イノベーション・マネジメント
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論文
ダイキン創業者・山田晁の企業家史研究
―経営理念と企業変革力―
片山 郁夫
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2026 年 23 巻 p. 1-20

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要旨

本研究は、ダイキン工業創業者・山田晁の企業家活動を対象に、その経営理念と意思決定の特徴を歴史的に再構成し、経営学理論との接点を明らかにすることを目的とする。日本の企業家史研究は、渋沢栄一や松下幸之助など代表的経営者を対象に、理念や思想に着目した多くの研究成果を積み重ねてきた。他方で、そうした研究の多くは経営者本人の著作や言説に依拠する傾向が強く、理念と戦略的意思決定や技術革新を結びつけた分析は必ずしも十分に展開されてきたとは言い難い。本研究では、一次資料(社史など)および二次資料を用いて山田の経営実践を歴史的に再構成し、イノベーション・マネジメントや両利きの経営といった理論的枠組みとの接続を試みた。

山田は1930年代に軍需事業に従事しながらも冷凍機や空調機といった民需製品の開発を進め、戦後は米軍特需を活用しつつ空調産業へのシフトを実現した。さらに1960年代以降は海外展開を強化し、グローバル企業への基盤を築いた。これらの意思決定は、既存事業と新規事業の両立を図る両利きの経営の先駆的事例と位置づけられる。本研究の成果は、①理念と戦略・組織の相互関係に着目することで企業家史研究を補完すること、②歴史的事例を通じてイノベーション理論の適用可能性を検討すること、③日本的経営理念と国際戦略の連関を示すことにある。以上、山田晁の事例は「理念に根ざした企業変革力」を考察する上で重要な学術的意義を持つ。

Abstract

This study examines the entrepreneurial activities of Akira Yamada, founder of Daikin Industries, to reconstruct his management philosophy and decision-making in historical context and to assess their relevance to management theory. Japanese entrepreneurial history has produced valuable research on leaders such as Eiichi Shibusawa and Konosuke Matsushita. Yet much of this work has relied on entrepreneurs’ own words, with limited analysis linking philosophy with strategic decision-making and technological innovation.

Drawing on primary sources such as company histories and secondary literature, this study shows how Yamada pursued both military and civilian business in the 1930s, shifted toward the air-conditioning industry by leveraging U.S. military procurement after World War II, and promoted expansion overseas in the 1960s, laying the foundation for Daikin as a global enterprise. These decisions exemplify an early form of “ambidextrous management,” balancing the exploitation of existing businesses with the exploration of new ones.

The contributions of this study are threefold: (1) complementing entrepreneurial history by addressing the interplay of philosophy, strategy and organization; (2) testing the applicability of innovation theories with a historical case; and (3) clarifying the linkage between Japanese management philosophy and international strategy.

1.  序論

日本の企業家史研究は、近代から現代に至る経営者の理念や行動を対象として、その社会的意義を明らかにしてきた。代表的な経営者としては渋沢栄一や松下幸之助などが挙げられ、彼らの著作を通じて日本的経営の規範が提示されてきた(渋沢, 1916松下, 1968)。

しかしながら、これまでの研究は「理念の提示」や「思想的背景」に焦点を当てる傾向が強く、外部環境の激変に直面した際に、企業家がいかにして事業の継続性を確保し、どのように意思決定を行ったのかについては、必ずしも十分に解明されてきたとは言い難い。戦時体制下における軍需依存や戦後復興期における産業構造の劇的な転換は、日本企業にとって極めて大きな挑戦であったが、企業家の視点からその意思決定過程を分析した研究は乏しい。理念と実践を超えて、経営判断と事業変革のダイナミズムを把握することが、今後の企業家史研究の課題だと考えられる。

本研究の対象とする山田晁(1884–1973)は、ダイキン工業の創業者であり、戦前から戦後にかけて独自の理念と戦略をもって事業を推進した企業家である。ダイキン工業は現在、空調事業で世界トップシェアを有し、第122期(2024年4月1日~2025年3月31日)有価証券報告書によれば、連結売上高は約4兆7523億円、総資産は約5兆1334億円に達している(ダイキン工業, 第122期有価証券報告書, 2025)。なお、従業員数については、ダイキン工業公式サイトによれば、連結ベースで約10万人にのぼる1。もっとも、その創業者山田晁に関する学術的研究は乏しい。山田は「三切り主義」(踏み切り・割り切り・思い切り)2や「二キュウ主義」(研究と普及)3を掲げ、理念を抽象的ではなく、経営判断や行動の指針として具現化した。例えば1930年代には、軍需事業を深化させつつ冷媒フロンや冷凍機の開発といった民需事業を同時に展開し、戦後には米軍特需の収益を平和な時代の事業である空調事業への投資に振り向けた。こうした山田の事業展開は、軍需と民需、既存事業と新規事業の両立を図ったという点に特色があり、刻々と変わる外部環境の制約下にあっても、企業変革を推進し続けた実践として注目される。

このような経営実践は、経営学理論との接点において新たな光を当てることができる。Christensen(1997)が提起した「イノベーターのジレンマ」は、既存事業の成功があるがゆえに新規事業の探索が阻害されるという企業行動を逆説的に示したが、山田は既存収益基盤を活かしつつ新規事業へ投資することでこのジレンマを克服した。また、O’Reilly & Tushman(2016/2020)の「両利きの経営」は既存事業の深化と新規事業の探索を同時に進める組織能力を指摘するが、山田の事例はまさにその先駆的な実践といえる。さらに、Penrose(1959)の「企業成長理論」やChandler(1962)の「組織は戦略に従う」といった古典的理論の視点からも、山田の資源再配置や組織設計は歴史的に再解釈可能である。

山田晁の経営については『山田晁伝』(山田晁伝記編集委員会, 1975)やダイキン工業の社史(ダイキン工業, 1995日本経営史研究所, 2006/2015)において部分的に記録されてきたにすぎず、その理念と行動の連関や事業変革力を理論的に分析した学術研究はほとんど存在しない。そこで本研究は、山田の経営理念と意思決定を一次資料に基づいて再構成し、イノベーション・マネジメント研究や経営学理論との接点から再評価することで、企業家史研究に新たな知見を提供する。

