組織の中で「歴史」を経営資源として活用する事例が見られる。「歴史」は「過去の事実(史実)」と異なり、活用する企業の主観が加わったものである。本研究では、えちぜん鉄道と沿線自治体、沿線住民組織の歴史活用、中でも「集合的記憶」の活用を考察した。えちぜん鉄道の路線は、かつて京福電気鉄道(以下、京福電鉄)が運営をしていた。京福電鉄は2000年、2001年とわずか半年の間に越前本線で正面衝突事故を起こし、それを契機に福井県下の鉄道事業から撤退した。その後、約2年間にわたり、バスによる代行輸送が行われた。しかし、このバスによる代行輸送は地域社会に大きな混乱をもたらす結果となった。そのような状況を受けて誕生したのが、第3セクターのえちぜん鉄道である。本研究では、2度の事故とそれによって始まった2年間のバスによる代行輸送が地域社会にどのような影響を与えたかを検証する。そしてえちぜん鉄道や地域社会が、バスによる代行輸送の体験という集合的記憶をどのように活用したのか、その活用は意識的なのか、そうでないのかを考察する。
Examples exist within organizations of utilizing “history” as a management resource. “History” differs from “what actually happened in the past (historical facts)” in that it incorporates the subjective view of the company utilizing it. The focus of this study was the utilization of history by Echizen Railway, local municipalities along its route, and residents’ organizations, with particular attention to the leveraging of “collective memory.” The Echizen Railway line was formerly operated by Keifuku Electric Railroad, which suffered two head-on collisions on the Echizen Main Line within just six months in 2000 and 2001. The collisions led to its withdrawal from railway operations in Fukui Prefecture. For approximately two years thereafter, replacement bus services were used, causing significant disruption for the local community. In response, Echizen Railway, a third-sector (public-private) company, was established. This study examines the impact of the two accidents—and of the replacement of rail with bus services for the next two years—on the local community. Further, the way Echizen Railway and the local community have utilized the collective memory of the bus service experience, consciously or unconsciously, is explored.
経営資源は「ヒト・モノ・カネ、情報」と言われる。その中の「情報」には、さまざまな種類がある。本研究では経営資源としての情報のうち、「企業の歴史」について考える。Suddaby et al.(2010)では、企業にとってその歴史に独自性があればあるほど、「歴史は稀少で価値があり、真似のできない企業資源となりうる」と指摘している。
企業の歴史を考える上で、注意しなければならないのが「過去(史実)」と「歴史」の違いである。一般的に「史実」と「歴史」は同様に考えられがちだが、「過去(史実)」は客観的であるのに対し、「歴史」はそれを伝える人、活用をする人による主観が加わっている(Suddaby et al.(2010)ほか)。さらにHobsbawm and Ranger(1983)の『創られた伝統』にもある通り、一般的に「伝統」とされるものも、実は後になってから創られたものであり1、過去を資源として使いたい側の主観が入ったものと言える。
