2025 年 22 巻 p. 175-205
本研究は、アルプス電気の盛岡事業部によるリストラと事業停止によって輩出されたスピンオフ現象を取り上げる。40社超のスピンオフのほとんどが生存をし続け、その中のいくつかは成長をしている。本研究は、それらスピンオフが20年超に渡って形成してきたスピンオフ・ネットワークを、過程追跡法に従って分析した。そのネットワーク形成と発展のプロセスは、アンカー企業の事業と組織文化(前提)、リストラによる一期スピンオフ出現(第一段階)、事業停止による二期スピンオフ出現(第二段階)、スピンオフ間インタラクション(第三段階)、スピンオフネットワークの発展(成果)であった。アンカー企業時代に刷り込まれた能力やルーチンをスピンオフが活用するという二次的刷り込みが起こり、分業や共同製品開発の際には、その能力やルーチンが更新されていった。
This study addresses the spinoff phenomenon emerged by the restructuring and shutdown of Alps Electric’s Morioka Division. Most of the more than 40 spinoffs have survived, and some of them are growing. This study analyzes the spinoff network that has formed over the past 20 years, following a process tracing method.
The process of network formation and development consisted of the anchor company’s business and organizational culture (premise), the emergence of first stage spinoffs due to restructuring (Phase 1), the emergence of second stage spinoffs due to business suspension (Phase 2), interactions among spinoffs (Phase 3) and the development of the spinoff network (outcome). Second-hand imprinting occurred as the spinoffs took advantage of the capabilities and routines imprinted during the anchor company period, and these capabilities and routines were updated during the division of labor and joint product development.
スピンオフとは、既存企業を退職した個人が競争優位性を発揮すべく設立した新しい企業であると定義される(Garvin, 1983)。スピンオフは親企業(アンカー企業)のルーティンや知識を引き継ぎやすく(Agarwal et al., 2004)、スピンオフ間で連携や支援を行い、スピンオフ・ネットワークを形成して生き残っていくことが見られる(Casper, 2007;福嶋, 2015a;Fukushima, 2015b等)。本研究では、東北地方で見られた、スピンオフが群れとなって出現して生き残っていくプロセスを過程追跡法(George & Bennett, 2005)によって確認しながら、スピンオフ・ネットワーク生成と拡大のメカニズムを明らかにしていく。
新しく生成された企業は新しさゆえの脆弱性(Stinchcombe, 1965)のため、一度設立されても生存が難しいと言われている。しかし、スピンオフはそうでない企業に比べると、生存率が高いことや、すぐれていることが、複数の産業で支持されている(Klepper, 2007;Wenting, 2008;Boschma & Wenting, 2007;Klepper & Sleeper, 2005;Stuart & Sorenseon, 2003など)。
その理由の一つとして、スピンオフはアンカー企業から引き継いだ知識やルーティンを活用できることがある。ただし、スピンオフが高い成果を出すには、アンカー企業から一定程度距離を置く必要があることも示されている(Agrawal et al., 2004;Semadeni & Cannela, 2011)。
他方で、アンカー企業から引き継いだもの以上に生存に影響を与えるのは、スピンオフした後に作られたネットワークであるという主張がある。特に、アンカー企業とは関係のないネットワークが重要であることが実証された(Fazlelagh et al., 2022)。
スピンオフは2つのタイプに分けることができる。一つは、起業機会を見出した社員によって自然発生的にアンカー企業から出現するもので、もう一つは、買収やリストラや事業停止等の外圧によって生じるものである(Buenstorf, 2009)。Spigel and Vinodral(2021)によると、前者はアンカー企業が拡大している場合に起こり、知識がアンカー企業からスピルオーバーする。後者はアンカー企業の衰退に伴って起こり、資産や人材が新たな組織でリサイクリングされる。本研究は、リストラや事業停止という外圧によって出現するスピンオフに注目したい。
外圧によって発生したスピンオフ間でネットワークを形成し、それが生存率を高めたことを示す研究が見られる。例えば、米国サンディエゴのバイオ・クラスターの形成を研究したCasper(2007)は、カリフォルニア大学サンディエゴ校から生まれたハイブリテック社が大手製薬メーカーのイーライリリー社に買収されたのを機に、10年間で40社近くのスピンオフが出現した事例を扱った。スピンオフ同士での兼任取締役のネットワークを可視化し、スピンオフ間で人の行き来がなされていることを明らかにした。さらに、アンカー企業の元創業者たちはシリアルアントレプレナーとして新たな企業を育てた後にVCを設立した。
米国テキサス州オースティンの事例を研究した福嶋(2015)、Fukushima(2015)は、IBMによる買収がきっかけとなったチボリ社から相次いだスピンオフの事例を扱った。そのスピンオフはM&AやIPOを果たして出口戦略を成功させたものが多い。さらにそれらの経営者は次のキャリアとして投資家になったり、スタートアップの支援者になったり、大学組織で貢献したりなど、多様な分野に拡散して相互に助け合っていることが確認された。
カナダのウォータールーにおけるブラックベリー社の事業縮小によって生まれたスピンオフを扱ったSpigel and Vinodrai(2021)は、スピンオフの数は多くはなく、サービスやコンサル業であったことを指摘している。しかし、職を失った従業員の多くが地元の既存企業やスタートアップに転職したため、アンカー企業で培われた知識が地域内でリサイクリングされたことが確認された。
それら既存研究のように、スピンオフが相次いだり、地元の既存企業に労働力が移動して地域経済が活性化するような現象が起きることは現実には稀であろう。電子機器や半導体工場の閉鎖によって人口が流出して地域経済の活力が失われた事例は枚挙にいとまがない。だからこそ、スピンオフが作られたり地域経済を活性化させるようなスピンオフを研究する価値がある。またこれらスピンオフは独立した後に相互にネットワークを形成してきた。しかし、既存研究のほとんどはスピンオフという現象やスピンオフ・ネットワークの存在を確認したものの、ネットワークがどのように形成されたのかについては触れていない。スピンオフの出現からネットワーク形成そしてその発展までを追う追跡調査は難しいからだ。
2.2 刷り込み理論を援用したスピンオフ研究の展開スピンオフ研究に大きな功績を残したKlepperは、質の高いアンカー企業からは、その知識を継承した優れたスピンオフが生まれるという継承理論を提唱した(Buenstorf and Klepper, 2009;Klepper, 2010)。そして、そのスピンオフのパフォーマンスの高さが産業集積形成のベースになることを大量データによって実証し、彼らがスピンオフ研究と産業集積の研究に大きな橋を架けたと福嶋(2020)は説明している。ただし、産業集積を対象にした大量データの分析では個々のスピンオフの顔が見えないし、アンカー企業から何を継承したのかが明確にされない。