既存の企業家史研究やイノベーション研究は、理念や自己言説の分析を軸に展開されてきたが、戦略や組織との関係を同時に扱う統合的アプローチは比較的少ない。本研究は、こうした限界を踏まえ、山田晁の経営理念と戦略的意思決定の連関に着目し、それがいかに企業変革力を形成したかを検討することで、企業家史研究と経営学理論の接続を深化させることを狙いとする。

この問題意識を踏まえ、本研究のリサーチ・クエスチョンは以下である。

RQ:山田晁の経営理念と戦略的意思決定は、いかにして結びつき、企業変革力を形成したのか。

本論文の構成は以下の通りである。第2章では、企業家史研究およびイノベーション研究に関する先行研究を整理し、研究課題の背景を明らかにする。第3章では、本研究の方法論と研究対象となる資料を提示する。第4章では、山田晁の企業家活動と経営理念を時系列に沿って分析する。第5章では、彼の経営実践を理論枠組みに照らして考察し、現代経営に対する含意を導き出す。最後に第6章で、本研究の結論を示すとともに、今後の研究課題を提示する。

2.  先行研究レビュー

2.1  企業家史研究の潮流と課題

日本における企業家史研究は、近代資本主義の形成過程における経営者の役割を明らかにすることを主軸として発展してきた。その基盤として重視されてきたのは、経営者自身の著作や発言といった自己言説資料である。渋沢栄一の『論語と算盤』(渋沢, 1916/19844は、経済活動(算盤)と倫理的規範(論語)の両立を説く「道徳経済合一説」を提示し、日本的資本主義の理念的基盤を築いた。この思想は、彼が設立に関わった多数の企業を通じて具現化され、日本的資本主義の理念的基盤を提示した。また、松下幸之助の『道をひらく』(松下, 19685は、従業員の可能性を信じ社会奉仕を説く経営観を示し、経営を社会的公器と捉える松下の思想は戦後復興期の理念的潮流を象徴した。これらは直接的には学術研究成果ではないが、後世の研究者が理念と経営実践を理解する上で一次資料として重視されてきた。

さらに、研究は、経営理念を単なる精神論ではなく、企業の方向性を決定する戦略的な要素として捉える方向へと発展し、企業家の思想が社会に与える影響を多角的に分析する研究分野が確立されていった。

しかし、従来の研究は理念や思想面に重点を置く傾向が強く、外部環境への適応、つまり、急激な環境変化に応じた企業家の意思決定や事業転換の具体的プロセスについては十分に分析されていない。そのため、軍需から民需、国内市場から国際市場へと展開した企業家の経営行動に関する実証的知見は依然として限られている。

本研究で対象とする山田晁は、ダイキン工業の創業者として、戦前から戦後にかけて軍需と民需の間を行き来しながら、さらにグローバル展開に成功した企業家である。その活動は、従来の理念中心の研究を補完し、戦略的意思決定と技術革新を統合的に分析する事例となり得る。

2.2  日本的経営理念研究

日本的経営に関する研究では、日本特有の経営理念や組織文化が頻繁に議論されてきた。その中では、カリスマ的企業家の著作や言説が自己言説資料として参照され、それを理論的に解釈する研究が多数蓄積されている。理念を組織発展の基盤とする主張や、理念が戦略展開や組織運営を実践的に牽引するという議論は、日本的経営研究の重要な要素といえる。

近年では、加護野(2016)『日本の企業家2 松下幸之助:理念を語り続けた戦略的経営者』や、野中(2017)『日本の企業家7 本田宗一郎:夢を追い続けた知的バーバリアン』に代表される「日本の企業家」シリーズが刊行され、理念や戦略を経営学理論と接続して論じる試みも進められてきた。これらの研究は、経営理念を歴史的事例に即して理論的に検討する上で貴重な知見を提供している。

しかし、研究対象は著名企業家に偏る傾向があり、山田晁のように、一般的な知名度は高くないものの、理念と事業戦略を結びつけて経営を展開した企業家については、十分に検討されてこなかった。山田の「三切り主義」や「二キュウ主義」を理念史的に検討し、その実践的な意味を明らかにすることは、この空白を補完する試みとなる。

2.3  技術革新とイノベーション研究

経営学の分野では、企業家の役割を技術革新との関係で捉える研究が展開されてきた。Penrose(1959)の企業成長理論は、企業の成長が経営資源の再配置と組織能力の発展に依存することを強調しており、企業家の意思決定を資源動員の観点から理解する基盤を提供した。続いてTushman & Anderson(1986)は技術的不連続性の概念を提唱し、漸進的技術革新と破壊的技術革新の差異を明確化した。さらにChristensen(1997)のイノベーターのジレンマは、既存事業の成功が新技術の採用を阻害する逆説を提示し、企業の衰退メカニズムを明らかにした。

山田晁の事例においては、フロン冷凍機や空調機といった新規事業への挑戦が、まさに不連続性への応答であったといえる。既存の軍需依存体制から、民需や海外展開に事業の軸足を移す決断は、イノベーション研究の文脈で再評価すべき対象となる。

2.4  両利きの経営(ambidexterity)との接続

近年注目される両利きの経営(ambidexterity)は、既存事業の深化(exploitation)と新規事業の探索(exploration)を両立させる組織能力を強調する枠組みである(O’Reilly & Tushman, 2016/2020)。本研究では、これを理論的視座の一つとして参照する。従来のイノベーション研究が、新旧技術の対立や既存事業からの転換の困難性に焦点を当ててきたのに対し、両利きの経営は両者の共存を可能にする組織的条件を明らかにする点に特徴がある。

山田晁の経営実践は、この枠組みと極めて親和性が高い。1930年代の軍需依存の経営環境下において、彼は軍需製品の開発を継続しつつ、冷凍機や空調機といった民需製品の開発を同時並行で進めた。さらに戦後の経営危機においても、米軍特需を活用しながら空調産業へのシフトを推進した。これらの意思決定は、両利きの経営の先駆的実践例として位置づけられる可能性がある。

両利きの経営は主に欧米企業の事例を通じて展開されてきたが、日本の戦前・戦後期の企業家の事例に適用することは、新たな学術的意義を持つ。本研究は山田晁の活動を対象に、両利きの経営(ambidexterity)の歴史的実証として位置づけることで、その普遍性と限界を検討する視座を提供する。

