反対意見を抑え込み、積極転換を推進した。三好は、「自動車保険は、危険だとして取組まなかったものを方向転換したのであるが、社員、代理店が積極的に取組むまでに2年かかり、実際に数字の上に表れてきたのは1966(昭和41)年頃である。ところが今年度(筆者註:1972年度)を見るとどこの会社も自動車をやらねばもうからないということで積極的に取組んでいる。6~7年のうちに情勢は一変した」43と自らの決断を振り返っている。

三好は、モータリゼーションの勃興と自動車保険がいかなる方向に向かっていくのかという極めて不透明で不確定な状況において、米国での自動車保険の実態を徹底的に調査・分析し、将来的な成長を見越していた。特に、自動車保険事業には収益が周期的に変動する特性があり、好不況、料率の調整、契約の引受技術などと密接に関わりながら変動することに気づいていた44。「アメリカの場合、事故率つまり罹災率は、大きく波打っています。下がってきて、また上がる、これを繰り返すのです。(中略)不況に入ると事故率は下がるのです。」45、「3年なり、5年なりの傾向線を見てね、事故率を推定して、料率も推定するというように、長期的に見ないといけない」46と指摘している。

また、三好のリスク管理の根幹には、算定会料率への信頼と期待があった。自動車保険や自賠責保険については、自動車保険料率算定会(1964年設立、以下「自動車算定会」)が算出する保険料率(算定会料率)を遵守することが損保会社に義務づけられていた。算定会料率は、膨大な統計データに基づく厳格な検証により、客観的かつ適正に算出されるが、急激なモータリゼーションの進展により、算出された料率水準は実態と合わなくなっていた。三好は自動車算定会の理事や理事長を歴任し、算定会料率の仕組みに精通していたため、料率水準の適正化が将来的には実現すると考えていた。この点について、三好は「損害率に問題があれば、料率調整、引受技術、規模の利益によって解決する」47と述べている。

安田火災元社長の有吉孝一は、「自動車保険の採算が悪化しても算定会制度の下では、いずれ料率が引き上げられる」48と三好自身から聞いたという。しかし、有吉も当時の状況を、「大蔵省の厳格な監督下にあったから保険会社が困る(経営悪化)としても、すぐに料率引き上げは実現しない。拡大策をとりながらも、自動車保険の損害率悪化の対策に取組む忍耐の歴史が続きました」49と述べている。それでも三好は、「今は赤字だけど、将来は黒字になる時代が必ず来るんだから、それまで赤字でもいいからとにかくやっておこう、黒字になってからやっては間に合わない」50と社内を鼓舞した。

さらに、三好は、自動車保険のリスクをどれだけ負うことが可能かについて、「火災保険がどのくらいあるかによって、自動車保険がどのくらいやれる、という計算になっている(中略)火災保険のボリュームによってその会社のスケールが決まってきます。」51と述べている。これは、火災保険に強い安田火災は収益基盤がしっかりしているので、収支困難な自動車保険をやり続ける力があるので、迷わず自動車保険事業に取組もうという社内を鼓舞するメッセージだと考えられる。

行政サイドは社会的需要が高まる自動車保険の適正な普及を望んでいた一方で、損保会社の経営リスクが増し、立ち行かなくなることに懸念を抱いていた。前述の石河は、「(大蔵省保険二課長補佐の)損保会社の社長はどこの会社も自動車保険については腹が据わっていない」52という発言を自身の日記に記録しており、行政も消極的な業界対応に不満を持っていたことがわかる。また、損害率の高い一部の車種の自動車保険契約の引受を拒否する引受規制が問題になった際には、大蔵省銀行局長から警告文書が出されている。こうした中で、安田火災は積極姿勢を継続し、引受規制に関しても、他社に比べて緩やかな運用にとどめ、市場動向を見ながら戦略を調整した。このような自動車保険の社会的な需要に対応する姿勢は、行政にとってもポジティブに受け止められていたと推測される。

三好は販売体制とともに損害査定体制の強化が自動車保険の拡大には不可欠であると考え、店舗網を拡大するとともに、優秀な人材を配置し、賠償主査や査定主査などの保険支払いに関する専門家を育成した。また、既存の代理店ネットワークに加えて、代理店設置運動を推進し、優良整備工場代理店を組織化し、自動車販売会社(自動車ディーラー)との取引を強化するなど迅速に販売体制と事故処理体制を強化していった。

1971(昭和46)年頃、安田火災など数社が、今日の自動車保険では一般的となっている示談交渉サービスの導入を目指していた。しかし、最終的には業界全体での検討に移行した。事故処理体制が未整備の損保会社への対応や、弁護士法72条の非弁活動(弁護士以外の者による報酬目的の法律行為の禁止)との調整などが必要であり、サービスの実現には1976(昭和51)年まで時間を要した53

三好がとった戦略は、他の損保会社とは一線を画すものだった。例えば、東京海上では、「収益性を強調しすぎたために、自動車保険は所詮儲からない保険」54という認識が浸透し、保険料水準が改善した後も悪影響を及ぼしたとする。大正海上は、「首脳陣は重大な情勢判断の誤りを犯していることに気がつかなかった。(中略)2位の座に手が届くところまで追い上げていただけに、この時期の判断ミスは痛恨事であった。」55と社史には異例な反省の弁を記している。住友海上は、「自動車保険の将来に現在のところ自信が持てない」56と慎重姿勢を貫いた。日本火災は、「火災保険に強いという伝統的体質を有していたから、その分、自動車保険に対する対応が慎重にならざるを得なかった。」57と社史で伝えている。

このように、業界各社の自動車保険に対する戦略やスタンスは全く異なっており、全種目の業界シェア、自動車保険のマーケットシェアにも反映している。また、自動車保険の収支状況を表す収支残率の推移では、業界各社いずれも苦戦が続いている。1970(昭和45)年には、大幅な料率の改定が実現し、収支残率は大きく改善している(図5図6)。

図5 損保大手5社の自動車保険マーケットシェアの推移(1951–1995年)

太枠は三好武夫の社長在位期間(1963–1980年)

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)』、『損害保険戦後統計』を基に筆者作成。

図6 損保大手5社の自動車保険収支残率の推移(1963–1972年)

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)』を基に筆者作成。

モータリゼーション期の自動車保険の外部環境変化のリスクを3つの時期に区分した表1は、片山(2019a)の損保9社を対象とする外部環境変化の認知(脅威・機会)を大手5社で作表し直したものである。