その継承されたものをミクロレベルで明らかにしようと、刷り込み(Imprinting)理論をスピンオフ研究に応用する試みがある。そこではアンカー企業時代に刷り込まれた知識がスピンオフに引き継がれていくことを明らかにしようとする。例えば、Feldman et al.(2019)は、デンマークの多様な産業で、アンカー企業とスピンオフの類似性が見られることを質問票調査で明らかにした。コミュニケーションの方法、手続き、意思決定権や仕事のローテーション等々が受け継がれていることを実証したが、そのプロセスまでは解明できていない。
それに対して、Ferrianiらの事例研究(2012)は、アンカー企業(Acorn Computer)で刷り込まれた技術とビジネスモデルがスピンオフ(ARM semiconductors)に継承されていくプロセスを丹念に追っている。ただし、この研究の調査範囲は、アンカー企業と一社のスピンオフの関係に留まり、スピンオフ間の関係を観察するには至っていない。そこで、Ferrianiが次に研究対象として捉えたのは、アンカー企業から複数のスピンオフが生まれていき、かつ、スピンオフからスピンオフが生まれるスピンオフ連鎖の現象だった。イタリアの医療機器産業を対象にした研究(Ferriani et al., 2020)では、一人の起業家が6社を部下たちと次々に設立していき、さらに部下たちも新たな会社を立ち上げて、その経験や知識を次の世代に伝えていった。そのように、最初の創業者の遺産が世代を超えて引き継がれていくことは、二次的な刷り込み(Secondhand imprinting)に相当する。二次的な刷り込みとは、ある行為者が、他の行為者の刻印(Imprint)を引き継ぐ形で、刻印が社会的に移動していくものである(Marquis and Tilcsik, 2013)。
さらに、二世代を超える刷り込みを扱う実証研究も見られる。例えば、起業家活動が10世代を超えて受け継がれていく(transgenerational entrepreneurship)ことをワイナリーのファミリービジネスで明らかにした定性研究がある(Jaskiewicz et al., 2015)。他には、第1世代の起業性向が第2世代を媒介して第3世代の起業性向に及ぼすことを、ITビジネスにおいて確認した定量研究がある。(Ellis et al., 2017)。
また、個人のキャリアという切り口で刷り込みを明らかにした研究もある(Higgins, 2005)。起業家が行う組織デザインや意思決定は、若い頃に働いた組織における経験に影響を受けやすい。最初のキャリアにおける経験が、後年に、経営者として企業を管理する方法のベースを形成することを、製薬会社のバクスター社とアボット社という対照的な二社それぞれの出身者二人を比較することによって明らかにした。
上記のように、刷り込み理論にはスピンオフ研究における継承理論を精緻化することが期待されているが、そもそもは、一つの組織の中で起きる現象を対象に生まれたものである。Stingchcombe(1965)によって初めて提唱された刷り込み理論は、ある組織で形成された特性や能力は持続できると主張する(Johnson, 2007;Marquis, 2003;Simsek & Heavey, 2015)。刷り込みをする者(imprinter)は、創業者や創業チームとして描かれることが多い(Beckman & Burton, 2008;Gruber, MacMillan, & Thompson, 2008;Leung, Foo, & Chaturvedi, 2013)。それら刷り込み者たちのビジョン(Ainamo, 2005;Harris & Ogbonna, 1999;Ogbonna & Harris, 2001)、パーソナリティ(Gruber, 2010)、アイデンティティ(Fauchart & Gruber, 2011;Gioia, Price, Hamilton, & Thomas, 2010;Grandori & Prencipe, 2008)が組織文化に大きな影響を与えることをSimsek(2015)は既存研究のレビューによって説明した。
いつ、なぜ、刷り込みが行われるのかは重要であるはずだが、それを解明するのは難しいようだ。組織が発達していく段階や、変化を伴うような敏感な段階で刷り込みが行われやすいと主張されているが(Marquis & Tilcsik, 2013)、なぜ、どのように刷り込みされるのかについての解明はあまり進んでいないとSimsek(2015)は指摘する。つまり、刷り込み研究はプロセスを対象とすべきであるが(Marquis & Tilcsik, 2013)、実証研究のほとんどはプロセスを対象としておらず、そのプロセスはブラックボックス化されている(Johnson, 2011)ことになる。
アンカー企業における刷り込みがスピンオフに継承されていくプロセスを追うことは、刷り込み理論のみならず、スピンオフ研究そのものにも大きな貢献があることは自明である。先述したイタリアの医療機器産業の事例研究(Ferriani et al., 2020)は、スピンオフからのスピンオフというスピンオフ連鎖の現象の中で、刷り込みを確認した貴重な研究である。もしも、アンカー企業における刷り込みが、スピンオフ間の関係構築に影響をして、やがて、スピンオフ・ネットワークを形成する現象を生むところまで追跡できれば、相当希少な事例研究となろう。スピンオフ研究の視座がさらに広がるであろう。
本研究は、親企業、すなわちアンカー企業によるリストラそして事業停止という外圧によって、起業が相次いだ事例を取り上げる。アンカー企業であるアルプス電気盛岡事業部からのスピンオフは40社程度あるが、それらほとんどが長く生存をし続け、その中のいくつかは成長をしている(図1)1。

(出所)筆者作成。
アルプス電気の盛岡事業部は1976年に操業開始して2002年に閉鎖された。その間、プリンターを自社で企画開発から生産まで手がけたことは、アルプス電気の他の事業部がOEM製品を生産する中で特異な存在であった。ある時期において会社全体の収益に大きな貢献をした盛岡事業部の閉鎖の理由は様々憶測されているが、本論文では分析の対象としない。全社的リストラが行われた1990年代に、20社が退職した社員によって設立され、閉鎖の決定後には14社が設立された。2022年に生存を確認したところ、93%が生存しており、その高さは特異な事例(Yin, 1984)に相当すると考える。筆者らの調査は、創業者へのインタビューを、2009–2010年に23社、2020–2024年に22社に対して実施した。また、アルプス電気に残った社員、転職者、岩手県庁職員、スピンオフの経営に関わった公認会計士や中小企業診断士にもヒアリングをした。
スピンオフが群となって出現して生き残り、スピンオフネットワークを形成していくメカニズムを明らかにするために、過程追跡法にしたがって分析を進めていく。過程追跡法とは、特定の事象を時系列で追いながら、前の事象が原因となって次の事象を産んでいく因果の連鎖を確認することによって、因果メカニズムを明らかにするものである(George and Bennett, 2005;東・金・横山, 2021)。因果の連鎖によって特定の結果が生み出される過程を追っていく(Beach and Pedersen, 2019)。本事例のように、スピンオフが出現し始めてから30年の経過を追うには適している。因果メカニズムを真に明らかにするには、行為者に焦点を当てて、その意思決定や行動を確認していく(Trampusch and Palier, 2016)というミクロな分析が必要になる。本研究は調査時期が2009–2010年と2020–2024年に分かれており、1回目の調査によって確認したスピンオフネットワークが、その10年後にどのように変化したのかを、行為者である起業家達にヒアリングすることができた。スピンオフはどのように生まれたのか、そして、スピンオフ間で何が起きたのかを丹念に追っていくことが可能となった。
なお、日本でも経営学の領域で過程追跡法を使った研究が発表されている。沼上(1999)は、電子機器の技術革新の歴史を追いながら、行為の連鎖を解き明かしている。東・金・横山(2021)は、流通業の経営の変遷を、事象の連鎖を示す出来事構造図によって説明している。しかしながら、これらはスピンオフを対象にしたものではない。
3.2 事例の概要-アンカー企業盛岡事業部のプリンター事業は、電卓向けの小型プリンターに始まり、サーマルプリンター、ワイヤドット、グラフィックと開発を手がけ、熱転写プリンターの開発に成功してワードプロセッサ市場を席巻した。続いて、フルカラープリンターを発表したことによって、他社ブランドへ採用されるだけではなく、オリジナルブランドとしても発売された。その歩みは、部品やOEM製品を供給してきたアルプス電気の事業とは一線を画するものであった。
それら完成品であるプリンターの開発から生産までを一貫して手がけたことは、あらゆる専門知識の蓄積を盛岡事業部にもたらした。ハードウエアとソフトウエアの領域もカバーしていた。