2.5  ダイキンの国際戦略研究

ダイキン工業の国際展開に関しては、井村(2013)が詳細に検討している。井村は、ダイキンが比較的規模の小さい空調専業メーカーでありながら、2012年の米グッドマン社買収によって世界トップクラスに躍り出た背景には「地域別市場特性への適応」と「技術的差別化」があったと指摘している。具体的には、欧州市場では環境規制の厳しい地域であることを逆手に取り、省エネ技術を駆使した暖房機「アルテルマ」(2006年)を投入し、シェアを30%まで拡大した。また、中国市場では激しい価格競争のある家庭用エアコンでは劣勢だったが、業務用エアコンに注力し、天井埋め込み型の高級機を武器に市場シェアを獲得していった。さらに米国市場では、過去2度の進出失敗を経て、2006年のOYL買収、2012年のグッドマン買収を通じて米国の主流であるダクト式市場へ参入し、安定した基盤を確立した。このように、井村(2013)は、ダイキンの国際戦略を技術差別化、市場適応、M&A活用との結合として描き出しており、現代ダイキンの成功を説明する重要な先行研究である。

また、第4代社長を務めた井上礼之(2008)の『「基軸は人」を貫いて』6では、自らの理念を「基軸は人」の思想に集約している。同書は創業者山田晁を主対象としたものではないが、「変えるべきことと変えてはならないことの峻別」、「理屈より実行」、「理念を組織に浸透させるために経営者が語り続ける」などの言葉は、山田の現場重視・実践主義・理念実践と通底する要素を含んでいる。したがって、創業期から現代に至る理念的連続性を補足的に確認する資料として位置づけることができる。

しかしながら、これらの研究や著作はいずれも主として現代のダイキンに焦点を当てており、創業者の山田晁との連続性については十分に検討されてはいない。また、分析の焦点は主として井上以降の企業経営に置かれており、創業者山田晁の時代との歴史的連続性については論じられていない。したがって、本研究が、山田の経営理念と意思決定を歴史的に再構成し、それが後のダイキンの国際展開の基盤とどのように関わっているかを描き出すことは、既存研究を補完する意義を持つ。

2.6  先行研究の限界と本研究の位置づけ

日本の企業家史研究は、渋沢栄一(渋沢, 1916/1984)や松下幸之助(松下, 1968)といった代表的経営者を対象に理念と実践を明らかにしてきた。もっとも、これらは主に当人の著作や言説、あるいは社史・評伝といった資料に依拠した分析が中心であり、理念と戦略を体系的に接合した研究は必ずしも十分ではない。

一方、山田晁については『山田晁伝』(山田晁伝記編集委員会, 1975)やダイキン工業の社史(ダイキン工業, 1995日本経営史研究所, 2006/2015)が存在するが、伝記的・叙述的な記録にとどまっており、経営学理論との接続を意図した研究はほとんど見られない。とりわけ、山田が戦前期に軍需事業と民需事業を並行して展開し、戦後には米軍特需と空調事業投資を両立させた事例は、企業変革の重要な特徴であるにもかかわらず、理論的に十分検討されてこなかった。

このような「軍需と民需」、「既存事業と新規事業」の両立は、Christensen(1997)のイノベーターのジレンマやO’Reilly & Tushman(2016/2020)の両利きの経営といった理論との接点を有するが、その視点から山田の経営を再解釈した研究は確認できない。さらに、戦略と組織構造の関係性を論じたChandler(1962)の視点を山田の意思決定に適用した先行研究も存在しない。

したがって、本研究の独自性は以下の三点にある。第一に、山田晁の経営理念と意思決定を一次資料や社史に基づいて歴史的に再構成すること、第二に、それらの意思決定を既存のイノベーション・マネジメント理論や企業成長理論と接続させ、学際的に分析すること、第三に、理念と戦略・組織との相互関係を企業家史研究の枠組みで検討し、先行研究に新たな補完を行うことである。

この研究課題の位置づけを整理したのが図1「研究課題の位置づけ(概念図)」である。縦軸に理念志向と戦略志向、横軸に静態的と動態的の視点をとると、本研究は両者を交差させる領域に位置づけられることがわかる。つまり、理念と戦略の双方を重視し、かつ変革的意思決定を分析対象とする点に本研究の意義がある。

図1 研究課題の位置づけ(概念図)

(出所)筆者作成。

また、既存研究の射程を整理したのが表1「既存研究と参照資料の整理(テーマ別マッピング)」である。表は、企業家史・経営理念・イノベーション・両利きの経営・国際戦略という5領域を横軸に、代表的研究を縦軸に配置し、本研究との関係をマッピングしたものである。これにより、従来研究の射程と本研究が補完し得る空白領域を視覚的に確認できる。

表1 既存研究と参照資料の整理(テーマ別マッピング)

研究分野 企業家史 経営理念 イノベーション 両利きの経営 国際戦略
渋沢(1916/1984)
松下(1968)
Penrose(1959)
Chandler(1962)
Tushman & Anderson(1986)
Christensen(1997)
O’Reily & Tushman(2020)
井村(2013)

注)渋沢(1916/1984)松下(1968)は先行研究ではなく経営者本人の著作(自己言説資料)に属するが、日本的経営理念研究の基盤として参照されてきたため、本表では便宜的に資料に含めている。

テーマ別の関連性は、◎:直接的・中心的な研究領域、◯:関連するが中心ではない、△:間接的に関連・示唆を与えるの3段階で表示した。

(出所)渋沢(1916/1984)松下(1968)Penrose(1959)Chandler(1962)Tushman & Anderson(1986)Christensen(1997)O’Reilly & Tushman(2016/2020)井村(2013)に基づき筆者作成。

さらに、参照すべき文献は三類型に整理できる。すなわち、まず、渋沢や松下の著作、伝記や社史といった自己言説資料・一次資料である。次に、井村(2013)などの実証的先行研究が挙げられる。最後に、Chandler(1962)Penrose(1959)Christensen(1997)O’Reilly & Tushman(2016/2020)といった理論的先行研究である。本研究はこれらを区別して用い、企業家史研究と経営学理論の橋渡しを図る。

なお、筆者自身も、これまでに光永星郎(片山, 2024)や三好武夫・後藤康男(片山, 2025)といった企業家の事例を対象に、理念と戦略の接続を理論的枠組みと結びつけて分析してきた。本研究はそれらの延長線上に位置づけられるものであり、山田晁の経営理念と戦略的意思決定の連関に着目し、それがいかに企業変革力を形成したかを検討することで、企業家史研究と経営学理論の接続の深化を目指す。