表1 損保大手5社の外部環境変化(自動車保険リスク)の認知の推移

損保会社 企業系列 業界順位(1960) 業界順位(1969) 外部環境変化(自動車保険リスク)の認知
1960~1964年 1965~1969年 1970年以降
全種目
(自動車)
全種目
(自動車)
1960年以降 モータリゼーション加速
収支悪化 収支悪化・
引受規制
大幅料率アップ
(転換点)
東京海上 三菱 1(1) 1(1) 機会・脅威 機会・脅威 機会
安田火災 芙蓉 2(5) 2(2) 脅威→機会 機会・脅威 機会
大正海上 三井 3(9) 3(5) 脅威 脅威 機会
住友海上 住友 5(8) 9(13) 脅威→機会→脅威 脅威 機会
日本火災 4(6) 7(9) 脅威 脅威 機会

(出所)片山(2019a),p.58の9社対象の推移を大手5社に絞り込み筆者作成。

表中の1960~1964年は、自動車保険事業の収支悪化により、業界全体に慎重・消極的な姿勢が支配的な中で、各社の自動車保険の環境変化に関する認識が大きく分かれていった。1965~1969年は、被害者救済目的の約款改正が実施され、自動車保険の収支悪化が常態化する。自動車保険契約の引受規制を実施するなど、業界として非常に厳しい時期となった。この時期のリスクを機会と考えるのか、脅威と考えるのかで、その後の各社の成長を分ける転換期になった。1970年以降は、自動車保険の保険料水準が採算レベルまで大幅な見直しがされ、全社が機会として認識を改めることになった。

②不動産の積極策への転換

三好は戦後変化した不動産投資の価値を見抜き、全国の営業店舗、事務本部ビル(コンピュータ・事務センター)、社宅、厚生施設などの充実に努めた。

本社ビルは、西新宿超高層ビル街の一角に1976(昭和51)年5月に竣工した地上43階・地下6階、延床面積12万4,438m2の大規模ビルである。側面がカーブしたデザインのシカゴのファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴビルをモデルとしつつ、日本の城の石垣をモチーフに安定感を表現した末広がりの形状からスカートビルとも呼称された。損保会社に相応しい耐震性を備え、3フロアの避難階を設けた防災ビルでもある。特筆すべきは、広大なフロア面積にも関わらず当初からテナントを入れずに全フロアを自社使用とした点である。三好は、安田火災が成長すれば、必ず全フロアが必要になると確信し、一時的なテナント収入に拘泥しなかった。実際、竣工後12年経過時点では、全フロアが自社とグループ会社で使用されており、三好の先見性を裏付けている。

また、社会還元の一環として、42階に東郷青児美術館を開設し一般公開している58。福利厚生の充実の観点では、食堂・喫茶室・講堂以外にも、職員の健康全般をサポートする目的で、36階に健康開発センターを設置、34階には歯科診療室も設置した59。これらの施設の充実は、安田ファミリー主義の実践とも考えられる。

③人事政策の実力主義への転換

損保は人材と信用のビジネスだといわれるが、三好は人事部長時代からの問題意識を社長就任後、速やかに実行に移した。学歴偏重主義から実力・能力主義へ転換し、旧制中学出身者を支店長に抜擢するなど象徴的な人事で全社の士気を上げたのである。

この背景には従来の本社重視から営業現場重視への転換があり、損保ビジネスが企業物件中心から大衆物件中心に変遷する潮流があった。人事政策の転換は三好自身が東京大学法学部卒のエリートであったことを考えると、違和感を抱く向きもあるだろうが、元来の庶民性や地方勤務の経験からくる現場の実態を踏まえた戦略といえよう。

以上、三好は、高度経済成長期、モータリゼーション発展期の損害保険業界において革新的な戦略を決断し、安田火災に持続的競争優位をもたらした。社長在任中の全種目マーケットシェアは8.8%から13.0%、自動車保険マーケットシェアは6.7%から12.8%、対東京海上比では全種目で53.3%から76.9%、自動車保険で37.2%から78.0%と極めて顕著な成果を挙げている60。不動産の積極転換は、信用を事業の基盤とする損保会社としての社内外の信用力を飛躍的に高め、人事政策での実力主義はへの転換は、多くの社員のモチベーションを向上させた。中でも自動車保険事業への積極転換は、安田火災の成長を牽引し、自動車保険市場での地位を確立させた。また、彼のリーダーシップは、業界全体が自動車保険の重要性を再認識する契機となり、単なるビジネス戦略の転換にとどまらず、リスク管理の精緻化や市場の成熟に貢献するものとなった61

次節では、彼がいかにしてこの戦略を形成し、実行に移したのかをエフェクチュエーション理論の視点から分析する。

5.2  エフェクチュエーション理論による戦略分析

三好武夫が安田火災(現・損保ジャパン)の社長として、当時の損保業界が消極的だった自動車保険事業への積極的な転換を決断した背景には、いくつかの要因があった。

まず、社長就任当時の安田火災の業界ポジションとそれにともなう危機感について考えよう。安田火災は日本最初の火災保険会社である東京火災を前身とし、旧安田財閥を起源とする芙蓉グループの損保会社でありながらも業容は低迷していた。業界2位こそ維持していたものの、社内では業界3位の大正海上に逆転されるのではないかという懸念が高まっていた。旧三大財閥系損保会社は、事業ドメインを企業保険においていたが、芙蓉グループの安田火災は、有力企業が少なく企業保険では劣後していた。三好は安田火災の将来に強い危機感を持ち、個人・家計を対象とする大衆保険、自動車保険に活路を見出すことになったと考えられる。

さらに、三好は日本におけるモータリゼーションの急速な進展と交通事故被害者の急増という社会的な課題に注目した。当時、急激な車両増加や道路インフラの未整備、そして国民の安全意識・危機意識の不足が重なり、自動車交通事故が多発し、保険金支払いが急増したことが損保会社の経営を圧迫し、業界には自動車保険の引受に対する消極的な姿勢が広がっていた。三好は、損保会社として社会からの信用を失ってはならないと主張し、自動車保険事業への積極的な転換を決断したのである。

この自動車保険事業への積極的な戦略転換をSarasvathy(2008/2015)のエフェクチュエーション理論の観点から分析することで、三好の戦略的意思決定の背後にある思考プロセスや行動原理をより深く理解することができるのではないだろうか。本研究では、三好の戦略的意思決定及び戦略行動が本理論の5つの原則62にどのように対応しているのかを分析する。

(1)  手中の鳥の原則

三好は、社長に就任した際、安田火災の業績低迷を打開するため、大衆保険に目を向けた。その中でも急速に需要が増加している自動車保険に注目し、この既存の保険商品に新たな成長の可能性を見出し、ビジョンに掲げた。これは、手持ちのリソースを最大限活用するという観点で、「手中の鳥の原則」に沿った戦略行動といえる。当時、損保業界全体では交通事故多発や収支の厳しさから自動車保険に対して消極的な姿勢が一般的であった。社内では、目的から逆算して考えるコーゼーション的思考を持つ者が多く、三好の改革的な方針に対する懐疑論や抵抗が見られた。