また、企業の歴史を考える上で、欠かせない概念が「集合的記憶」である。「集合的記憶」とは、ある集団が共有し受け継いできた記憶、知識、情報の総体であり、集団のアイデンティティ、組織文化を形成する重要な要素とされている(Halbwachs, 1950)。歴史的出来事に直面して見聞したことだけでなく、伝聞したことや感じたことなども含んでいる。つまり「集合的記憶」も「過去(史実)」とは異なり、集団の主観的要素が入ったものである。企業における集合的記憶は、その時の構成員の主観はもちろん、経営者の考え方や経営方針、業界情勢、社会情勢等に大きく影響する。「集合的記憶」は個人の記憶が集まっただけでは成立せず、社会の記憶として公認されていかないと、集合的記憶として記されることはない(有末, 2016)。そして集合的記憶は、社会情勢から大きな影響を受けるだけでなく、社会に影響を与えると考えられる。
本研究では、自社の前に事業を行っていた企業の「負の歴史」ともいえる歴史を、積極的ではないにせよ、結果的に活用したという他に例を見ないケースとして「えちぜん鉄道」の事例を考察する。まず、「歴史の活用」についての先行研究を整理する。インフラ産業の一種である鉄道産業においては、廃線が規制されているため、第三者(他社)によって事業継承されることが多い。しかし、えちぜん鉄道の場合は、事例が多い旧国鉄線からの第三セクターへの転換ではなく、半年の間に2回の正面衝突事故を起こした京福電鉄という民間鉄道から第三セクター事業者への事業継承を実現した事例であり、その設立や事業活動において、事故とそれに伴う運行停止、バスによる代行輸送とそれがもたらした社会的混乱という負の記憶を歴史として「活用」した可能性が高いと考えられるため、これまでの歴史活用研究にはない成果が得られるのではないかと考え、検証と考察を行った。具体的にはえちぜん鉄道に関する先行研究・参考文献、えちぜん鉄道発足当時に会社運営に関わった人たちによる文献などを基に「京福電鉄の廃線」および「バスによる代行輸送」という過去をいかに企業資源に活用したのかを検証していく。
歴史の活用には「レトリカル・ヒストリー(Rhetorical History、以下RH)」や「組織の記憶研究(Organization Memory Studies、以下OMS)」に分類されるが、その境界は明らかではなく、厳密に分けることは難しい。酒井・井澤(2022)は、欧米圏の経営・組織論研究で興隆してきた歴史的転回(historic turn)に属する研究群を「歴史的背景の説明」と「歴史語りの研究」に分けて概説しているが、2010年代後半から、アクターが意図的に語った過去自体に着目する「歴史語りの研究」が中心的地位を占めてきた、としている。
競争優位の源泉としての歴史とその表現(修辞的歴史)について、先行研究をレビューし、詳細な解説を行っているのが、Suddaby et al.(2010)、Foster et al.(2017)である。Suddaby et al.(2010)は修辞的歴史がどのような効果をもたらしたのか、社史や企業博物館などが歴史の戦略的活用に効果があることなどをまとめており、Foster et al.(2017)は歴史が組織に与える優位性は、過去の知識が参照されるタイミングと、それが戦略的に伝達される理由を理解していること、組織の成功は戦略的優位性を生み出すヒストリカル・ナラティブを巧みに展開するマネジャーの能力によるものだと指摘している。
個別事例の先行研究では、カールスバーグの事例を研究したHatch and Schult(2017)が、カールスバーグが創業のモットー、スローガンとして使っていた「Semper Ardens(筆者注:ラテン語で「常に燃えている」の意味)」を一度は新製品の名前に使用し、その後、カールスバーグが成長し、社員のアイデンティティ確立が必要となった時に、「Semper Ardens」が再び注目され、再文脈化されたことが明らかにされている。
一方、ナチスとの関係性を外部環境に合わせて変化させたドイツのメディア企業、ベルテルスマンの事例を検証したのが、Booth et al.(2007)である。ベルテルスマンは第二次世界大戦後に占領軍から教科書の印刷の業務を得るために、「ナチス政権下で反ナチスの本を出版したために、ナチスから事業を停止させられた」と説明をしていた。確かにナチスによって事業停止になってはいるが、実際にはナチスによる情報発信元の一元化を図るための事業停止であった。また、事業停止前には反ナチスの出版物だけでなく、反ユダヤ主義的な文献も出版していた。戦後になって「情報発信一元化による事業停止」「親ナチス(反ユダヤ主義)出版物の発行」という事実にはあえて触れず、「反ナチス出版物の発行」と「事業停止」という点のみを強調した事例であり、歴史の活用においては「あえて使わない」歴史があることを明らかにした。歴史を企業資源として捉え、その時点でよいと判断したものを活用し、そうでないものは活用しなかった事例と言える2。