具体的には、第3章において「イノベーターのジレンマ」「両利きの経営」「企業成長理論」「戦略と組織構造論」という4つの理論的枠組みを整理し、それらを分析視角として山田の経営活動を位置づけていく。

3.  研究方法

3.1  研究方法の位置づけ

本研究は、一次資料・史資料を基盤に企業家活動を歴史的に再構成し、経営学理論との接続を図ることを目的とする。そのため、伝記資料・社史・業界誌に掲載された記事などの一次資料を中心に、必要に応じて既存研究を参照しつつ分析を進める。研究方法としては、経営史的アプローチを基盤としながら、経営学理論(イノベーション研究・両利きの経営など)を分析枠組みとして援用することで、企業家史研究と経営学理論の接続を試みる。

3.2  研究対象資料

本研究の分析対象となる資料は、ダイキン工業創業者・山田晁の経営活動を歴史的に再構成するために収集した一次資料および関連資料である。一次資料としては、『山田晁伝』(山田晁伝記編集委員会, 1975)を中心に、ダイキン工業が編纂した社史(ダイキン工業, 1995日本経営史研究所, 2006/2015)を用いる。さらに、大阪府工業協会が発行する『商工振興』は、地域製造業の経営情報を共有する媒体であり、山田の経営理念に関するcontemporaneousな記録を確認できる数少ない資料である。

これらの資料はいずれも山田晁の経営理念や意思決定過程を把握する上で一次的価値を持つものであり、同時代的文脈における経営判断の特徴を明らかにする基盤となる。ただし、伝記・社史・雑誌記事といった史資料は編纂者による解釈や編集の影響を含む可能性があるため、その限界を踏まえつつ解釈を行う必要がある。さらに、既存研究の知見を踏まえることで、山田晁の事例を経営学理論の文脈に位置づけることが可能となる。これを整理した理論的枠組みについては、次節で提示する。

3.3  理論的枠組み

本研究では、山田晁の経営活動を以下の四つの理論的枠組みと接続して分析する。

第一に、Christensen(1997)の「イノベーターのジレンマ」7である。これは、既存事業の成功が新規事業の探索を阻害する逆説を提示し、企業が変革に直面する困難を説明する理論である。山田の軍需から民需への転換、戦後特需から平和産業への移行は、この理論と対比することでその先見性を検討できる。

第二に、O’Reilly & Tushman(2016/2020)の「両利きの経営」8である。既存事業の深化と新規事業の探索を同時に実現する組織能力を強調する理論であり、山田が軍需と民需、国内と国際市場の両立を図った経営判断を解釈する視座を提供する。

第三に、Chandler(1962)の「組織は戦略に従う」9である。戦略の変化が組織構造を規定するという原則に基づき、山田が事業の多角化や研究開発体制の整備に伴って組織設計を柔軟に変化させた点を分析する。

第四に、Penrose(1959)の「企業成長理論」10である。経営資源の再配置と組織能力の発展を通じた企業成長を説明するこの理論は、山田が資源制約をむしろ成長の推進要因として活用した意思決定を理解する基盤となる。

なお、Tushman & Anderson(1986)の「技術的不連続性」11の概念も重要である。これは漸進的技術革新と破壊的技術革新の差異を説明するものであり、Christensenの理論の基盤をなす。本研究では独立した枠組みとしては扱わないが、山田が新技術導入や事業転換に際して直面した不連続性を理解する背景理論として参照する。

以上の四つの理論的枠組みを中心に、必要に応じて関連理論を補助的に参照することで、山田晁の経営理念と意思決定の特質を多面的に解釈していく。

3.4  研究の方法論的位置づけ

本研究は、企業家史研究の文脈に位置づけられるが、単なる歴史叙述ではなく、経営学理論との接続を意図している点に特徴がある。すなわち、一次資料に基づき山田晁の経営活動を時系列に再構成すると同時に、理念・戦略・組織・技術革新といった経営学的視座を援用し、理論的検討へと接続する。これにより、本研究は経営史研究と経営学理論の双方に貢献しうる。

この方法論的立場を整理したのが図2「研究デザインのフロー」である。研究課題を出発点とし、利用資料の選定、分析視角の設定、理論枠組みとの接続を経て、山田晁の企業変革力を明らかにするという手順をとる。本研究のアプローチは、質的資料を基盤としながらも、理論的解釈を導入する歴史研究と理論研究のハイブリッド型といえる。

図2 研究デザインのフロー

(出所)筆者作成。

3.5  研究上の限界

本研究は、山田晁に関する伝記資料やダイキン工業の社史を中心に分析を行うため、記述の一部には企業側の視点やバイアスが含まれる可能性がある。また、戦前・戦後の経営判断に関しては一次資料の制約が大きく、断片的な証言や事後的な解釈に依拠せざるを得ない部分がある。

さらに、本研究は事例研究の性格が強いため、得られる知見を一般化するには限界がある。とりわけ、両利きの経営やイノベーターのジレンマといった理論枠組みを歴史的事例に適用する試みは、示唆を与える一方で、理論の射程を超えた拡張解釈のリスクを伴う。これらの点を認識したうえで、本研究は探索的な意義を重視するものである。

3.6  本章のまとめ

本章では、研究方法の位置づけ、研究対象資料、分析枠組みを整理し、本研究の方法論的立場と限界を明らかにした。一次資料を基盤に歴史的再構成を行い、既存理論との接続を通じて分析を進めるという枠組みが、本研究の基本設計である。

次章では、この方法に基づき、山田晁の事業活動を創業から戦後の国際展開まで時系列に叙述し、その経営理念と意思決定の特質を具体的に描き出す。

4.  山田晁の企業家活動と経営理念

本章では、第3章で示した研究方法と分析枠組みに基づき、山田晁の事業活動を歴史的に叙述する。分析の視角は、①理念と行動の連関、②環境変化への対応、③既存事業と新規事業の両立、の三点である。これらを軸に、創業前の経験から戦前期の軍需事業、戦後の特需対応と空調事業への転換、さらに1960年代以降の国際展開に至るまでを時系列で整理する。

叙述の過程では、山田の経営理念(三切り主義、二キュウ主義など)が具体的な事業戦略にどのように結びついたのかを明らかにするとともに、外部環境の急激な変化に対してどのような意思決定を下したのかを検討する。また、各段階において両利きの経営(ambidexterity)やイノベーターのジレンマといった理論枠組みとの接続可能性を視野に入れ、山田晁の企業変革力を総合的に描き出す。