三好は、自動車保険のリスクを事業機会として積極的に捉え、全国に展開していた営業店舗や損害査定拠点、代理店のネットワークを活用した。さらに、販売体制、損害査定体制をより充実するべく、自動車保険販売の代理店を拡充し、販売チャネル兼事故車の修理工場でもある優良整備工場の全国組織化や自動車ディーラーとの取引拡大など自社のネットワークの強化を図った。このアプローチにより、三好の既存のリソースを最大限に活用・充実するという戦略は、許容可能な損失の原則にもつながっており、市場シェアの拡大を果たすことに成功した。

(2)  許容可能な損失の原則

三好は、自動車保険事業にリスクがあることを認識しつつも、損失を許容可能な範囲にコントロールする「許容可能な損失の原則」を実践した。

まず、戦略の前提には、安田火災が創業以来培ってきた火災保険事業の強固な基盤があった。彼は火災保険が生み出す利益でリスクの高い自動車保険の赤字を支え、自動車保険の積極転換を可能にする方針を示した。

また、戦略の実行においては、販売体制や損害査定体制など一気に整備することが困難なインフラを段階的に充実していった。その背景には、彼の戦略だけでなく、自動車保険に対する長年の消極的姿勢が染みついた役員・社員らに積極転換戦略を浸透させるために2年を要したこともある。ただし、これは戦略の遅れではあったが、体制整備やその後の戦略の加速への時間的猶予をもたらしたとも考えられる。

さらに、三好は、急激なモータリゼーションの進展により算定会料率が現実と乖離し収益が悪化している状況に対して、料率水準の適正化には相当な時間を要すると考えていた。

そのため、損害査定体制の強化や、米国での事例研究を基にしたリスク管理体制の整備を進めることで、保険金支払いリスクを低減しつつ、長期的な利益を見据えた戦略を実行した。

当時の自動車保険事業は極めて不安定で不確実性が高く、多大な投資を必要とすることから、成功を確信する経営者はほとんどいなかった。三好は、許容可能な範囲内での投資を行い、損失を最小化しつつ、自動車保険事業への積極転換を果たした。このアプローチにより、万が一の失敗が会社全体に与える影響を限定しつつ、成功可能性を追求したのである。

(3)  クレイジーキルトの原則

三好の自動車保険への積極転換戦略には、「クレイジーキルトの原則」と呼ばれる、多様なパートナーとの協力関係の構築が見られる。三好は、社長就任後、経営方針を明確にし、自動車保険をはじめとする積極転換戦略を実行した。この方針と戦略は、役員・社員の結束を強固にし、主要な販売チャネルを担う代理店との協力関係を深めた。

また、三好は業界全体の協調を重視し、他の損保会社とも協力して自動車保険市場の成長を図った。東京海上元副社長の塙善多は、「難しい事の多い自動車保険を是非いい方向に引っ張って行ってほしい(中略)三好社長はいつも私に『自動車保険をうまく育てような』と言われた。それほど三好社長は、自動車保険を特に重視しておられた。それは、大衆路線を進めるうえでの自動車保険の役割をしっかりと理解されていたからだと思う。昭和40年代半ば以前(筆者註:1965年から1969年頃)において、はっきりとそういう認識を持たれていた経営者はごく少なかった。」63と述懐し、三好を評価した。三好の戦略は、単に自社の利益を追求するだけでなく、業界全体の発展を視野に入れたものであった。

自動車メーカーや販売会社(ディーラー)とも協力関係を築き、顧客基盤を拡大することで、安田火災は自動車保険事業において確固たる地位を確立し、企業としての長期的な成長を実現した。

(4)  レモネードの原則

「レモネードの原則」とは、不測の事態や逆境を機会に転換する能力を指す。モータリゼーションによる自動車保険の急激な需要増加に業界各社の対応には差があったが、三好は、自動車保険事業が直面する数々の困難を一貫して機会と捉え、リスクをチャンスに変えた。特に、保険金支払いの急増に対して、業界全体が契約の引受を規制する中、安田火災は他社に比べて規制を緩やかにし、市場動向を注視しながら戦略を調整している。

また、自動車保険事業には不可欠の損害査定体制の充実に注力したことは、同一保険料・同一商品だった当時の自動車保険の付加価値となり、自社の自動車保険の魅力を高めた。営業部門に加えて、損害査定部門にも優秀人材を配置し、専門人材を育てた。損害査定部門は、全国で代理店研修を実施し、有力整備工場とも活発な意見交換を行い、自動車事故を減らすため防災活動にも注力した。さらに、示談交渉サービスの実現では業界の先頭に立ち、顧客ニーズに応えながら市場での優位性を強化した。

このように、三好のリソースを最大限活用し、リスクをコントロールすることによって、不測の事態を機会に変えるという柔軟な対応は、エフェクチュエーションの原則の相互の補完的関係を示している。

(5)  飛行機の中のパイロットの原則

三好の意思決定は、「飛行機の中のパイロットの原則」と共通する考え方により、安田火災自らの判断でリスク管理を行い、目の前の状況に対して柔軟に対応することを重視していた。

また、モータリゼーションが日本よりも進んでいた米国の保険業界の状況を調査し、自動車保険が将来的に拡大していくことを確信し、その中で、米国の自動車保険では、収益の増減や周期的な変動が発生していることを発見した。当時の自動車保険事業では、モータリゼーションの急速な進展により、保険料率が事故率や保険金支払いと整合せず、著しい収支悪化に陥ったうえに、被害者救済の観点からの商品改定により、支払い保険金が増加していた。三好はこの状況を冷静に分析し、短期的な収支の変動に一喜一憂するのではなく、長期的な視点でリスクと利益のバランスを取ることが重要だと考え、自動車保険に関する戦略を調整し続けた。

このプロアクティブな姿勢により、三好は、モータリゼーション急進期の自動車保険事業のリスクを管理し、機会に変えることで業界を牽引していった。彼は、企業ビジョンに基づき自社の将来像をデザインし、自動車保険事業の成長の扉を開いた。結果として、安田火災は自動車保険事業によって、圧倒的な業界2位のポジションを確定した。

以上の分析から、三好武夫の戦略的意思決定がエフェクチュエーション理論の原則と共通する考え方に基づいて行われたことが示唆される。この戦略は、安田火災の成長を牽引しただけでなく、戦後日本の自動車保険事業の成長を促し、損保業界全体の発展に貢献した。また、企業家が不確実性の高い環境においてビジネスオポチュニティを見出し、事業の持続可能性を向上させた事例としても注目される。本研究の目的である、企業家の戦略的意思決定における理論的枠組みの有効性を検証する上で、三好の事例は重要な洞察を提供する。