盛岡事業部の文化はアルプス電気の中でも際立っていた。新しい技術や問題解決にチャレンジすることが推奨され、夜を徹して開発に勤しみ、また互いに議論をぶつけあっていた。若いエンジニアでも1,000万円の開発予算が与えられて大きな励みになった。また、顧客に提案に行き、改善点やニーズを聞き出すという経験を積むことができた。
3.3 事例の概要-スピンオフ群1990年からアルプス電気の業績が悪化したことによって1993年に全社的リストラ計画が発表され、業績のよかった盛岡事業部も85人の早期退職募集となった。対象となったのは、金型設計や製造を担当していた生産技術のスキルの高い技術者だった。彼らに生産機械や装置が無償で貸し出されて独立開業が支援された。こうして、約20社がスピンオフし、金型設計や加工をアルプス電気やその他企業から受託することとなった。多くの創業者は地元の工業高校出身者であり、地元で独立することに躊躇いはなかった。彼らは、受注が重なると、他のスピンオフに仕事を回したり、助け合うことで仕事の平準化をはかったりした。ほとんどは数人の小規模な組織であったが、大きくなったミクロトップからは6社以上のスピンオフが生まれた。これらを一期のスピンオフとみなす。
2002年の事業停止の発表以降のスピンオフは第二期とみなす。事業停止後は県外の事業部に異動が宣告されて、270人が異動し、330人が去っている。新たに14社のスピンオフが設立され、その創業者は盛岡事業部で開発を担っていた大卒の技術者であった。彼らの製品サービスの基本となる技術は、アルプス電気で経験したプリンター事業で獲得したものであり、たとえば、精密機械等のハードウエア開発、組み込み機器のソフトウエア開発や回路設計、画像系ソフトウエア開発等であった。彼らの起業のモチベーションは、単身赴任をしたくないという事情はあったが、第一期の起業者の活動から刺激を受けたことも大きかった。また、アルプス電気の他の事業部はOEM製品を扱っていたので、、異動したら盛岡事業部のように自律的に製品開発できる機会がないだろうと予想されたため、起業をして自分を試したいという気概を持った。もう一点あげるならば、岩手県下にアルプス電気と並ぶような電子機器メーカーがなく、カナダのブラックベリー事業縮小の事例(Spigel & Vinodral, 2021)に見られたような成長可能性が高いスタートアップも存在しておらず、転職の選択肢が少なかったこともあるだろう。
アルプス電気盛岡事業部は、1993年のリストラと2002年の事業停止によって、二期に渡るスピンオフ出現が起きた。外圧によって出現したスピンオフ現象である。時間の経過とともにスピンオフは増えていき、スピンオフネットワークが形成された。ネットワークの形成によって、スピンオフの生存率が高まったと推測できる。
刷り込み理論に則ったスピンオフの既存研究(Ferriani, 2012;2020;Feldman, 2019)は、新たな起業機会を見出した経営者や社員によって、自然発生的に親企業から出現するスピンオフを対象にしたものであり、事業停止等の外圧によるスピンオフを対象にしていない。
外圧によってスピンオフが同時に多数出現した場合に、親企業時代に刷り込まれた特性や能力やルーチンが、スピンオフ間にどのような影響を与えるのかを対象にはしていないのである。本研究の研究対象は、そこに新しさがあると考える。起業機会を見出して内発的に起業する場合に比べて、外圧によって起業をする場合には起業意思はさほど強くはなく、能動的というよりは受動的であろう。
研究課題は次のとおりである。なぜ、リストラや事業停止によって出現したスピンオフのほとんどが生存できたのだろうか。スピンオフが群れとなって出現して生き残り、スピンオフ・ネットワークが形成されて発展していくメカニズムを明らかにしていく。その際に、親企業における刷り込みがどのような影響を与えたのだろうか。本研究は、外圧によって出現したスピンオフを対象にしていること、アンカー企業時代に刷り込まれた知識をスピンオフが活用するセカンドハンドプリンティングが見られること、スピンオフネットワークの形成と発展まで追っていること、という3つの特徴を併せ持つ。そのような複合的条件設定は、これまでの既存研究にはなかった。
次章では、スピンオフがアンカー企業時代に刷り込まれた特性や能力やルーチンを活用しながらビジネスを立ち上げる現象をミクロに分析していく。さらに、その刷り込まれたものが、スピンオフ間の関係構築にどのように影響したのかを明らかにしたい。
スピンオフ間のネットワーク形成と発展のプロセスを、図2「過程追跡法によるプロセス」に示す。盛岡事業部時代の活動がスピンオフ出現の前提となり、二段階の外圧によるスピンオフ現象がネットワークの基盤を築き、スピンオフ間インタラクションがネットワークの発展と拡大を推進したことを段階的に示している。

(出所)筆者作成。
スピンオフが出現してネットワークを形成する前提として、盛岡事業部で培われた事業体制と組織文化があった。具体的には、アンカー企業における次のような経営と組織の特徴が確認できた。
① 会社方針のOEMから脱却したオリジナル製品開発
② 完成品の製品企画から製造まで一貫した開発生産体制
③ 起業マインドを醸成する組織文化
上記3点は、アルプス電気が創業以来、電子部品を地方都市で展開してきた経営とは全く異なるものである。盛岡事業部が他事業部から見ると異質な存在になったことは、他社と合弁事業として立ち上げる計画が撤回されたことに端を発する。米国のモトローラ社と建設するはずだった半導体プロジェクトが、オイルショックによる不景気によって中止になったのである。しかし、敷地の確保や建設は進んでおり、アルプス電気は単独で新たな方向性を見出さなければならなかった。盛岡事業所の事業部長に指名された武田安弘は、当時のアルプス電気の片岡勝太郎社長とともに、プリンター事業を盛岡事業部で始めるという大きな決断に至った。従来のアルプス電気の製品は、電子部品の供給か、顧客企業から発注を受けて行うOEM製品であったが、プリンター事業はいわゆるフロンティア分野に位置しており、1からの自主開発が求められる。アルプス電気の他事業部から技術者を集めても、ハードウエアもソフトウエアに関しても全く経験が足りなかった。
そこで、武田事業部長が掲げたことは、自分の頭で考えて製品サービスを提案してよい、良い提案には十分な予算を即座につけることだった。上司部下も関係なく、「技術の前に平等である」と従業員を鼓舞した。組織の文化は自由闊達となった。
「武田事業部長が、一つの事業部で、プリンターの総合メーカーを目指そうとか、完成品ビジネスをしようとか、それから、優れた製造技術、つくろうとか(号令したので)、みんな、引っ張られて、すごく明るくなって、じゃあ、自分たちでやってみよう、みたいな感じになりました」(アイカムス・ラボのK氏)
「自分たちでマーケティングして、自分たちでやりたいことを考えて、アイデア会議みたいなのもやってたし、それはいい文化だったと思う。好きなことやっていいと言われても、ただ製品提案会議で、ちゃんと審議を通る提案じゃないとお金はくれないですよ。お客さんだって、やっぱりちゃんとした提案じゃないとお金は出さないし。年に2回の提案会議に出していく。そうすれば、10個出せば一つぐらいやらしてくれるんですよ。」(イーアールアイのM氏)
その提案会議に出された案件は多く、「社内の企画闘争」という表現をしたインフォマントもいた(イグノスのO氏)。
無我夢中となった技術者たちは、残業が増えていくが、事業部長は残業代を全て請求するように社員に伝達していた。
「残業してもいいけど、絶対、ただ残業はするなって。サービス残業してはいけないと。それはポリシーでしたね、武田さんの。やったものを付けろと。だから初任給とか、会社入って1年、2年目は残業代のほうが基本給より多かったです。」(イグノスのO氏)
また、泊まり込みで開発が進められることも多かった。仮眠をとる部屋のことを「お座敷アルプス」と名付けて、複数の社員が順々に休息を取っていたという。
「お座敷アルプスで夜が明けてきて、朝方、みんな悲壮感、漂っていたかいうと、むしろ、よし、今日こそやっつけてやるみたいな、行くぞみたいな、そんなテンションでみんな、休憩して、また戦場に戻ってました」(D社のT氏)
「あんまり、つらいというイメージがないです。好きでやったからっていうことはあるでしょう。要は、アルプスのシェアがトップのプリンター市場で、自分がやった製品が世の中に出るのを見ることができるわけなんで、そういうのは非常に開発者としてはやりがいがありますよね」(イーアールアイの社員MR氏)
若いエンジニア達にも権限移譲された結果、自律した人材が育っていくことになった。