4.1  生い立ちと青年期における経験

山田晁(1884–1973)は、山口県厚狭郡船木村に生まれた。士族の家であったが家計は貧窮しており、成績優秀にも関わらず高等小学校2年で学業を中断した。その後、漢方医への奉公や兄が営む紙箱製造業での労働を経験した後、福岡県立小倉工業学校機械科に進学し、学費免除の特待生として、学業優秀で皆からの信任が厚い模範的な人物だと評価されていた(山田晁伝記編集委員会, 1975)。

1909年、23歳のとき大阪砲兵工廠に入所したことが、彼の人生を決定づける契機となる。砲兵工廠は陸軍中枢の兵器製造所であり、山田は現場の改善を通じて技術者としての基礎を培った。飯盒用塗料の有毒問題を独学で解決し、クロム酸鉛を用いた無毒な塗料を開発した事例は、専門外の化学分野にも果敢に取り組む山田のチャレンジ精神を示している(大阪府工業協会, 2015)。また、現場の工数体系を刷新するなど、生産システムの改善にも取り組み、若くして工場長に抜擢されるに至った。この経験は、後に「現場重視」、「合理的な判断」、「率先垂範」といった経営姿勢に直結している。

4.2  独立と大阪金属工業の創業

1919年、35歳のときに大阪砲兵工廠を退職し、神戸製鋼所を経て東洋鑢伸銅へ転じた。民間企業で得た経験は、のちの独立を準備する重要な蓄積となった。1923年、中島飛行機製作所から航空機エンジン冷却用ラジエーターチューブ(放熱管)の受注案件が持ち込まれた際、経営陣が難色を示す中で、山田は「自らが全責任を負う」と宣言して受注を推進した。材料入手にも苦労し、5,000円の損失を自己資金でまかなったが無事納品することができた。これが独立の契機となり、1924年に39歳で合資会社大阪金属工業所を創業した。スタート時の陣容は山田社長以下わずか15人の小規模会社だった(山田晁伝記編集委員会, 1975)。

創業当初の事業は航空機用ラジエーターチューブ、アルミ瓶蓋、鉛筆キャップ、瞬発信管など多岐にわたっていた。1928年には従業員数30人規模に拡大し、1934年には大阪金属工業株式会社へ組織変更、住友伸銅鋼管(現・住友金属工業)との資本提携を通じて大企業化への基盤を整えた。住友との資本提携の条件は、①晁の持ち株数を超えない、②派遣役員数≦プロパー役員数、③技術・経営方針に不干渉を明記するなど、山田が独自の経営理念を守るために戦略的に構築したものだった(日本経営史研究所, 2015)。

4.3  冷媒フロン開発と軍需・民需の両立

1930年代、山田は冷媒フロンの国産化に挑戦し、1934年にはメチルクロライド式冷凍機の開発に成功した。これにより、軍需のみならず民需にも製品を供給する体制を整えた。1936年には南海鉄道に冷凍機を納入し、1937年には日本初の冷房電車を実現、フロン式冷凍機を潜水艦用に納入するなど、冷凍・空調事業の基礎を築いた。

この時期の経営姿勢は、軍需と民需のバランスを保つという点に特徴がある。実際、当時の経営文書には「時代の推移を将来に考察しますに、軍需品のみに全力を傾倒することは必ずしも当会社の使命にあらざると思うのであります。(中略)軍民両用ならしむるを念慮し、国家の状勢にかんがみ緩急よろしきを得、あるいは転換自在ならしめ、時代の趨勢に対応しなければならないと思料する」との記述が見られる(山田晁伝記編集委員会, 1975, p.159)。これは、外部環境の制約がありながらも長期的な事業存続を見据えた意思決定であり、後に両利きの経営として理論化される考え方と親和性を持つ。

山田の経営活動は、1920年代の軍需関連事業から始まり、1930年代には冷凍機の開発を進めて民需市場を開拓した。戦後は米軍特需を活用しつつ、空調機事業へと大きく舵を切った。さらに1960年代以降には海外市場への進出を強化し、今日のグローバル企業への基盤を築いた。

4.4  戦後の再建と米軍特需

大阪金属工業は、軍需工場として目覚ましい発展を遂げ、一時は1万6,000人を抱える大企業となったが、1945年の敗戦により全社操業を停止し、従業員245人を残して大半を解雇する事態に陥った。山田は60歳にして会社存続の危機を迎えたのである。しかし、戦後の紆余曲折を経て、1951年には日本初のパッケージ型空調機「ミフジレーター・エアコン」を開発し、1952年には米軍特需の取込みとして砲弾受注をすることで資金を確保した。特需によって得られた資金を空調事業に投じた判断は、山田の戦略眼を示すものといえる(日本経営史研究所, 2015)。

日本が戦争放棄を宣言した直後に米軍の砲弾生産を担うことの是非は、役員会でも激しい議論を呼んだ。批判的意見も少なくなかったが、山田は「競争入札である以上、落札しなければ意味がない」と合理的に説明し、最終的に受注を決断した(山田晁伝記編集委員会, 1975)。ここにも「割り切り」の理念が貫かれている。

米軍特需は1956年に終了するが、その間に得られた利益は空調事業への投資に活かされ、1960年代以降の大阪金属工業の成長につながった。特需を一時的な利益に終わらせず、平和産業への転換に資源を配分した点は、企業変革力の象徴といえる。

この間、1952年には、財閥解体で提携関係が消滅していた住友金属工業との資本提携の復活を決断した。幹部会で山田は、「特需の生産によってやがて資金がまわり始めるはずです。そこでその資金の一部を持ちまして、空調の開発と生産設備の充実化をはかっていきたいと思っています。(中略)将来、エヤコンが当社の中心事業になることはまず間違いありません。」と語った(山田晁伝記編集委員会, 1975, p.249)。

山田晁の経営理念は、単なる精神論ではなく具体的な経営判断を方向づける行動規範として機能していた。彼が掲げた代表的理念には、三切り主義(踏み切り・割り切り・思い切り)と二キュウ主義(研究・普及)がある。三切り主義は困難な環境下でも大胆な決断を下す指針となり、二キュウ主義は新技術を実用化し、社会に広める実践姿勢を表していた。さらに、山田は「為せば成るの精神」12を信条とした。これは、専門外の化学に挑戦して無毒塗料を完成させた経験を原点とし、その後のフロン冷媒の国産化や冷凍機・空調機の開発といった果敢な挑戦を支える思想であった。山田の理念は、従業員に挑戦心を促すだけでなく、経営判断の基盤として企業変革を推し進める原動力となり、未知の技術課題に挑戦する姿勢を支えただけでなく、戦後の事業転換や海外展開といった新たな挑戦を後押しする基盤ともなった。ただし、海外進出は国際市場の拡大や政策的要因も重なっており、理念のみで説明するのは早計である。