6.  後藤康男の企業家活動と戦略分析

6.1  企業家活動

(1)  生い立ち

1923(大正12)年、後藤康男は父秀紀、母トラヨの四男として、愛媛県松山市に生まれた。父は下級武士の末裔で、地元企業の顧問を務めていたが、一家は裕福とは言えない暮らしをしていた。7人兄弟の四男ながら、長男・次男・三男が早世したため、実質的な嫡男として育てられた。

松山商業高校では卒業生の多くは大阪で商人になったが、当時の大陸ブームの影響を受け満州にわたった。この時は、家族全員が反対し、姉の夫(義兄)の三好武夫も駆けつけ説得されたが、翻意することなく、1940(昭和51)年、大倉喜八郎創業の石炭・鉄を扱う本渓湖煤鉄公司に入社する。同社において勉強の大切さを教えられ、2年後に東京に戻り法政大学商業部に入学するも、学徒出陣で各地を転々とし、特攻隊志願の署名捺印まで行ったが、終戦を迎え松山に戻った。

(2)  安田火災入社

1946(昭和21)年、法政大学専門部課程に復学し、1947(昭和22)年、経済学部に入学。同年、三好武夫に内緒で安田火災にアルバイトとして入社、財務部資金課に配属された。大学に通学しながら会社に勤務することが許される時代だった。当時の課長の「新しい部署で半年のうちに現状改善の意見を出してこない社員は見込みがない」64という言葉に刺激を受け、法律を猛勉強した。

1951(昭和26)年、大学を卒業し、同年10月に社内結婚、妻延子は仕事を続けたが、これは社内結婚の際に女性が退職することが一般的な時代にあって共稼ぎの先駆だった。

1955(昭和30)年、東京営業部契約二課に配属となる。当時の課長の事務合理化と社員教育などの改革に刺激を受け、「ルールの奴隷となるな。」65という言葉は強く心に残り、社長就任後も大事にした。

(3)  地方勤務と本社組織改革

1963(昭和38)年、後藤康男は日本橋支店で営業を経験した後、当時業績不振だった広島県の呉営業所長となり、立て直しに奮闘する。

その後、高松支店、本社を経て、1971(昭和46)年、福岡支店長に就任し、低迷する組織活性化のために、人事改革に着手した。また、時代の変化に対応するには多店舗展開が必要だと考え、管理職を置かない小規模なミニ店舗の実現に奔走する。福岡支店長3年目の1973(昭和48)年には取締役になっていた後藤だが、ミニ店舗設置では多数の本社関連部署の承認を得るのに苦労している。

1974(昭和49)年、後藤は取締役社長室長に就任し、本社の縦割り組織を見直し、意思疎通や情報連携をオープンで効率的にしていき、今でいうガバナンスの強化を行なった。

(4)  社長就任で三好イズムの継承

1983(昭和58)年2月に後藤康男は社長に就任した。三好と後藤の間にはもう1人、社長として宮武康夫がいたが、臨時取締役会でトップ交代している。この背景には、経営方針をめぐる対立があったとされ、マスコミでは、「内紛」、「社長交代劇」と報道された66

逆風の中でスタートした新体制で後藤は、三好イズムの継承を示すため、「安田火災ファミリー主義の充実」、「T号作戦」、「拡大・均衡・効率化」67を経営方針として明確化した。

三好イズムの継承のうち、業界の既成概念や既存秩序を変革するという意味で、日本損害保険協会長を東京海上がほぼ独占してきた状況から脱却するべきだという思いは後藤にも強かった。日本損害保険協会は、損害保険業界の業界団体であり、代表者である協会長は業界の顔になる。損保業界のトップカンパニーである東京海上は、過去から協会長をはじめ業界を代表する主要ポストに自社から多数の人材を輩出してきた。業界各社との議論を経て、1986(昭和61)年、上位4社による協会長職を輪番で務めるルールができ、翌1987(昭和62)年、後藤は安田火災として初の協会長に就任した。

後藤は、三好イズムの継承に留まらず、積極経営による「世界の安田火災」を標榜し、巨大企業としての成長を目指した(図7)。その具体的戦略が、損保の将来ビジョンを銀行化に置いた「(損害保険を軸とした)総合金融機関化」、「(5年後の)100周年にノンマリン部門68で国内トップになる」という大目標だった。

図7 損保大手5社の全種目マーケットシェアの推移(1951–1995年)

太枠は後藤康男の社長在位期間(1983–1993年)

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)』、『損害保険戦後統計』を基に筆者作成。

(5)  経営理念と総合金融機関化・CSR経営へ

①経営理念及び経営方針・経営観の提示

1984(昭和59)年10月、後藤は、経営理念「安田火災スピリット」を策定した(図8)。当時の多くの企業で、創業の志を踏まえ、経営理念や行動指針を策定していたが、詳細な事例や解説つきで冊子にまとめる企業は少なかった。後藤は後に、「東京火災消防組の精神は安田火災のDNAのように息づいている。」69と述べているが、思いはスピリットにも込められている。

図8 安田火災経営理念『安田火災スピリット』(1984年10月策定)から抜粋

(出所)『安田火災スピリット』(1984)より筆者作成。

また、後藤は、経営者としての経営方針や経営観をユニークな表現で示してきた。代理店とのパートナーシップでは「異体同心・共存共栄」、営業・損害査定・システム・運用部門の連携については「四輪駆動体制」とし、企業規模のみならず社会との関わりを重視したバランスある企業像として「力と徳を持つ企業」などメッセージ性のあるキーワードを用いた。

②総合金融機関化と拡大・均衡・効率化

三好武夫が戦略として打ち出し、後藤康男も継承したT号作戦の目的は、保険会社としての売上に相当する収入保険料の拡大にあった。

後藤は損保業界の変化の潮流を鋭く見抜き、3大トレンドと呼び(図9)、今後、「掛け捨て保険から積立保険へ」、「モノ保険からヒト保険へ」、「企業保険から家計(個人)保険へ」と重点が移行していくと捉えた。また、損保会社が目指す姿を「総合金融機関化」におき、その立ち位置が劇的に変わっていくと考えた。その背景には、金融自由化など損保業界の経営環境の変化への危機感もあったが、後藤の損害保険を軸とした総合金融機関化について、当初は周囲も戸惑ったという70

図9 安田火災の総合金融機関化戦略

(出所)片山(2021)p.195を基に筆者作成。

積立保険は、火災保険とセットした長期総合保険に始まり、傷害保険とセットした積立ファミリー交通傷害保険で消費者の大きな支持を得た。以後、傷害保険を中心に積立保険の新商品が次々開発され、爆発的に伸びていった。