「私は盛岡採用の3期生なんです。だから、先輩はほとんどいないので、入ってから即、実行部隊ですね。設計やれと。設計したこともないのに設計やれっていうことで、プリンターの設計を始めたんです。上司も先輩も多くなくて、そんな縛られる雰囲気でもないし、武田さんっていう事業部長も非常にユニークな人というか、下の人間に権限委譲をしてくれるんですね」(イーアールアイの社員H氏)
「盛岡に入った人間は、多分、起業した連中もそうだと思うんですけども、上司を上司と思わず、先輩を先輩と思わず、唯我独尊で、わが道を行くというやつらが多いと思うんですよね。」(イーアールアイ社員のH氏)
「技術を前にすれば人は平等であるというふうに先輩から言われて。つまり、技術を前にすると、年齢は関係ない。先輩も後輩もなくて、そういう雰囲気が盛岡工場にあったので、若者が上の人たちとかに平気で、はっきり言えるような雰囲気。だから、私もだいぶ生意気なやつだったんじゃないかと、実は今、思います。」(アイエスエスのKM氏)
プリンターという完成品の開発を手がけることは、当初、片岡勝太郎社長が推したものの、次第に本社の経営陣の多くから批判的に見られるようになった。本社の意に即していないという認識が社員にもあったことが確認できている。
「盛岡事業部は非常にアグレッシブな事業部で、かつ厳しいとは思いますね。やっぱり、自分たちで何かを考えて作り出していかないと、事業部が成り立たないって環境の中でいましたんで。何かを作り出そうっていったときに、本社の意に反してプリンターとかパソコンとか完成品を作ってしまうという、そういう荒唐無稽な人たちがいっぱいいました。」(I社のM氏)
盛岡事業部が本社から逸脱して自由に製品開発していたことを次のように表現したインフォマントもいた。
「地方工場の立場ではなく、自分たち自身で、市場調査、企画開発、販売戦略をやってました。本社の言いなりには絶対ならない。本社の人が来ると、どうやって対応して、弾が当たらないようにさっと逃げるか、やった振りしてその場をしのぐかでした。自分たちが先行して独立してやるというアントレプレナーシップ。目標意識が高くて、コーポレートアイデンティティーではなく、ディビジョンアイデンティティーなんです」
「世界第一級の企業と付き合う。国内メーカーではソニーやパナソニック、海外の企業ならIBMやHP。そういった企業との打ち合わせに行って、知らず、知らずにレベルアップせざるを得ないんですね。」(アイエスエスのF氏)
そのような中で、次第に能力を上げつつ、独立心も備わっていく社員が、独立起業に結びついていたのではないかと解釈しているインフォーマンㇳも多かった。
「盛岡事業部は野放しなので、人が育っちゃうんです。それだけ上司が決め付けないんですね、ああしなさい、こうしなさいではなくて。そういう中にいた人間っていうのは、多分、何か勘違いして僕みたいに起業してみるとなんかできるんじゃないかと思うように、育っちゃうんですよ。」(I社M氏)
盛岡事業部以外を経験したことがあるインフォーマントは、他の事業部とは全く異なる組織体制と文化であったと語っている。
「他の事業部は全然違いましたよ。他事業部には人がたくさんいて、自由がない。それから、権限委譲っていうのもなくって、最終的には事業部長が何でも決める。その下に統括部長っていう、技術の統括部長と製造の統括部長が取り仕切っている。やってる製品もつまんないし、組織もつまんないし、私としてはあんまり好きな事業部ではなかったですね。」(イーアールアイ社員のH氏)
ところで、盛岡事業部に集められた人材は、そもそも、平均的な社員からは逸脱していたのではないかという指摘があった。武田事業部長の側で長く働いたF氏は、「新しいことをやりたくて、行き場のない人たちだった」と振り返る。他のインフォマントも、そのような人材を、アルプス電気本社の人事担当が意図的に送り込んだのではないかという指摘をしている(イーアールアイのM氏、D社のT氏他)。
社員が提案した技術や製品にお墨付きを与える制度として、年2回の製品提案会議があった。各課から5件程度の新技術や新製品の提案が行われて、合格すると予算が与えられた。新人の提案に1,000万円の予算がつけられることもあった。さらに、特許を取ることが強く奨励されており、要素技術や製品設計に加えて生産技術も対象であった。
こうして新技術や製品開発が推奨された結果、それらを、顧客となりうる大手電子機器メーカーに持ち込むという、従来のアルプス電気にはなかった提案型営業が始まった。1970–1990年代のプリンター事業は電子業界の期待の星であり、大手電子機器メーカーはこぞって盛岡事業部の提案を受け入れた。以下がその例であり、OEMだけではなく、自社ブランド製品も送り出している。
1976年 盛岡事業部開設してマイクロプリンタ事業開始
1977年 小型プリンタがキャノン社に採用
1983年 総合プリンタメーカーを目指す方針決定
1984年 熱転写プリンタの市場シェア80%
1995年 高画質プリンターのOEMと自社ブランド
このように、OEMから脱却したオリジナル製品開発(①)が進められ、他事業部にはありえなかった完成品の製品企画から製造まで一貫した開発生産体制(②)を構築できた。それは、社員にとっては、事業化に必要なスキルを学べる機会となった。また、社内のどの部署にどのような技術や能力を持った人材が存在するかを理解する機会となったのである。そのことが、後々、アルプス電気から独立して起業をする際に、大きな助けとなるのである。
起業マインドを醸成する組織文化(③)については、武田事業部長が醸成したという指摘は多い。武田事業部長自身については、多くのインフォーマントが、良い緊張感をもたらすという意味での怖い人だったと評している。
「薫陶を受けながらやりました。会社の工場がワンフロア、70メートルぐらいあったかな。ばか者って叱られると、向こう側の壁に反射して、ばか者って木霊があるような叱られ方をしながらやってました。」(アイエスエスのF氏)
「怖かったですよ。武田さん、本当、怖かったですよ、なかなかオーラがあって。そういう意味だと、背筋伸ばして、みんな、しっかりやるっていう風土はあったのかもしれないですね。」(D社のT氏)
「なんて言ったらいいんですかね。やっぱり雰囲気ってあるじゃないですか。工場の端から端で階段を降りて顔が見えたら、思わずおじぎしておはようございますって、聞こえなくてもやってしまいたい人だったんですよ。」(エフアンドディ社のKD氏)
また、現場を回って声をかけることに熱心であった。元社員で、後にスピンオフ企業で働くことになったMT氏は、次のように事業部長のことを評している。
「武田事業部長は本当に現場を見てたんですよ。そして、現場の現実を見て指摘なさるじゃないですか。だから怖いし的を射ているし。」
「僕が金型作ってるじゃないですか。そうしたら時々来られるんですよ。まだ駄目ですけど、もうちょっと待ってくださいと言うと、どこが駄目なんだって、聞かれる。明日は大丈夫だと思いますよとか、答えました」。
「社員と一緒に、昼休みに喫茶コーナーでコーヒー飲みながら、世間話をするんだけど、社員がなにを考えているのか、リサーチされていたと思います。現場の部下たちの状況を見た上で、戦略つくられてました。だから、われわれは楽しかったんだと思いますよね。」(M・D・エンジニアリング、MT氏)
社員のプレゼンテーション能力を高めさせるために、製品提案会議の場を利用していた。質問は鋭く、「今のはなんだ?何をしようとしてるんだ?」と、スライドの中身を指摘する。特に若手に対しては厳しかった。社員が顧客のところへ出向いたときにしっかり提案できるように、プレゼンテーションをわかりやすく、ポイントを得たものになるように指導していた。
武田事業部長は営業能力が高く、立場上、トップセールスの機能を果たした。社員が顧客の担当にプリンターの企画を持ち込んだ後に契約に至るかどうかは、事業部長レベルの交渉にかかっている。武田は、顧客の事業部長を明るく接待して、契約を勝ち取っていった。顧客から見た武田事業部長の印象は、「ロマンがあって、面白いかたですね」であったと、当時の部下であるMJ氏が語っている。
5.2 第一段階:一期スピンオフ出現第一期はリストラによって、第二期は事業停止によって、群れとなってスピンオフは起きた。その際に、開発機能を持つ第二期スピンオフの事業展開を、既に地固めをした生産機能を持つ第一期スピンオフが支えるという予期せぬ結果を生んだ。この順番が逆に起こっていれば、開発機能を持つスピンオフの製品開発は難渋したであろう。
では、一期のスピンオフ出現について詳しく記述してみたい。この時期にスピンオフした創業者の多くは地元の工業高校卒業後にアルプス電気に入社し、盛岡事業部の加工技術課に所属していた。独立開業時に選んだ立地は、盛岡事業部の近隣に位置する盛岡市の北部や八幡平市が多い。
1993年に全社的リストラ計画が発表された。希望退職に応募しないかと盛岡事業部の管理層が声をかけたのは、独立開業しても自律的に事業が営めるトップクラスの生産技術者達であった。その一人であるKW氏は、工業高校を卒業後、20年間勤務して加工技術課の係長をしていた。事業部長に勧められて38歳でミクロトップ社を立ち上げることになった。