これらの対応を整理したのが表2「山田晁の主要経営理念と実践の対応関係」である。理念と実践の連関を明示することで、山田経営の特質がより明確になる。

表2 山田晁の主要経営理念と実践の対応関係

経営理念 内容 実践・意思決定の具体例
三切り主義 困難な状況下での大胆な決断 軍需から民需への事業転換、戦後の空調事業シフト
二キュウ主義 技術を社会に広める姿勢 フロン冷媒・空調機の開発と普及
為せば成るの精神 未知への挑戦を支える信条 無毒塗料の開発、フロン国産化への挑戦

なお、山田の理念的実践は、その後の会社理念へと継承されていった。1958年には社是として「最高の信用」「進取の経営」「明朗な人の和」が制定され、さらに1990年には二代目社長山田稔によって、より包括的な10項目の経営理念が明文化された。こうした流れは、創業者の理念がスローガン的標語にとどまらず、企業の基本的価値観として制度化・体系化され、世代を超えて受け継がれていったことを示している。

4.5  経営理念と人材育成

山田の経営理念は三切り主義と二キュウ主義に要約される。「踏み切り」「割り切り」「思い切り」の三切りは、決断における積極性と合理性を示し、数々の経営判断に具体的に表れている。また、「研究と普及」は、研究開発と市場浸透の両立を重視する考えであり、フロン冷凍機や空調機の開発に直結した。さらに、「為せば成るの精神」は、未知の技術や新規市場に挑戦する姿勢を支え、戦後の事業転換や海外展開を後押しする理念的基盤となった。

こうした理念は、やがて組織的な形で制度化された。1958年に山田は社是を制定し、「最高の信用」「進取の経営」「明朗な人の和」という三つの基本理念を掲げた。これは創業期から実践されてきた山田の経営哲学を簡潔に表現したものであり、後の経営理念の体系化に先駆けるものであった。さらに、1963年には社名を大阪金属工業からダイキン工業株式会社へと改め、企業アイデンティティを確立する象徴的な転換点を迎えた。

山田は人材育成にも強い関心を示し、1957年に財団法人山田育英会を設立、1969年には財団法人山田奨学会を設立して若者の教育に尽力した。これは企業の社会的責任を重視する姿勢を示すと同時に、人材育成が社会の発展に不可欠であるとの強い信念の表れであり、理念と実践の結合を示す好例である。

当時の社員証言によれば、山田は製品検査において顧客基準よりも厳格な基準を課すことを常とし、信用を第一とする経営を貫いたとされる(山田晁伝記編集委員会, 1975)。このような姿勢は、企業家としての「信頼の循環」を実現し、組織文化の形成に寄与した。

4.6  国際展開への布石

山田の存命中から、同社は海外展開の基盤を整えつつあった。1950年代に近隣アジア諸国への輸出を開始し、1966年にはマルタにダイキンエアコンディション社、1969年にはオーストラリアにクラークダイキン社、1972年にはベルギーにダイキンヨーロッパ社を設立した(井村, 2013日本経営史研究所, 2015)。これらは山田が社長職を退いた後も経営に関与し続ける中で本格化していく国際展開の先駆けであり、探索と深化を同時に追求する姿勢の延長線上にあった。

この国際展開は、理念としての「研究と普及」が国境を越えて実践された事例と位置づけられる。製品技術の研究開発と、それを市場に普及させる仕組みづくりを両立させることが、グローバル展開の初期段階から明確に志向されていたのである。

4.7  本章のまとめ

本章では、山田晁の生涯と経営活動を、創業前の経験から戦後の再建・国際展開まで時系列に整理した。山田の事業活動は、1930年代の軍需事業と冷凍機開発を出発点とし、戦後の米軍特需を活用しながら空調産業への転換を進め、1960年代以降は輸出・海外法人設立を通じて国際展開を強化した。この推移を整理したのが図3「山田晁の事業展開タイムライン」である。

図3 山田晁の事業展開タイムライン

(出所)山田晁伝記編集委員会(1975)日本経営史研究所(2006/2015)に基づき筆者作成。

図は、軍需・民需・海外展開の三層に分けて主要な経営判断を示したものであり、山田の経営が外部環境に応じて多角的に変化したことを視覚的に捉えられる。

山田の経営の特徴は三点に整理できる。まず現場重視と合理性を基盤とした経営理念、次に軍需と民需の両立による柔軟な環境対応、さらに研究開発と市場浸透を同時に重視した空調事業と国際展開の布石である。

山田の経営は、理念と合理性を基盤に軍需と民需の両立を図り、戦後の特需と空調事業を同時に推進するなど、環境変化に柔軟に対応した特質を有していた。これらは、現代経営学における両利きの経営やイノベーターのジレンマといった理論的議論と接続可能であり、次章で理論的再解釈を行う。

5.  考察

5.1  本研究で参照する理論的枠組みの整理

本研究で山田晁の経営実践を考察するにあたり、以下の四つの理論的枠組みを参照する。

第一に、Christensen(1997)の「イノベーターのジレンマ」である。既存事業の成功が新規事業探索を阻害する逆説を提示し、企業が陥る構造的困難を理論化したものである。第二に、O’Reilly & Tushman(2016/2020)の「両利きの経営」である。既存事業の深化(exploitation)と新規事業の探索(exploration)の両立を可能にする組織能力を重視する理論である。第三に、Penrose(1959)の「企業成長理論」である。企業成長を資源の再配置と組織能力の発展の観点から説明し、経営資源の動員メカニズムを解明した。第四に、Chandler(1962)の命題「組織は戦略に従う」である。戦略の変化が組織構造を規定するという原則を提示し、経営史研究に大きな影響を与えてきた。

これらの理論枠組みは、山田晁の経営実践を再解釈するための分析視座を提供するものである。理念と行動の連関、環境変化への適応、既存事業と新規事業の両立、戦略と組織の適合性といった論点を整理するうえで有効な参照軸となる。本研究では、以下の表3「本研究で参照する理論的枠組みの概要」に示すように各理論枠組みの概要と山田の事例との接点を確認したうえで、章全体の考察を展開していく。