図10は損保会社の総資産と保険料の実額の推移である。積立ファミリー交通傷害保険をはじめ、積立女性保険、積立普通傷害保険など積立保険がいかに大きく伸びたのかがイメージできる。これは、大手損保・中堅中小損保を問わず全社が激しい企業間競争を繰り広げた結果であった。

図10 損保業界の総資産と元受保険料の推移(1975–1995年度)

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)を基に筆者作成。

安田火災の総資産は、後藤が就任する前年1982(昭和57)年に1兆円を超えていたが、100周年の1988(昭和63)年には、驚異的に伸び、約2兆8,000億円に達している(図11)。

図11 安田火災の総資産と元受保険料の推移(1983–1988年度)

(出所)安田火災海上(1990)p.811、p.820を基に筆者作成。

③創業100周年上半期ノンマリン部門業界トップ

総合金融機関化戦略、特に積立保険の拡販によって、「創業100周年の上半期(1998年9月末)のノンマリン部門の業界トップ」が達成された(表2)。安田火災が東京海上を上回ったのは、わずか35億円に過ぎなかったが、メディア報道もあり、業界に大きなインパクトを与えた71。ただし、年度末では地力で勝る東京海上が逆転している。

表2 損害保険大手4社の元受保険料比較(1988年4–9月) (単位:億円、%)

ノンマリン マリン 合計
実績 増収率 実績 増収率 実績 増収率
東京海上 5,750 13.2 380 1.3 6,130 12.4
安田火災 5,785 31.8 155 4.2 5,940 30.9
大正海上 3,207 9.6 195 7.9 3,402 9.5
住友海上 2,690 13.4 129 6.0 2,819 13.1

(出所)保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(平成2年度版)』を基に筆者作成。

安田火災のマーケットシェアは、創業100周年の1988(昭和63)年度をピークとして1991(平成3)年度まで下降し、停滞期に入った。

④美術・環境・社会貢献・CSR経営へ

安田火災の美術との関わりは、昭和初期の南莞爾社長に始まる。南は、芸術・美術に造詣が深く、北大路魯山人、曾田富康、東郷青児を応援した。特に、東郷青児を重用し、コーポレート・アイデンティティ(Corporate Identity、略称:CI)の概念がない時代ながら、カレンダー、扇子、パンフレットなど自社ノベルティに東郷の絵を採用した。東郷は、晩年、自身の絵とコレクションの処分方法について三好武夫に相談し、三好は1976(昭和51)年、本社の42階に東郷青児美術館を開館することで応えた。

後藤は社長になった際、三好から東郷青児美術館を一流にしてほしいと託されていた。当時の年間入場者数は1~2万人程度に過ぎず、後藤は一流美術館には名画が必要だと考えた。

1988(昭和63)年、安田火災は、ロンドン・クリスティーズのオークションで当時の絵画の世界最高額53億円でゴッホの「ひまわり」を購入した。国内外のマスコミは、日本の一介の保険会社が世界的名画を高額で購入したことを厳しく批判した。しかし、同社が投機の意図はなく、自社美術館で最新の空調設備で保管・展示することを説明すると、批判・中傷の声は激減した。結局、ひまわり購入という後藤の決断は功を奏し、一般公開後は、毎年15万人から20万人が入場する都心の美術館として知られるようになっている。安田火災にとっても、「安田火災のひまわり」、「ひまわりの安田火災」といわれるように企業プレゼンスが大いに向上したのである72

1992(平成4)年4月、米国有数の自然保護団体TNCのリチャード・ウェインステイン会長が後藤を訪ねてきた。要件はインドネシアのスラウェシ島の自然環境保護への協力だった。後藤が来訪の理由を尋ねると、「安田火災はゴッホのひまわりの購入など文化貢献で有名だ。美術や文化に対する理解は地球を守ることと共通し、きっとわかってもらえると思った」73という。本件は、海外環境保護プロジェクトの第1号になると同時に、後藤が地球環境問題の重要性に気づくきっかけになった。

1992(平成4)年5月、後藤は経団連「自然保護基金運営協議会」の初代会長に就任し、6月には「国連環境開発会議74(リオ・デ・ジャネイロ地球サミット、以下「地球サミット」)」(UNCED: United Nations Conference on Environment and Development)に経団連ミッションの団長として参加した。地球サミットは、今日の「SDGs」につながる大きな意味を持つ国際会議である。本会議に参加した後藤は、NPO/NGOが果たす役割の重要性を実感するとともに、環境に関する先進的企業になること決意する。帰国後すぐに「地球環境室」という専門部署を設置し、経営トップの本気度を示すために優秀な人材を配置した。NPO/NGOと協力し、本気で環境保護に取り組むことは、安田火災のCSR戦略として重要だと考えたのである。

1992(平成4)年、環境汚染の規制強化による企業の環境リスクの高まりを受け、企業リスクマネジメント及び環境保護の一環として「環境汚染賠償責任保険」を発売した。企業が環境汚染により第三者に与えた損害賠償責任をカバーする保険商品である。

1993(平成5)年、後藤は社長を有吉孝一に譲り、会長・相談役を歴任、環境保護、CSR活動に注力する。

1993(平成5)年、NPOとの共同開催で始めた「市民のための環境公開講座」は、30年余で延べ約3万6,400人(2022年度)が受講している。

1997(平成9)年、ISO14001(環境マネジメントシステム)の認証取得(国内金融機関初)し、全国の拠点における環境マネジメント活動に生かしていった。

1998(平成10)年、「環境レポート」発行(国内金融機関初)する。

1999(平成11)年、財団法人安田火災環境財団(現・公益財団法人SOMPO環境財団)を設立し、環境人材の育成やNPOの法人化を支援した。また、同年9月、環境経営に焦点を当てたエコファンド、安田火災グリーンオープン『ぶなの森』を発売した。

2000(平成12)年、CSOラーニング制度を発足し、学生をNPOに派遣する活動を開始した。本制度の参加者は、累計1,276名(2022年度)に達するなど環境人材づくりに貢献している。

一連の安田火災の環境、CSRへの取組みは、外部からも高く評価されている。社会的責任投資銘柄としてDow Jones Sustainability Group Indexなど海外調査機関の各種SRIインデックス75に同社が組入れられるとともに、国内でも「地球環境大賞 環境大臣賞」、「企業メセナ協議会メセナ大賞」、「企業の社会貢献賞 環境保護賞」、「環境レポート大賞 優秀賞」などを受賞した76

後藤は、地球環境問題は、貧困問題、人口増加、自然破壊などが関わり合う経済問題に他ならないと考え、企業倫理の確立と持続可能な発展が今後の価値観として求められると主張した77

後藤康男は、三好イズムを受け継ぎながらも、自らの独自戦略である損保を軸とした総合金融機関化を目指した。また、合わせて、CSR活動や環境問題に取組むことで、社会的価値と経済的価値の両立を目指した。