「僕は、上司から、会社をやったらどうかと声をかけられました。『いやいや、とんでもないです、高い工作機械を全部そろえなきゃいけないので、数億単位の投資が必要です』と返したら、その上司が『そうか、機械持っていってもいいぞ』という話をするんですよ。機械の無償貸与です。しかも、人についても、選んで持っていっていいというんです。それで、僕は先に退職して半年間かけて工場を準備しました。その間、後から社員として入ってくる予定の7人の給料はアルプスが払ってくれるし、その間に、工場の場所探しとか営業をしてました。」(ミクロトップ社、KW氏)
ミクロトップ社の設立直後のクライアントはアルプス電気であった。アルプス電気の中でしていた金型設計や部品加工を、スピンオフした会社に移行したことになる。やがて、取引先は増えていき、地元企業やヒロセ電気や日本電産等の大手からの受注が増えていった。
数年経つと、希望退職に応じてミクロトップに参画した7人の中から5人が独立して、スピンオフの連鎖が起きた。いずれも、金型設計や部品加工を手がけている。
五社のうちの一社である一条を立ち上げたI氏は、次のように語っている。
「アルプス電気から出てこぢんまりとした会社に移ると、だんだん自分の実力っていうのが分かってくる。それが分かってくると、じゃあ、自分でやろうかなとかいう気持ちが芽生えてくるわけです。当然、そうなってくると、アルプス電気にいた時のように、仲良くだけしてられないです。お互い伸びるために、会社をよくするために、いろんな話をします。そうすると、人としても成長するし。ミクロトップから独立した会社は、それぞれ得意な加工があります。競争しません。むしろ、自分の会社でできないことを、他の会社にやってくださいと頼みます。」(一条、I氏)
もう一社ミクロトップから独立したスタープロのH氏は、ミクロトップから機械を借りて出発した。
「研削機械、研削盤一つにしても1000万ぐらいするので、ミクロの仕事100パーセントやるんで貸していただけませんかと、ミクロトップさんにお願いしたら、ああいいよって言ってくれたんで、会社として成り立つと思って独立しました」(スタープロ、H氏)
そのように、ミクロトップからスピンオフした5社間では、受注を融通しあって仕事を平準化したり、新規顧客の紹介を行ったりして、相互扶助の関係が確認できている。
また、ミクロトップに参画しなかった元アルプス社員の独立開業にも、ミクロトップは関わった。たとえば、生出精密のHT氏は、アルプス電気退社後から自分の会社をたちあげるまでの間、ミクロトップの装置を夜中に借りて仕事をさせてもらった。また、会社の立ち上げの際には、資本金をミクロトップのメンバーから一時的に借りた。
以上、ミクロトップを中心に第一期のスピンオフの紹介を行ったが、そのほかの約15社のスピンオフ間でも、受注の融通による仕事の平準化や顧客の紹介を確認できた。また、一社が元請け企業となって他企業へ仕事を割り当てることも頻繁に行われた。
「ミクロトップさんは、グループでアルプス電気を辞めたのでスムーズでしたが、私は1人で会社作って大変だった。当初、私は、ミクロさんから仕事もらって設計やったりとかしてました。」(M・D・エンジニアリング社のTM氏)
「うちの会社がもしもミクロさんが付き合っているお客さんに入っていくと、ライバルみたいな感じになるじゃないですか。だから、なるべく入らないようにします。ミクロさん経由で仕事が来ることはあります。また、依頼された仕事の中でやり切れないのは、お互いに出しあうようなことがあります。」(M・D・エンジニアリング社のTM氏)
「それぞれ得意分野がまずあって、その道のプロになってます。起業した人たちっていうのは、得意なことで起業してますから、お互いに、問題があったときに、この問題は誰に電話すれば解決とか、ヒントをもらえるかっていう格好で、電話一本で、つながれる状態になってる。」(F社のS氏)
「アルプスから起業した会社の紹介で、電話がかかってくるんです。『誰々さんから聞いてきたんですけども』とか言って。先日も、あるお客さんが某社に相談に行ったら、弊社に行ったらいいと勧められたそうです」(F社のS氏)
起業しなかったアルプス元社員は一期のスピンオフ間の関係を次のように説明している。
「彼らは個々で連絡網を作ってて、注文が来たら、受けたい会社を探しています。ネットワークになっていて、手が空かないときには他社に投げるとか、作るのは自社でやるんだけど、フォローのところを頼みたいとか、ルールさえ守っていれば、自由にできるというやり方のようです。」
起業マインドの鼓舞ということでは、プリンター事業を手掛けることを決定した片岡勝太郎社長の語りは影響が大きかったようである。
「勝太郎さんが年に1回、各事業部に講演で回ってたんです。『おまえたち、高校卒業は大卒には負けるから、自分で起業できるぐらい技術を積みなさい』。という言葉が、今でも頭の中に残ってます。『人事制度からいってもなかなか上がりにくいし、だから、プロフェッショナルになって、1人でやれるんだったら、自分でやったほうが、ずっといい』っていう話をされてました。」(F社のS氏)
5.3 第二段階:二期スピンオフ出現2002年の事業停止以降の第二期スピンオフを紹介したい。14社のスピンオフの創業者のほとんどは盛岡事業部で開発を担っていた大卒の技術者であった。一期のスピンオフの創業者が地元の工業高校卒業者であったことと比べると、第二期の創業者の出身地は必ずしも岩手県ではない。彼らの製品サービスも、アンカー企業であるアルプス電気盛岡事業部勤務時代に獲得した技術をベースにしている。彼らは、盛岡を離れて、他県にある事業部に異動して単身赴任するという選択をしなかった。代表的な4社の創業者が起業にいたった経緯を紹介したい。
「(第一期のスピンオフした人達の話を聞かせてもらって)、すごいなと思っていました。事業停止の発表前だったので、自分も、いつかなれるといいな、みたいな感じ。そうやって周りに、ちゃんと外に出てやってる人たちがいるっていうのは、(いざ自分が起業するときに)励みになりました。しかし、第一期の手に職のある人たちと、僕らは違います。僕らはどういう製品を作って売っていくのか、考えないといけない。特別な装置や製品を作るために、ハードウエアやソフトウエア技術をもった人を集めないといけなかった。」(アイカムス・ラボのK氏)
アイカムス・ラボの創業者3人はアンカー企業出身であり、うち2人が出資した。
「学生のときに、起業家大学サマースクールに参加したことがあるんですね。いつか起業できたらいいなという意識が自分の中に刷り込まれていた。事業停止が決まったので、転職を考えて幾つか当たっていた最中に、一緒に会社をやらないかという話がO氏からあったので、会社をつくりました。O氏とは、一緒に仕事をしたことはなかったのですが、私がつくったソースコードが30機種全部サポートするので、すごいやつだって思っていたそうです。」(アイエスエスのKM氏)
アイエスエスの創業者2人はアンカー企業出身であり、出資者11人の全員もアンカー企業出身であった。
「事業停止になる少し前に、5年の単身赴任を終えて盛岡に帰ってきました。また転勤していわきや長岡に行く選択肢はあったんですけども、45歳を超えて、いまさら違う地域に行くのはないなと。好きな所で働けたらいいと思っていたところに、上司から、いい需要があるから、起業したらどうかと勧められました。しかし、1年ほど、アルプスの同僚たち何人かと一緒に地元企業に身を寄せたんですが、そこから分かれる形で、この会社を4人で作りました。」(イーアールアイのM氏)。
イーアールアイの創業者4人はアンカー企業出身であり、全員が出資した。
「事業停止後に、アルプス電気を退社した技術開発系の人材を岩手県にとどめるための公的な制度ができました。それに応募して採択されたので、研究開発費をもらいながら、2年後に会社を立ち上げました。アルプスの元社員は、互いにわかり過ぎていると、なあなあになっちゃうのが嫌だったので、採りませんでした。」(イグノスのO氏)
イグノスの創業者1人はアンカー企業出身であり、他に出資者はいない。
これら4社の概要を表1に挙げる。アイカムス・ラボは、マイクロアクチュエーター関連の開発に特化しており、医療用の電子ピペットという完成品も提供している。これは、オリジナル製品として評価が高い。アルプス電気の他県にある事業部からの受注は皆無である。同じく、アルプス電気に依存していないのは、画像系ソフトウエアを検査機器や測定機器に提供するイグノスである。イーアールアイは、組み込み機器のソフト・ハード開発を行なって車載用とIoT向けの無線システムを提供している。無線システムはオリジナルブランドも有している。アルプス電気への依存度は30–50%である。アイエスエスも、組み込み機器のソフト・ハード開発とAIアルゴリズム開発を行なってプリンター関連機器や画像処理サポートに特化している。アルプス電気への依存度は30%から10%へと減っていった。いずれの企業も、特殊な機能を持つコンポーネントやソフトを提供するB2Bビジネスを展開していることになる。クライアント企業は主に東北地域が多いものの、首都圏等からの受注もある。大手VCから投資を受けた企業はなく、20年を経過しても従業員数は多くない。代表格のアイカムス・ラボが40人、イーアールアイが60人規模である。