表3 本研究で参照する理論的枠組みの概要

理論 提唱者・時期 理論の概要 山田晁の事例との接点
イノベーターのジレンマ Christensen(1997) 既存事業の成功が新規事業の探索を阻害する 軍需依存を維持しつつ冷凍機・空調機事業へ進出を意思決定
両利きの経営 O’Reilly & Tushman(2016/2020) 深化(exploitation)と探索(exploration)の両立を強調 軍需と民需の併存、戦後の特需と平和産業への転換
企業成長理論 Penrose(1959) 成長は資源の再配置と組織能力の発展で説明される 限られた人員・資源を空調機事業へ集中投下し、成長を実現
戦略と組織構造論 Chandler(1962) 戦略の変化が組織構造を規定する原則を提示 冷媒・空調開発に伴い研究部門と製造部門を分化させた組織を構築

5.2  環境変化への適応とイノベーターのジレンマ

Christensen(1997)が論じたイノベーターのジレンマは、既存事業の成功が新規事業の探索を阻害する逆説を提示した。山田の経営は、このジレンマに直面した典型的事例である。戦前期、大阪金属工業は航空機部品を中心とする軍需事業に依存していた。しかし、山田は軍需製品に収益基盤を置きながらも、冷凍機や冷房電車といった民需製品の開発を同時に進めた。

戦後においても、米軍特需による砲弾製造受注は短期的には企業存続の生命線であったが、山田は特需がもたらす収益を平和産業である空調機事業へ投資した。この意思決定は、既存収益基盤に安住せず、新規事業への資源配分を重視することで多くの企業が陥るジレンマを乗り越えた事例と解釈できる。すなわち、山田はイノベーターのジレンマに対して「理念による合理性」と「先見的な戦略判断」によって応答したといえる。

本研究の考察は、この点において従来のイノベーション研究を補完する視座を提供する可能性がある。

さらに、Chandler(1962)が論じた戦略と組織構造の関係を先取りするように、山田は事業転換に応じた組織設計を直感的に進めていた。理念を基盤としつつ、新規事業への投資と組織変革を組み合わせた点は、本研究が後に検討する戦略と組織構造の適合性(5.5節)とも接続する。

5.3  両利きの経営としての実践

O’Reilly & Tushman(2016/2020)の「両利きの経営」は、既存事業の深化と新規事業の探索を両立させる組織能力の重要性を示す。山田晁の経営実践は、この理論と強い親和性を持っていた。軍需事業を維持しつつ、冷凍機や空調機といった民需製品の開発を同時並行で進めたことは、典型的な「深化」と「探索」の併存といえる。さらに戦後においても、米軍特需を活用しながら空調事業の育成を加速させる意思決定を行った。このように山田は、経営環境が大きく変化する局面においても両立的な資源配分を実行し、事業転換の持続性を確保した。

加えて、山田の判断基準には「三切り主義」「二キュウ主義」といった理念が常に作用しており、探索と深化を単なる戦略的バランスとしてではなく、理念に裏打ちされた行動規範として実践した点に独自性がある。この点は、欧米企業を対象に展開されてきた両利きの経営に対して、日本の戦前・戦後企業家事例を補完する視座を与えるものといえる。

5.4  成長理論と資源の動員

Penrose(1959)の企業成長理論は、企業の成長を資源の再配置と組織能力の発展に基づいて説明する。山田晁の経営は、資源制約を「制約条件」ではなく「成長の推進要因」として活用した点に特徴がある。敗戦直後の資源不足の中で、山田は限られた人員と資金を空調事業へ重点的に投入した。この資源再配置は短期的にはリスクを伴ったが、長期的には企業の成長基盤を形成した。さらに技術者としての経験を活かし現場改善を推進し、制約を好機として位置づけた点も注目される。山田の経営は、資源の限界を逆に成長の原動力に転じた事例と評価できる。

5.5  戦略と組織構造の適合性

Chandler(1962)の戦略と組織構造に関する理論は、戦略の変化が組織構造を規定することを示した。山田の経営においても、戦略と組織構造の適合性が確認できる。

創業初期には小規模組織として山田が直接統制する形態であったが、住友との提携後は株式会社化し、より複雑な組織構造を採用した。また、冷媒フロンや空調機の開発に伴い、研究部門と製造部門を分化させ、研究開発と量産体制を並行して維持する仕組みを整えた。これは、新規事業探索と既存事業深化を同時に追求する上で不可欠な組織設計であった。

戦略の多角化に応じて組織構造を柔軟に適応させた点は、山田が結果的にChandler(1962)の戦略と組織構造論に通じる考え方、すなわち“structure follows strategy”(組織は戦略に従う)という原則を先取りしていたことを示す。

5.6  企業家史的意義

本研究の対象である山田晁は、渋沢栄一や松下幸之助に比べれば知名度は低い。しかし、その経営実践は日本企業が直面した「軍需から民需への転換」「戦後復興と平和産業への移行」「国際展開」という重要課題を象徴的に映し出している。すなわち、①理念と戦略の統合的実践であり、理念が具体的行動に結びついていた点に独自性がある。②外部環境変化への適応を示し、軍需から民需、戦後復興、国際化といった変化に柔軟に対応した。③未開拓事例の発掘として意義を持ち、山田の再評価は日本企業家史の研究蓄積に貢献する。以上の点から、山田晁の事例は企業家史研究に厚みを加えるものである。

5.7  経営学的含意

山田晁の経営は、現代経営学理論に対しても一定の含意を持つ。既存基盤に依存せず新規事業へ資源を振り向けた意思決定は、イノベーターのジレンマを克服した事例と位置づけられる。軍需と民需、米軍特需と平和産業の併存は、両利きの経営の歴史的先駆例として評価できる。また、資源の重点的再配置は企業成長理論との親和性を持ち、戦略転換に応じて研究開発部門と製造部門を分化させた点は、組織は戦略に従うという原則を裏付ける。これらは、日本の歴史的事例を通じて経営学理論の適用可能性や限界を検討する一助となる。

5.8  本章のまとめ

本章では、山田晁の経営を四つの理論的枠組みに接続して考察した。イノベーターのジレンマとの関係では、既存事業依存を克服し新規事業へ投資した姿勢が確認された。両利きの経営の視点からは、軍需と民需の併存、米軍特需と平和産業の併存が先駆的事例と評価できる。さらに、資源の重点再配置は企業成長理論と、戦略と組織の適合はChandlerの命題と接続した。