次節では、CSV概念を用いて、彼がこれらの戦略をどのように実現したのかを検討する。

6.2  CSV概念による戦略分析

後藤康男の戦略は、Porter & Kramer(2011)のCSV概念に共通するアプローチで、損害保険業界、安田火災における社会的課題を解決しつつ、企業の成長を促進することを目指していた。CSV概念の3つの方法78に沿って、彼の戦略を分析する。

(1)  製品と市場を見直す

後藤の戦略は、CSV概念の3つの方法のうち、「製品と市場を見直す」ことに符合している。

彼は、損害保険では、積立保険、人(ヒト)保険、家計(個人)保険へとトレンドが変化すると指摘した。これは海上保険、火災保険、傷害保険、自動車保険、積立保険と保険種目の主役が変遷していく様を見事に捉えた考え方だった。後藤は、積立保険がもたらす資産が積み上がることで損保は銀行の領域にも業容を拡大していくと考え、その戦略を総合金融機関化と呼んだ。そして、次々と市場ニーズにフィットする積立保険の新商品を開発し、業界各社と激しい企業間競争を展開した。その結果として、1988(昭和63)年10月、創業100周年にノンマリン部門で国内トップ(上半期)になっている。

また、ゴッホの名画「ひまわり」の購入によって、美術館のステータスを向上させ、安田火災の国内外の知名度も上がった。これが契機になり、後藤は地球環境保護を含めたCSR活動を戦略的に展開していく。特に、環境問題やCSRに取組むことが社会への貢献であり、ひいては安田火災のプレゼンスを飛躍的に引き上げ、業界シェアにもプラスになると考えた。そのため、地球環境室の設置、「市民のための環境公開講座」の開催、金融機関初のISO14001認証取得、「環境レポート」発行、さらに、環境をテーマにしたエコファンド『ぶなの森』の開発・運用など、社会的課題に対応することを通じて、経済的価値を実現する取組みを展開した。

(2)  バリューチェーンの生産性を再定義する

後藤は、「バリューチェーンの生産性を再定義する」ことにも力を入れている。保険業界では、効率的な運営が重要な要素であり、彼は特に業務プロセスの効率化に注力し、コンピュータリゼーションによる事務合理化を図った。具体的には、従来手作業に依存していた営業店の成績管理、保険金支払い、契約照会、銀行決済、企業・金融情報などのオンライン処理を可能とした。これは、経営理念の「お客さま第一」と戦略である「損害保険を軸とする総合金融機関化」の一環だった。また、CSRや環境問題への取組は、企業の社会的責任を意識したもので、中でも国内金融機関初のISO14001の認証取得と環境マネジメント活動は先駆的な事例である。これによって、安田火災の競争力が高まり、結果として社会的価値と経済的価値の両方を創出することにも繋がった。

(3)  地域社会にクラスターを形成する

最後に、後藤による「地域社会にクラスターを形成する」取り組みを総括しておきたい。彼は、先進的な試みとして設立した地球環境室を拠点に、社会貢献ファンドを立ち上げ、社員のボランティア活動や森林保全事業を積極的に支援した。さらに、地域社会に対しては、NGOと協力して「市民のための環境公開講座」を開催し、企業と社会が環境問題にどう関わるべきかについての理解を社内外に発信した。また、学生を対象としたCSOラーニング制度では、NPOに派遣し、次世代の環境リーダー育成にも力を注いだ。こうした取り組みは、企業の社会的責任を果たすだけでなく、社員や市民の意識向上、そして環境人材の育成を目指したものである。同時に、地域社会との結びつきを強めることによって、企業としての信頼性や社会的地位の向上にも貢献している。

本分析を通じて、後藤康男が社会的価値と経済的価値の両立を目指し、様々な戦略を展開したことを確認した。これは、損害保険会社としての持続可能なビジネスモデルの構築に貢献すると同時に、企業の社会的責任が経済的成功といかなる形で結びつくかのヒントになり得る。本研究の目的である、企業家活動がどのように社会価値と経済的価値を創造するのかを解明するに当たって、CSV概念は重要な視点を提供し、後藤の戦略の成功要因を明らかにする鍵となった。

7.  エフェクチュエーション理論とCSV概念のプロセスの統合モデル

エフェクチュエーション理論とCSV概念の統合的適用の試みとして、これらのプロセスを統合したモデルを作成した(図12)。三好武夫と後藤康男の戦略行動に本モデルを適用した場合、以下の解釈が考えられる。

図12 エフェクチュエーション理論とCSV概念のプロセスの統合モデル

(出所)Sarasvathy(2008/2015)吉田(2022)及びPorter&Kramer(2011)を基に筆者作成。

まず、不確実な環境下における企業家の戦略は、エフェクチュエーション理論の「手中の鳥の原則」からスタートする。企業家は手元のリソースを最大限活用して、企業や事業の未来を築いていく。三好は、損害保険事業のリソースを既存商品ながらも新しい市場となった自動車保険に適用するというビジョンを持って、戦略を展開した。さらに、「許容可能な損失の原則」にしたがい、リスクを最小限に抑えながら、自動車保険事業に積極転換を図った。また、彼は不測の事態を機会と捉える「レモネードの原則」を実践し、自動車保険をめぐる市場の動きや新たなニーズに的確に対応し、ビジネスオポチュニティを創出した。

一方、三好の戦略が社会課題の解決に貢献したという点については、CSV概念の3つの方法が重要になる。製品と市場の見直しでは、自動車事故の社会問題に対応するために、自動車保険の積極転換を決断した。バリューチェーンの生産性の再定義では、自動車保険の販売体制及び保険金の支払体制を充実することによって、顧客との関係性を強化し、社会的にも経済的にも価値を高めた。これにより、三好は持続可能な競争優位を獲得した。

次に、後藤の戦略は、エフェクチュエーション理論のプロセスに沿いつつも、CSV概念の適用でより深化した活動となった。後藤は、社会的なニーズの高い積立保険に積極的に取組むことで、自社の総合金融機関化を目指し成長を実現した。彼の戦略は、単に金融サービスを提供することにとどまらず、CSVの第1の方法である製品と市場の見直しに相当する広範な社会ニーズに対応した商品の開発が特徴である。また、CSR活動や環境問題への取組みは、従来の社会貢献活動を拡充し、CSVの第2及び第3の方法であるバリューチェーンの生産性の再定義と地域社会のクラスター形成に関わる戦略だった。

特に、後藤が環境保護活動を経営戦略の中心に位置づけたことは、社会的価値と経済的価値の統合の象徴であり、彼の戦略はCSV概念を実践することで、持続可能な成長を達成した。