企業における多くの修辞的歴史が、「武勇伝」であるのに対し、異なる視点からのアプローチをしているのが、長谷部(2022)や松尾(2019)、McGaughey(2013)である。長谷部(2022)はソニーの歴代経営者によるRHの変遷を詳細に考察している。ソニーは長年にわたりRHを有効に用いてきた企業ではあるものの、過去の経営者のRHとの距離を取り、新旧RH間で生じる闘争を回避していることを示した。
歴史の活用で予期せぬ結果となった事例を紹介したのが松尾(2019)、McGaughey(2013)である。松尾(2019)は過去の成功事例を活用したものの、その後の事業不振から予想外の結果を生み出したカネボウの事例を考察した。カネボウは戦前の「大鐘紡」の復活を目指し、RHを活用したが、その結果として実現不可能な目標設定と、その実現を目指した押し込み販売・循環取引などの不正行為を招き、企業として衰退したことを指摘している。
McGaughey(2013)は技術革新が進む中、従来から業界内で用いられてきた雷防御製品の規格を作り変えようとした新興企業が、従来規格の否定という戦略を取った結果、「最新の技術でも実験室レベルで再現実験ができない雷であるから、長年にわたり使用し安全性を確保していた従来規格から変更する必要がない」という規制勢力に敗北した事例を取り上げ、「古い基準から新しい基準に変える」という試みが、現実の企業・業界の中から必ずしも正しいとされないことを明らかにした。
RHやOMS、もしくはそのどちらについても、かつては成功した事例を次に生かす、「武勇伝的」なものにスポットをあてた研究が多かったが、次第に研究が進むにつれて必ずしも「武勇伝ではないもの」も研究対象になってきている。
2.2 えちぜん鉄道および京福電鉄に関する参考文献・先行研究えちぜん鉄道の路線を同社設立前、長年にわたり運営してきたのが京福電鉄である。京福電鉄に関する文献・論文としては、「存続・経営支援に関わるもの」、「事故に関するものの」二つに大別される。存続・経営支援に関するものとしては、地域価値財として同電鉄をとらえて評価し、上下分離方式の導入を提言した和田(1999)、不採算な地方鉄道の経営支援に関する考察を行った浅沼(2001)がある。
和田(1999)は、採算性の悪い地域鉄道の存続を主張することは財政資金投入を意味し、社会的意義が必要としている。具体的には「災害発生時等、緊急時における交通サービスの多様性維持」、「交通弱者にとっての公共交通手段の確保」、「環境への配慮」、「混雑への影響」、「幼年時代の原風景の一部を形成する要素である鉄道への執着」などを挙げている。
浅沼(2001)も存続には行政の支援が必要であること、通勤・通学はもとより、高齢者の交通手段として欠かせないものであることなど、調査結果を基に紹介した上で、国民の交通する権利、「交通権」の概念を紹介している。和田(1999)、浅沼(2001)ともに行政の関わりの重要性を述べるとともに、今後の運営は上下分離方式とすべきと主張している。
一方、事故に関する文献・先行研究では、事故原因となったブレーキに関する考察および同種の車両事故である大阪南港ポートタウン線ニュートラムの事故事例における再発防止策と京福電鉄の事故対策を比較した外山(2001)や、2度の事故について4M(Man・Machine・Media・Management)の視点から緊急時の人間行動を分析したもの(岸田他, 2001;岸田他, 2006)などがある。また、高橋(2024)は京福電鉄の経営状況から安全対策への投資がされず、かろうじて安全を保っている状態であったことに加え、「何か起きたら信号機の「全赤」と列車無線の確認で事足りるはず」と考えたものの、従業員が迅速に対応できずに事故を招いたことについて、「いざという時に従業員が動けなくなるなど、最悪の事態を想像できなかった」ことに問題があると考察している。
このほか負傷者のトリアージの研究(和藤他, 2002)などもあり、機械工学や人間工学、医療など、多領域からの探究・考察がなされている。
えちぜん鉄道に関わる文献・先行研究では、「設立までの過程と歴史(岡本, 2003;見奈美, 2007, 2009;酒井, 2019ほか)」、「沿線住民組織の果たした役割(宝田, 2009;浅沼, 2005;清水他, 2021ほか)」、「沿線住民の意識(堀井他, 2005;三寺, 2018ほか)、「まちづくり・活性化の視点からの考察(高橋, 2004ほか)」、「沿線自治体の支援(小谷田他, 2004;酒井, 2019ほか)」、「えちぜん鉄道のマーケティング(今村, 2023ほか)」、「地域における鉄道の価値(川上, 2015ほか)」などに分類される。