| 会社名 | アイカムス・ラボ | イーアールアイ | イグノス | アイエスエス |
| 設立 | 2002年 | 2002年 | 2003年 | 2002年 |
| 2021年の従業員数 | 40人 | 60人 | 7人 | 19人 |
| 資本金 | 4227万 | 5433万 | 965万 | 2400万 |
| 外部投資 | 2500万(地元VC) | |||
| コア技術 | マイクロアクチュエータと関連製品の開発 | 組込機器のソフト・ハー ドの開発と回路設計 |
画像系ソフトウェア開発 | 組込機器のソフト・ハードの開発とAIアルゴリズム開発 |
| 主な製品サービス | 医療用の電子ピペット | 車載用とIOT向けの無線システム、医療機器開発 | 検査機器、測定器、画像シュミレーション | プリンター関連機器・画像処理サポート |
| クライアント | 医療機器メーカー、製薬会社、国立研究所 | 電子機器メーカー、ゼネコン、印刷サービス | 検査装置メーカー | 電子機器メーカー、検査装置メーカー |
| アルプス売上比率 | 0% | 30–50% | 0% | 30%→10% |
(出所)筆者作成。
第二期スピンオフの創業当時における、プロトタイプ開発を支えたのが第一期のスピンオフだった。小ロットの特注部品や金型の試作を請け負ったのだ。委託された第一期のスピンオフが第二期のスピンオフのニーズをしっかりと理解することができたのは、盛岡事業部時代に共に仕事をしてきた経験があるからだ。誰がどのような専門知識や能力を保有しているかを共有しており、コミュニケーション能力も高い。第一期のスピンオフが第二期の製品開発を納期面でもコスト面でも支えることとなった。
5.4 第三段階:スピンオフ間インタラクション第一期と第二期もスピンオフ間では、互いの専門性や強みがよく理解され、スピンオフ間のインタラクションは多い。インタラクションを分類すると、①共同製品開発や市場情報の共有、②人的資源の融通、③新規事業開発推進である。
①の共同製品開発は、時には、一期と二期を合わせて10社ほどが組むような大きなプロジェクトもあった。第二期のスピンオフが各々の要素技術を統合するような共同製品開発が試みられることもある。代表的な12個の共同製品開発プロジェクトを挙げている(表2)。この4社はコラボレーションのレギュラーメンバーである。4社のうち3社がリーダーとなって、メンバー企業を指名している。オリジナルブランドならリーダー企業の要求に、受託開発ならば顧客のニーズに確実に応えられるようにベストな体制で開発に臨む。これら共同プロジェクトにおける関係性は水平的であり、各々の企業は自律的に行動している。例えば、受託開発における顧客との契約は、リーダーの企業が一括契約することもあれば、メンバーの企業が別々に契約することもある。また、リーダーの企業の要求を簡単に受け入れないこともあり、「皆(スピンオフ)、わがままです、受注してきた窓口企業の言うことを簡単には聞いてくれません」というコメントもあった。また、「仕事をお願いしようとしても、『今はもう無理です、一年位無理』と言われることもあるんですよ、隙間にお願いできたらありがたいのですけど」のように、多忙のために新しいプロジェクトを受け入れてもらえないこともある(以上、アイカムス・ラボのK氏)。各社はあくまでも互いに独立を保ちつつ、緩く結びついている。
| プロジェクト | 民生用モバイルプリンタ (自社ブランド) |
マイクロアクチュエータ (自社ブランド部品) |
製薬機器 (受託開発) |
医療用のプリンター (受託開発) |
電子映像のアミューズメント機器 (受託開発) |
医療用電子ピペット (自社ブランド) |
ブルートース発信機 (自社ブランド) |
渡航証明書プリンター (受託開発) |
農産物検査機器 (受託開発) |
医療用測定器 (受託開発) |
培養装置CytoAuto (自社ブランド) |
可視化ツール:InQross (自社ブランド) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 2002–2004 | 2003– | 2010– | 2010 | 2011 | 2011–2015 | 2012 | 2014 | 2014– | 2014– | 2015– | 2020 |
| アイカムス・ラボ | メカトロニクス | メカトロニクス | コア部品製造 | メカトロニクス | メカトロニクス | 製品設計 | ||||||
| イーアールアイ | 回路設計と組み込みソフト+ハード開発 | 回路設計と組み込みソフト+ハード開発 | 組み込みソフト+ハード+筐体開発 | 組み込みソフト開発 | 組み込みソフト開発 | 組み込みソフト+ハード+メカ開発 | 組み込みソフト+ハード+筐体開発 | |||||
| アイエスエス | 組み込みソフト開発 | メカ・組み込みソフト・PCアプリ開発 | メカトロニクス | メカトロニクス&ソフトウエア | メカトロニクス | 組み込みソフト&PCアプリ開発 | ||||||
| イグノス | 画像検査 | 画像処理 | システム設計 |
(出所)筆者作成。
「イーアールアイでも、アイカムス・ラボでも、イグノスでも、それぞれの案件と、別々のお客さんを持っている。自分が取ってきた案件をこなすために、自社内でリソースが足りないものを、他へ頼む。例えば、イグノスさんに画像処理やってもらおう、もしくはメカの辺りだったらアイカムス・ラボに相談しようとか、そんな感じですね」(イーアールアイのM氏)
「お互いに、人的な力量(能力)が分かっている、何が得意か知っている、また、相手の期待値がわかっている。やり方とかルールも同じで、基本的にはわれわれのスタイルで、できるっていう感じかな。だから、そこがある意味では共通言語になって、やりやすいっていえばやりやすいんですよね。一から説明しなくてもいい。」(イーアールアイのM氏)
表2にある、2003年にアイカムス・ラボがリーダーとして進めたマイクロアクチュエーターの事例を紹介しよう。この部品は、プラスチック製の歯車を搭載して小型・軽量・高精度を実現した。この時点では、多くの用途が想定されたものの、大きな需要を生み出す用途は見つかっていなかった。やがて8年後の2011年に、細胞実験や医療現場での精密薬液投与に耐える仕様になったことから、表中の医療用電子ピペットに組み込まれることになった(図3)。

(出所)アイカムス・ラボ社提供資料を元に筆者作成。
2003年の体制は表3にあるように、第二期のイグノスから画像検査技術の供与を受け、第一期の7社には、歯車の金型加工・成形、精密加工、表面処理、生産設備の仕事を委託した。スピンオフのスピンオフである会社にはソフトウエア開発を依頼している。
| 会社名 | 担当機能 | |
|---|---|---|
| 第二期 スピンオフ |
アイカムス・ラボ | メカトロニクス |
| イグノス | 画像検査 | |
| 第一期 スピンオフ |
MDエンジニアリング | 歯車の金型加工・成形 |
| ミクロトップ | 精密加工 | |
| 小出精密 | 精密加工 | |
| スタープロ | 精密加工 | |
| ファーストコート | 表面処理 | |
| ADD | 生産設備 | |
| エフアンドデー | 生産設備 | |
| 再スピンオフ | ナノソフト | ソフトウエア |
(出所)筆者作成。
インタラクション①の市場情報の共有を説明したい。スピンオフ間では、新しい技術の動向や、市場情報の交換を常に行なっている。困ったことがあった時や、人を紹介してほしい時には、すぐに電話をして相談をすることが多い。また、食事会やゴルフを通じて情報交換することも見られる。それは、アルプス電気に留まった社員も含めておこなわれていることが確認できた。
インタラクション②の人的資源の融通は、どこかの会社で経営が苦しくなったり、受注が少なくなったりするようなことが起きると、従業員を他社にレンタルしたり、引き受けてもらうようなことを行なっている。時には、会社を閉めてしまい、経営者が従業員と一緒に転職するようなことも見られる。