最後に、エフェクチュエーション理論とCSV概念の統合モデルは、企業家が不確実な環境の下で、持てるリソースを最大限活用し、同時に社会的価値と経済的価値を両立させることの可能性を示唆する。この統合モデルは、三好と後藤の異なる時代における戦略行動を解釈する上で、理論的な枠組みを提示し、企業の持続的成長に対する視座を与えるものとなる。

8.  功績要因に関する検討

前章でエフェクチュエーション理論とCSV概念の統合モデルを提示したが、このモデルが企業家の功績や戦略を全て評価できるわけではない。本章では、三好武夫及び後藤康男の企業家としての功績の限界や、彼らが直面したリスク要因について検討する。

8.1  三好武夫の戦略の課題とリスク

三好の自動車保険事業への積極転換は、エフェクチュエーション理論と共通した企業家活動が随所に見られる。中でも、安田火災の創業からの扱い保険種目である火災保険の利益を許容の上限においていたと推測される点は、損失の許容可能性の原則に通じる思考といえる。しかし、当時の利益構造は東京海上、大正海上、住友海上など大手損保も大差はなかった。モータリゼーションがいつまでどのような形で続くのか、交通事故による死傷者の増加傾向に歯止めがかかるのかなど、その将来の姿は極めて不透明だった。この環境要因が業界各社にとって変わらないとすれば、自動車保険に対する積極的戦略は一歩間違えれば大きな損失を招くリスクがあったといえよう。その意味では、三好の戦略行動は、経営者として、相当なリスクを伴う選択を行った側面がある。

また、三好は「拡大均衡」を経営方針に掲げて積極的な戦略を展開したが、在任期間の終盤には、環境変化にともない、「拡大均衡効率化」へ変更している。これは経済成長の鈍化やモータリゼーションに依存した自動車保険中心の成長戦略に限界が見え始めた状況を踏まえた修正である。確かに三好は自動車保険を中心とする各種の積極転換戦略で安田火災の業界2位を盤石なものにしたが、1970年以降、護送船団方式の下で、業界各社も自動車保険に積極姿勢をとり、競争が激化する中、安田火災の往時の勢いは、1970年代後半頃から次第に低下し始めた。

8.2  後藤康男の戦略の限界と課題

後藤が社長に就任した時には、三好時代における安田火災の急速な成長はすでに一段落していた。自動車保険が中心的保険種目であることに変わりはなかったが、モータリゼーション期ほどの成長性は見込めなくなっていた。そこで着目したのが、積立保険である。後藤の総合金融機関化戦略は自動車保険に代わる成長エンジンとしての積立保険を最大化する戦略だった。

ただし、積立保険においては、大手損保、中小損保のほぼ全社が参入し、新商品を次々と市場に投入する激しい販売競争に発展しており、その意味では、決して後藤や安田火災独自の戦略ではなかった。安田火災が、後藤の総合機関化戦略の下、積立保険の激しい業界競争の末に創業100周年の上半期の時点でノンマリン部門業界トップを達成したのは事実であるが、業界各社も驚異的な販売実績を挙げており、同社の以後の業績停滞はその戦略効果が限界に達していた証ともいえよう。また、この時期の積立保険の成長は、業界全体での販売競争にとどまらず、銀行・証券など金融業界横断での競争に発展するなど、金融商品を求める投機的風潮という社会的要因の影響も大きかった。損保業界全体が同じ方向に舵を切っていた時期だったとはいえ、この時期の金融市場のボラテリティは相当高く、バブル崩壊後の銀行、証券、生保企業での多数の経営破綻を考えると、積立保険の過度な金融商品化には相当なリスクがあったといえよう。

また、CSRや環境問題への先進的取組みの中でも、特に環境保護活動は、後藤と安田火災は損保業界のみならず産業界をリードしていた。しかし、大きな契機となったのは、ゴッホのひまわりの購入がもたらした偶発的なNGOとの出会いである。そもそも、自社美術館は三好時代に開設されており、その延長線上で名画の購入が行われた。また、環境保護活動は、経団連や国連活動で得た世界の動向や、日本国内の社会貢献の認識の向上とともに進展していったという背景もある。

筆者は、本研究の先行研究レビューにおいて、損保事業がCSVを事業の本質に持つと指摘したが、この点は他の損保会社も同様である。さらに課題となるのは、安田火災のCSRや環境問題への取組みと事業展開が真の意味でCSV概念を具現化していたのかという点であり、必ずしも十分とはいえないだろう。

以上を踏まえると、三好が成長期のリーダーとしてリスクを取りながら自動車保険市場を切り開いたのに対し、後藤は成熟期の競争環境を捉えて、総合金融機関化、CSR・環境保護活動などにリーダーシップを発揮した。しかしながら、三好と後藤の企業家としての成功は必ずしも常に最適な戦略であったわけではなく、経済・社会環境や業界動向とも密接に関わっており、それぞれにリスクを内在していたことも事実である。成功を収めた企業家の戦略も一定の成果を収めた後には停滞を余儀なくされるなど、環境変化に確実に適応していくことがいかに困難であるかが示唆される。

9.  結論

9.1  研究のまとめ:三好武夫と後藤康男の戦略比較

(1)  共通点の分析

三好武夫と後藤康男は、安田火災の経営トップとして、いずれも社会的価値と経済的価値の両立を重視した経営戦略を展開した。三好は、自動車保険事業への積極的な転換を通じ、交通事故の社会的損害を軽減し、損保会社としての社会的使命を果たした。後藤は、総合金融機関化を推進し、CSR活動や環境問題への取り組みを通じ、社会的責任を果たす企業としての地位を確立しつつ、経済的成長を図った。

(2)  相違点の分析

三好は、エフェクチュエーション理論の「手中の鳥の原則」や「許容可能な損失の原則」に相当する限られた資源を活用し、不確実性の高い自動車保険市場への参入を果敢に進めた。彼の戦略は、リスクを慎重に評価しつつも、競争優位を獲得するために先行投資を行う「攻めの姿勢」が特徴である。

一方、後藤はCSV概念に通じる社会的価値と経済的価値を同時に創出する戦略を推進した。彼は、総合金融機関化を通じて顧客価値を創出しながら、CSR活動や環境問題への取り組みを通じ、長期的な企業価値を追求する「持続可能性」を重視した。

(3)  戦略成果の比較

三好の自動車保険事業への積極的転換は、安田火災が業界リーダーとしての地位を確立し、持続的な成長を実現するための重要な要因となった。一方、後藤の戦略は、CSR活動を通じて社会的価値を高めると同時に、企業のブランド価値と信頼性を向上させることに寄与した。両者の戦略成果は異なるが、いずれも安田火災の企業価値を長期的に高めることに貢献した。