以上より、山田晁の経営実践は理念と戦略・組織・成長の複合的視点から理解可能であり、次章では結論として学術的貢献と今後の課題を総合的に論じる。

6.  結論

6.1  本研究の総括

本研究は、ダイキン工業創業者・山田晁(1884–1973)を対象に、その経営理念と企業変革力を歴史的に再構成し、経営学理論との接点を明らかにすることを目的とした。第1章で研究課題を提示し、第2章で企業家史研究およびイノベーション研究に関する先行研究を整理した。第3章では研究方法と理論的枠組みを設定し、第4章で山田の経営活動を創業期から戦後の国際展開に至るまで叙述した。さらに第5章では、「イノベーターのジレンマ」「両利きの経営」「企業成長理論」「組織は戦略に従う」といった理論枠組みとの接続を通じ、その学術的含意を考察した。

本研究の特徴は、従来ほとんど注目されてこなかった山田晁を、単なる伝記的叙述にとどめず、理念と戦略、歴史と理論を架橋する形で再解釈した点にある。山田の経営実践は、日本企業が直面した「軍需から民需への転換」「戦後復興」「国際展開」といった課題を象徴的に映し出しており、企業家史研究に新たな視座を提供するものである。

なお、山田が掲げた「三切り主義」「二キュウ主義」「為せば成るの精神」といった理念は、1958年に制定された社是、さらに1990年に二代目山田稔社長が明文化した経営理念へと継承された。創業者期の理念が後代の理念体系に接続されたことは、ダイキンにおける理念の持続性を裏付けるものといえる。

6.2  学術的意義

本研究の学術的意義は、以下の三点に整理できる。

第一に、研究史への貢献である。山田晁は渋沢栄一や松下幸之助に比べ研究蓄積が乏しく、理念と戦略を結びつけた分析は限られていた。本研究は伝記・社史・一次資料を精査し、山田の経営理念と意思決定を歴史的に再構成することで、企業家史研究の空白を補った。

第二に、理念の実践性の検証である。「三切り主義」「二キュウ主義」「為せば成るの精神」は抽象的標語ではなく、事業転換や人材育成といった行動指針として機能していた。この知見は、日本的経営理念研究の深化に資する。

第三に、理論的接続による学術的貢献である。山田の経営は、イノベーターのジレンマ、両利きの経営、企業成長理論、「組織は戦略に従う」といった理論と親和性を持つ。本研究は、これら理論を歴史的事例に適用することで、理論の普遍性と限界を検証する可能性を示した。

以上により、本研究は企業家史研究の射程を拡張するとともに、経営学理論の実証的検討に寄与する意義を有する。

6.3  実務的含意

山田晁の経営実践は、現代の経営者や実務家に対しても多くの示唆を与える。第一に、経営理念を具体的な意思決定の基準として活用する重要性である。三切り主義は事業撤退や転換、二キュウ主義は研究開発と普及の両立を支え、理念を行動に落とし込む仕組みを提供した。第二に、為せば成るの精神は、未知の技術課題への挑戦や海外進出といった高リスク行動を後押しした。第三に、山田の経営は理念と外部環境の相互作用を重視しており、理念のみで経営を説明できないことを示している。実務的には、理念を強調しつつも環境や政策条件を踏まえる冷静な判断力が不可欠である。

これらの点は、理念経営を掲げつつ環境変化に直面する現代企業にとって、理念をいかに実行力ある戦略に結びつけるかを考える上で有益である。

6.4  本研究の限界と今後の課題

本研究にはいくつかの限界が存在する。第一に、山田晁一人を対象とした個別事例研究であるため、一般化には慎重を要する。また、本研究の対象は創業期から戦後復興期までが中心であり、現代のダイキン工業の国際戦略や環境経営との連続性は十分に検討できなかった。理念の継承や組織文化の持続性を追跡することは今後の課題である。第二に、一次資料の制約がある。山田本人による著作や講演記録は少なく、その理念や発言の多くは伝記や社史を通じて伝えられており、事後的編集や、カリスマ経営者の業績を美化するバイアスの影響を排除できない。第三に、理論的接続は探索的性格を持ち、体系的な比較研究には至っていない。

今後の研究課題としては、①複数事例を対象とした比較史的研究、②定量データとの統合的分析、③理念継承や組織文化の変容を長期的に検証する研究、が挙げられる。本研究は探索的ではあるが、理念と戦略を結びつけて経営者の意思決定を歴史的に分析するアプローチの有効性を示し、今後の研究発展に向けた一つの出発点となる。

1  ダイキン工業(2025)「会社情報」ダイキン工業公式サイト(https://www.daikin.co.jp/)(参照日:2025年9月19日)。

2  三切り主義は、山田が掲げた経営理念で、「踏み切り・割り切り・思い切り」の三つを指す。困難な局面での決断基準として機能した。

3  二キュウ主義は「研究」の「究」、「普及」の「及」の二つのキュウを表し、研究開発と普及を同時に重視する山田の理念である。

4  『論語と算盤』は1916年に初版が刊行され、1984年に岩波文庫版が復刻されている。

5  『道をひらく』は雑誌『PHP』に掲載された松下幸之助のエッセイを収録した書籍で、現代まで続くベストセラーである。

6  井上礼之(2008)『「基軸は人」を貫いて』東洋経済新報社。同書は『私の履歴書』(日本経済新聞連載)を基にした自伝的著作であり、学術的先行研究とは性格を異にする。ただし、創業精神との思想的連関を検討する補助資料として参照した。

7  Christensen (1997), The Innovator’s Dilemma(邦訳『イノベーションのジレンマ』).

8  O’Reilly & Tushman (2016/2020), Lead and Disrupt(邦訳『両利きの経営 増補改訂版』).

9  Chandler (1962), Strategy and Structure(邦訳『組織は戦略に従う』).

10  Penrose (1959), The Theory of the Growth of the Firm(邦訳『企業成長の理論』).

11  Tushman & Anderson (1986), “Technological Discontinuities and Organizational Environments,” Administrative Science Quarterly.

12  為せば成るの精神は、信条ともいわれるが、三切り主義、二キュウ主義とともに山田の理念を形成し、数々の挑戦を後押しした。

参考文献
 
© 2026 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
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