興味深い例として、アンカー企業時代の上司が、起業した部下達のビジネスを顧問として支援している。MT氏はアルプス電気に定年まで勤めた後、第一期のスピンオフのエフアンドディーとM・D・エンジニアリングに技術顧問として迎えられた。この二社の創業者は、事業部閉鎖前は、MT氏の部下として、金型設計等の生産技術を担当していた。二社は小規模企業の経営にありがちな受注の緩急に悩む状況にある。非常勤としてのMT氏の仕事は、設計のサポートのような技術面だけではなく、見積もりを作成し、時には営業支援も行なった。さらに、二社は息子への事業承継を予定しており、MT氏はその息子達の教育係としての役割も果たした。盛岡事業部時代に刷り込まれたルーチンや知識やビジネス倫理が、三世代に渡って引き継がれていくことになる。
続いて、インタラクション③の新規事業開発推進も確認できた。新規事業は、単発の製品開発だけではなく、新しい事業として独立した会社を輩出することも起きている。たとえば、アイカムス・ラボは、ロボット開発のプロジェクトを、子会社として切り出している。この事業化に際して、スピンオフネットワーク内の企業がもつ技術を最大限に活用している。
ここで、スピンオフを年代別に、第一期、第二期、スピンオフからのスピンオフ別に、示しておきたい。スピンオフからのスピンオフ、いわゆるスピンオフの連鎖(福嶋, 2015)が生まれていることが確認できる(図4)。

(出所)筆者作成。
以下3点がスピンオフネットワークの発展による成果である。
① 知識習得・創出
スピンオフ間の共同製品開発プロジェクトによって、知識習得・創出及び市場情報の共有が行われた。第一期スピンオフ間では元請け企業による他社への割り当てや仕事の融通が行われたことや、第二期スピンオフの新製品開発が最適なコラボレーションの体制を敷いて進められたことが土台になっている。どの企業に特定の機能や技術の提供を依頼すればよいのかが即座に思い当たる。そして、新たな製品開発によって、それら情報が更新されていく。
② 人材流動化による雇用調整
スピンオフ・ネットワークの中で人材が流動化して、雇用調整と知識の移転が行われた。
③ スピンオフの連鎖
スピンオフからスピンオフの出現、つまりスピンオフの連鎖が起こり、世代間のインタラクションによって、顧客に提供する製品サービスの範囲が拡大した。
本章では、過程追跡法を使って、スピンオフネットワーク発展までのプロセスを確認してきた。それをまとめておきたい。
アンカー企業の事業と組織文化及び二段階の外圧は、アンカー企業の意図により起きたことであり、スピンオフする側にとっては偶然に用意されたものである。スピンオフの経営者たちの意思や努力がどんなに大きかったとしても、アンカー企業の組織文化や二段階に分かれた外圧がなければ、スピンオフの立ち上げはスムーズではなかっただろう。そして、それらの好条件をうまく活用して起業を行い、スピンオフ間で連携を進めたのは、スピンオフの経営者たちの意図である。さらに次の段階として、ネットワークが発展していくには、新たな知識習得・創出はもちろん、新領域への進出や新たな顧客開拓が望まれる。そのために、スピンオフ間で共同製品開発を行い、時には新領域進出のために次の世代のスピンオフを促している。つまり、先行研究(Fazlelagh et al., 2022)が指摘するように、アンカー企業から引き継いだもの以上に生存に影響を与えるのは、スピンオフ・ネットワークそのものである。ネットワーク内の活動が高まることによってスピンオフの生存率は高まり、ネットワークは発展したのである。
本章では、アンカー企業からの刷り込みが、個々のスピンオフの経営や、スピンオフ間の連携に与えた影響について議論を進めたい。
6.1 アンカー企業時代の刷り込み盛岡事業部は他の事業部からは異質な存在であった。事業部立ち上げ時からプリンターというオリジナル製品を手がけることが、その異質な存在になっていく出発点となった。事業部が立ち上げられた直後が、刷り込みが形成される敏感な時期(Marquis & Tilcsik, 2013)ということになる。刷り込み者(Imprinter)は事業部長である。
先行研究では、刷り込み者は創業者として描かれることが多く(Beckman & Burton, 2008)、刷り込み者の持つ、独自の背景やビジョン(Ainamo, 2005)やパーソナリティ(Gruber, 2010)やアイデンティティ(Fauchart & Gruber, 2011)に重点が置かれている。本事例でも確認できる。
事業部長が掲げたビジョンは、技術の前に人は平等、権限委譲、自由、独立であった。事業部長のパーソナリティは、仕事に厳しく緊張感を与えつつも、現場を見て回り、部下たちの声に耳を傾けていた。盛岡事業部のアイデンティティは、企画から開発まで責任を持って担当すること、オリジナル製品を手がけること、新規顧客の開拓であった。これらが、盛岡事業部の組織的ルーチンや組織文化を作り上げた。
それでは、具体的に何が刷り込まれたのだろうか。先行研究で指摘されている刷り込まれるものとは、技術、能力、ルーチン(Roberts et al., 2011)やビジネスモデル(Ferraiani, 2012)などである。本事例で刷り込まれたものは、技術についてはプリンターの全域に及ぶハードウエアやソフトウエアの知識、能力としては企画力、顧客提案力、プロジェクト管理能力が挙げられよう。また、組織の特性として、平等、権限委譲、自由が、そして、組織的ルーチンとしては、企画から製造まで一貫した運営体制、問題発生時の対処法が挙げられよう。これらは、プリンター事業が軌道に乗るにつれて培われて刷り込まれていったのであり、時間の経過とともに、組織の特性と組み合わさって新たな刷り込みを生み出していったのである(Kriauciunas & Kale, 2006)。
特に、最初のプリンターの製品化に成功した時期に刷り込まれたコンテンツは重要であっただろう。事業部立ち上げ期が刷り込みの形成期であれば、最初の製品化成功は敏感期(Simsek & Heavey, 2015)ということになる。最初の製品化に成功した「マイクロプリンター」と、夜中働いて休眠をとる「お座敷アルプス」のような人工物(Bryant, 2012)は、シンボリックに位置付けられて語り継がれることとなった。
そして、新しいプロジェクトが立ち上がって開発が進むほど、新しいプリンターの機種が市場に投入されるごとに、刷り込まれるコンテンツが増えていき、更新されていく。それらコンテンツが共有されることで、各自の頭をつなぐ記憶システムとなっている。いわゆるTransactive Memory System(TMS)が形成され、活発な事業展開の下にあって、情報は更新されていったのである。TMSとは組織の中における相互依存的な記録システムであり、「誰が何を知っているか」を体系化し、情報処理を最適化する(Hollingshead, 2001;Lewis & Herndon, 2011;Wegner, 1987)。TMSを活用することによって、組織は、有能なメンバーに仕事を割り当てていき、困った時には誰に助言を求めればよいかを知ることができる(Argote & Guo, 2016)。
6.2 二次的刷り込み前節では、アンカー企業時代の刷り込みが、スピンオフ後にも大きな影響を経営に与えるという二次的刷り込み(セカンドハンド・プリンティング)を確認してきた。アンカー企業で手がけてきた技術、第一期ならば金型設計や加工技術が、第二期ならばハードやソフトウエアの要素技術が、スピンオフの製品サービスの土台になっている。また、前節で挙げた能力や組織の特性や組織的ルーチンを活用して、創業者とアンカー企業の元社員は、スピンオフの組織体制やルールづくりをスムーズに進めたことは間違いない。例えば、イーアールアイ社では、他社との取引に関する契約書や決済はアンカー企業のルールを踏襲した。給料についても同じような手当を設定し、人事評価の方法もアンカー企業における目標管理制度を習って長らく使った。さらに、経営方針も、アンカー企業の事業部長の考えを引き継いでいた。OEMだけではなく、自社ブランドを育てて意思決定権を持つことを目指し、製品開発の提案制度によって社員が自主的にアイデアを出すことを推進した。このようにアンカー企業時代の組織的ルーチンを真似ることは、他のスピンオフにも見られた。例えば、取引の契約書や決済方法を踏襲することは、スピンオフ間の取引の際に利便性が高い。
スピンオフ間で的確な分業体制を敷くためにも、アンカー企業時代の刷り込みは大きな力を発揮した。一期のスピンオフ間では、元請け企業が他企業へ仕事を割り当てる際や仕事を融通しあう時には、刷り込みされた知識が大いに役に立った。また、二期のスピンオフが協力体制を敷いて取り組んだ新製品開発をスムーズに進めるためにも有効であった。必要な専門知識に詳しいのは誰か、特定の課題を調整できるのは誰かを判断するために、アンカー企業勤務時代に構築されたTMSがうまく機能したのだ。先行研究では、課題が不確実で、課題を完了するために新たな問題が生じる可能性がある場合には、TMSの価値が高まる(Ren, Carley, & Argote, 2006)とされている。スピンオフが協力して進める新製品開発にこそ、新たな課題を処理するために、TMSは有効であっただろう。TMSの有効性については、稿を改めて議論をしたい。