9.2  研究の成果と貢献

本研究では、三好武夫と後藤康男の経営戦略を、エフェクチュエーション理論とCSV概念の枠組みで分析した。三好の戦略は、限られた資源を最大限に活用しながら、不確実性の高い経営環境で市場の先行者利益を追求する方法として、エフェクチュエーション理論の実例を提供している。また、後藤の戦略は、経済的価値と社会的価値を同時に追求するビジネスモデルとして、CSV概念の有効性を示す事例といえ、特に、CSR活動や環境問題への取組みを戦略の中核に据えた点は、現代企業にとっても重要な視点を提供する。

9.3  理論的及び実践的インプリケーション

本研究は、エフェクチュエーション理論が不確実な経営環境下での柔軟な意思決定を説明するのに有効な理論枠組みであること、また、CSV概念が社会的価値と経済的価値を両立させる戦略の分析に有効であることを示した。特に、両理論を統合して企業家の意思決定プロセスを分析することが、今後の企業家史研究において新たなアプローチとなる可能性を示唆している。

また、実務的には、現代の企業経営において、不確実性への対応と社会的責任を考慮した戦略立案が、企業の持続可能な成長を促進する可能性があることが示された。これらの知見は、経営者にとって、企業の長期的な成功を目指す上で有益な指針を提供する。

9.4  本研究の限界と今後の研究課題

本研究は、エフェクチュエーション理論とCSV概念を用いて分析を行ったが、他の理論的視点や分析手法による広範な視野での検討には限界がある。また、対象とした事例が安田火災の経営者に限られているため、他企業や他産業への一般化が難しいと考えられる。今後は、他産業の企業家や異なる国の事例を比較研究することで、より一般化可能な知見を得ることが期待される。また、CSR活動やCSVが企業価値に与える影響についての定量的な分析も、今後の課題である。

4  同前, p.23。

6  2001年4月、日本火災、興亜火災が再編されて生まれたのが日本興亜損保である。

7  「損保協会~100年のあゆみ~」保険毎日新聞、1917年5月23日。

8  佐々木(2001)pp.6–10。

10  佐々木(2001)pp.9–10。

12  同前, p.340。

13  吉田(2022)pp.16–17。

16  同前, p.11。

17  長谷川(2014)p.25。

18  足立(2018)p.109。

19  岡田(2015)pp.49–50。

20  同前, p.50。

21  鄭(2017)p.23。

22  Sarasvathy(2008/2015)pp.19–20, pp.94–124。

23  Porter and Kramer(2011)pp.8–12。

24  同前, p.10、p.12。

25  同前, p.10、p.29。

26  同前, pp.14–24。

27  同前, p.24。

29  同前, pp.360–361。

30  同前, pp.290–292:第78代内閣総理大臣の宮沢喜一は当時大蔵省保健課の事務官として、三好とともに戦争保険業務を担当したという。宮沢は三好について、「安田火災の中興の祖(中略)というよりは、今の安田火災を創った人」と評した。

31  同前, p.77:業界事情に詳しい保険毎日新聞社創業者太田録良は「三好氏は戸倉社長の公職追放後檜垣社長を誕生させ、敗戦後の混乱による会社の再建、分割問題のお家騒動を労使再建協議会の形で一本化(中略)安田火災は三好武夫氏によって創り出されたものといっても差し支えありません」とコメントした。

33  同前, p.1。

34  同前, p.2

35  後藤(2004)pp.213–214。

36  片山(2021)p.124。

37  自動車保険積極転換戦略における自動車保険は、強制保険である自賠責保険と任意保険である自動車保険の両方を意味していた。

40  安田火災海上保険(1979)p.143:清和会講演(1969(昭和44)年8月1日)。

41  同前, p.149:雑誌・心の糧・談話(1973(昭和48)年12月)。

42  同前, p.151:保険毎日新聞・対談(1978(昭和53)年9月28日・29日)。

43  同前, p.147:会議・訓示(1972(昭和47)年5月)。

44  安田火災海上保険(1990)p.478:安田火災百年史では、「米国における自動車保険の収益状況には周期性が認められることが判明した。この周期は景気の好不況と関連性を持ちながら、料率調整や引受技術によって波動を描いている。(中略)良好な周期も存在するし、良好に転換できることも見落としてはならない」と記述されている。

46  同前, p.92。

49  同前, p.10。

50  安田火災海上保険(1979)p.148:ラジオ・毎日放送他・「三鬼陽之助のおはよう社長対談」(1973(昭和48)年11月15日)。

51  同前, p.157:会議挨拶(1969(昭和44)年9月)。

53  塙(1989)pp.126–127。

58  2020年7月、本社ビルの敷地内に新築した美術館専用棟に移転。

59  現在は36階の健康開発センターのみが稼働している。

60  保険研究所『インシュアランス損害保険特別統計号(各年度版)』、『損害保険戦後統計』を基に、三好が社長就任の翌年1964年と退任年1980年の成績を比較した。

61  三好武夫の自動車保険に関する積極転換戦略は安田火災の飛躍的な成長を牽引し、業界2位のポジションを確固たるものにした。しかし、モータリゼーションの勃興による急激な伸びが緩やかになるにつれ、自動車保険を中心とした同社の成長は徐々に鈍化していった。

62  Sarasvathy(2008/2015)pp.19–20, pp.94–124。

64  後藤(2004)p.181。

65  同前, p.186。

66  安田火災の社長交代劇、内紛に一応の幕―三好・後藤両氏の路線通る日本経済新聞1983年2月5日。

67  「拡大均衡」の後継の経営方針、三好時代終盤に策定された。

68  ノンマリン(non-marine)はマリン(marine)以外の損害保険種目のことである。主なノンマリン種目としては、火災保険、自動車保険、傷害保険、賠償責任保険、積立(型)保険がある。

69  後藤(2004)pp.197–198。

71  「安田火災、非海上部門で1位 63年度上半期」日本経済新聞(朝刊)、1988年11月15日。

72  後藤(2004)pp.167–168。

73  同前, p.224。

74  本会議では、持続可能な開発を目指すリオ宣言、環境保全計画であるアジェンダ21、森林保全などに関する原則声明などが採択された。その中の一つの条約が「気候変動枠組条約」であり、以後毎年COP(締約国会議)が開催されている。

75  SRIは「Socially Responsible Investment:社会責任投資」の略。SRIインデックスは、調査機関が一定の投資基準に基づき企業銘柄を選定する。財務面に加え、社会的・倫理的側面であるCSR(Corporate Social Responsibility)も含めて投資対象とする。最近は、ESG(環境・社会・ガバナンス)の3分野での持続可能性が投資基準に採用されている。

76  外部からの評価は、現在のSOMPOホールディングス・損保ジャパンに継承され、さらに進化している。https://www.sompo-hd.com/company/evaluation/

78  Porter and Kramer(2011)pp.14–24。

参考文献
 
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