本研究は、2回の外圧によって出現したスピンオフが生んだスピンオフ・ネットワークの形成と発展のメカニズムを明らかにしてきた。過程追跡法に従って明らかにしたプロセスは、アンカー企業の事業と組織文化(前提)、一期スピンオフ出現(第一段階)、二期スピンオフ出現(第二段階)、スピンオフ間インタラクション(第三段階)、スピンオフネットワークの発展(成果)であった。アンカー企業時代に刷り込まれた能力やルーチンをスピンオフが活用するという二次的刷り込みが起こり、分業や共同製品開発の際には、その能力やルーチンが更新されていった。
刷り込み理論に則ってスピンオフのプロセスを明らかにした研究は過去に存在するものの(Ferriani et al., 2012;2020;Feldman, 2019)、自然発生的にアンカー企業から出現したスピンオフを対象にしており、リストラと事業停止によるスピンオフを対象にした本研究とは立ち位置が大きく異なる。先行研究において起業機会を積極的に求めた起業家達に比べると、本研究の起業家達は受動的に起業家活動を始めたと見做してよいだろう。受動的であっても、アンカー企業時代の刷り込みを活用しながらそのほとんどが生き残り、成長に至った企業も少なくない。むしろ、受動的であったことが、生存率を高め、スピンオフ・ネットワークが発展した可能性が高い。
株式保有や買収がないので、資本関係による固い結合にはならない。もしも、株式の持ち合いや買収などによってコア企業が誕生していたら、スピンオフ間の関係は違ったものになっていた可能性は高い。顧客を取り合うような競争や、規模拡大のための買収攻勢が起きていたかもしれない。
ここで、本事例におけるスピンオフ間関係の特徴を振り返ってみたい。各々のスピンオフは自律的に行動をして水平的な関係を築いてきた。一期のスピンオフ間では顧客を奪い合うことはしないで、それぞれが得意な分野を担当して分業し、時には顧客を紹介しあった。二期のスピンオフ間で試みられてきた共同製品開発プロジェクトでは、案件を受注した企業がリーダーとなり、協力メンバーも固定していない。大プロジェクトを常にリードするような役割を持つコア企業が存在しないのである。水平的な関係を築いているが故にネットワークは有機的であり、いわゆる、緩い結合システム(Loosely Coupled system: Kaplan, 1982;Orton & Weik, 1990)が確認できた。本研究は、外圧によって出現したスピンオフ現象に深く切り込み、スピンオフ・ネットワークの形成から発展までを追って、そのネットワークの特徴まで炙り出した希少な研究であることを強調しておきたい。
しかしながら、さらに踏み込んで、どのような条件が整えば、外圧によるスピンオフが有機的スピンオフ・ネットワークを形成できるのかを提示することは難しい。単一事例ゆえに、発見したことを一般化できない。本研究の限界である。
それでもなお、本事例は実務に対しても多くの示唆を含んでいる。首都圏から遠く離れた地方都市で起きた、このスピンオフ現象は日本の中で特殊な事例とみなせるだろう。また、世界レベルで見ても特殊であろう。事業停止から22年が経過した2024年現在もほとんどのスピンオフが生存し、事業承継やスピンオフ連鎖も見られる。引き続き、調査を続けることで、スピンオフ・ネットワークの変容を追うこととしたい。
インタビューに応じてくださった方々に御礼申し上げます。特に、3名のお名前を記します。武田事業部長の下で長く尽力されたアルプス電気元社員の宮島幹雄氏(森のイタリアン)と藤澤久一氏(公益財団法人岩手産業振興センター)及び、スピンオフを行政の立場から応援された黒澤芳明氏(一般社団法人 岩手県発明協会)には、調査先を紹介していただき、事実の解釈に対して有益なコメントを賜りました。厚く御礼申し上げます。
本研究は、日本学術振興会基盤C 課題番号 23K01535の助成を受けた。
2009年–2010年 延26人(実施者:五十嵐伸吾)
スピンオフ23社の経営者
起業に参画しなかったアルプス元社員2人
支援組織(JSTサテライト岩手)1人
2020年–2024年 延56人(実施者:田路則子、福嶋路、五十嵐伸吾)
スピンオフ22社の経営者
スピンオフの社員8人
支援組織 3社(公益財団法人岩手産業振興センター、盛岡市新事業創出支援センター、岩手県発明協会)
地元の金融機関3社(岩手銀行、FVC、いわぎん事業創造キャピタル)
税理士及び中小企業診断士及び社労士 3人
起業に参画しなかったアルプス元社員3人および現役社員3人
岩手大学教員1人
| 日時 | 時間数 | 組織名 | 組織の立地 | 役職 | 略名 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2020/12/7 | 2.5 | 株式会社アイカムス・ラボ(1) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | K氏 |
| 2020/12/28 | 1.0 | アイエスエス株式会社(1) | 盛岡市 | 監査役 | F氏 |
| 2021/2/1 | 2.0 | 株式会社イーアールアイ(1) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | M氏 |
| 2021/2/2 | 1.5 | 有限会社イグノス(1) | 北上市 | 代表取締役社長 | O氏 |
| 2021/3/10 | 1.5 | 有限会社D社(1) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | T氏 |
| 2021/3/11 | 1.0 | 株式会社M・D・エンジニアリング(1) | 八幡平市 | 代表取締役社長 | TM氏 |
| 2021/3/11 | 1.5 | 株式会社ミクロトップ | 八幡平市 | 代表取締役社長 | KW氏 |
| 2021/3/23 | 1.0 | アイエスエス株式会社(2) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | KM氏 |
| 2021/3/23 | 1.0 | 株式会社I社 | 盛岡市 | 代表取締役社長 | M氏 |
| 2021/4/26 | 1.0 | 有限会社F社 | 八幡平市 | 代表取締役社長 | S氏 |
| 2021/4/26 | 2.0 | アイエスエス株式会社(3) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | KM氏 |
| 2021/9/3 | 2.0 | 株式会社アイカムス・ラボ(2) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | K氏 |
| 2021/10/7 | 1.0 | 株式会社イーアールアイ(2) | 盛岡市 | 非常勤顧問 | H氏 |
| 2021/10/7 | 1.0 | 株式会社イーアールアイ(3) | 盛岡市 | 技術部部長 | MR氏 |
| 2021/10/8 | 1.0 | 有限会社一条 | 八幡平市 | 代表取締役社長 | I氏 |
| 2021/10/12 | 1.0 | 有限会社スタープロ | 盛岡市 | 代表取締役社長 | H氏 |
| 2021/10/12 | 1.0 | 有限会社生出精密 | 八幡平市 | 代表取締役社長 | HT氏 |
| 2021/11/9 | 1.5 | 株式会社アイカムス・ラボ(3) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | K氏 |
| 2022/4/7 | 2.0 | 株式会社イーアールアイ(4) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | M氏 |
| 2022/4/7 | 3.0 | 有限会社D社(2) | 盛岡市 | 代表取締役社長 | T氏 |
| 2022/4/8 | 1.0 | 株式会社エフアンドディ | 八幡平市 | 代表取締役社長 | KD氏 |
| 技術顧問 | MT氏 | ||||
| 2022/6/21 | 1.0 | 有限会社イグノス(2) | 北上市 | 代表取締役社長 | O氏 |
| 2024/8/30 | 1.0 | 株式会社イーアールアイ(5) | 盛岡市 | 会長 | M氏 |
| 2024/10/24 | 1.0 | 株式会社M・D・エンジニアリング(2) | 八幡平市 | 代表取締役社長 | TM氏 |
| 2024/10/24 | 1.0 | 株式会社M・D・エンジニアリング(3) | 八幡平市 | 技術顧問 | MT氏 |