中でも、見奈美(2007, 2009)嶋田(2008)、伊東(2003)3は、えちぜん鉄道設立時から同社に所属しており、その記述内容からは、えちぜん鉄道の誕生の経緯やその時の思い、発足当時の社内の雰囲気などを感じ取れる内容になっている。
一方、鉄道の持つ多様な価値を、えちぜん鉄道の事例から示したのが、川上(2015)である。地域における鉄道が単なる交通手段に留まらず、多様な価値を持っていること、鉄道が公益支援性を有する重要な社会資本であり、その整備・運営に対して行政は積極的に関与すべきであること、鉄道をはじめ公共交通は財政的な採算性に則って判断すべきではなく、社会便益を含む地域経済的採算性に依拠すべきと指摘している。
詳細は後述するが、えちぜん鉄道の設立および現在に至るまでにおいて、沿線地域住民の果たした役割は大きい。そのこともあり、沿線住民の活動や意識に着目した研究のほか、地域住民のメンバーが発表した文献、地域住民に取材した文献などが多く見られる。
本研究の対象企業は、第三セクターとして発足したえちぜん鉄道と、かつて福井県下で鉄道事業を行っていた京福電鉄である。そこでまず2社の概要を示す。
3.1 京福電鉄京福電鉄の発祥は京都電燈(1888年4月設立)が蹴上疎水に水力発電所を建設、そこで作られた電気を使って、日本で最初の営業用電気鉄道である京都市電(Nゲージ)を走らせたことから始まっている。京都電燈はその後、1914年に越前本線を開通、1918年に嵐山電車軌道を合併、1925年に叡山平坦線・鋼索線(叡山ケーブル)ほかを開通するなど路線を拡大したが、1942年の配電統制令を受けて京都電燈は解散した。その保有する鉄道路線を継承する会社として設立されたのが京福電鉄である。社名に「京福」とあるのは、「京都府」と「福井県」に路線を持つことが理由だが、設立当初から現在に至るまで、京都府と福井県を鉄道でつなぐ計画がなかったことが知られている。
京福電鉄は、太平洋戦争中の交通統制を受けて、福井県内にあった小規模な鉄道会社(三国芦原電鉄、永平寺鉄道、丸岡鉄道など)を吸収合併し、福井県下で路線を拡大した。その結果、京都エリアとは別の運営組織が必要になり、福井支社を設立した。
戦後は福井県の地域鉄道として、地域住民はもちろん、永平寺や芦原温泉などを訪れる観光客の輸送にも貢献した。しかし、モータリゼーションの影響を受け、1960年代に入ると赤字に転落した。1970年代以降には合理化に取り組み、駅の無人化などが行われた。それでも業績は回復せず、福井支社管轄の路線を次々と廃止していった。2000年、2001年と半年の間に2度の正面衝突事故を起こし、それを機に福井県内の鉄道事業から撤退した。
現在、福井県下では、京福電鉄のグループ会社がバス事業、タクシー事業、観光事業、不動産事業を行っている。ちなみに京都エリアでは鉄道事業として、嵐山線、鋼索線(叡山ケーブル)、架空索道(叡山ロープウェイ)を運営している。
3.2 えちぜん鉄道の概要えちぜん鉄道(略称・えち鉄)は2002年9月17日、福井県と沿線市町村、一般株主が出資する第3セクターの企業として設立された。資本金は4億9,700万円、代表取締役社長は前田洋一、営業キロ数は、勝山永平寺線(福井-勝山)27.8km(駅数23)と勝山永平寺線の福井口駅から分岐した三国芦原線(福井口-三国港)25.2km(駅数21)の合計53.0kmである。九頭竜川沿いを走ることから、「くずりゅう鉄道」を社名とする案もあったようだが、略称が「くず鉄」となってしまうことから、「えちぜん鉄道」に決まった(嶋田, 2008)。
えちぜん鉄道を一躍有名にしたのはアテンダントの導入4である。アテンダントは車掌ではないのでドアの開閉業務等は一切行わない。乗車券の販売と接客(乗客からの問い合わせ対応、高齢者・障害者等の乗車補助)などが主な業務である。
2003年の運行開始以来、乗客数は順調に拡大、2018年度には370万人に達した(伊東, 2023)。ローカル鉄道の中でも乗客数を伸ばしている鉄道として注目を集めている。
京福電鉄は1960年代に赤字に転落するなど、経営がきびしい状態に置かれていた。これは京福電鉄に限ったことではなく、日本全国の地方鉄道、あるいはJR(国鉄)のローカル線にも共通する傾向である。地方の鉄道が利用者を減らし、厳しい経営状態に陥ったのはモータリゼーションが理由である。日本政府は戦後の産業振興の点から自動車産業を発展させるべく、モータリゼーションの推進と道路建設を交通政策の柱にした。自動車は約3万点(部品点数が少ないとされる電気自動車でも2万点)の部品から構成され、その原材料も金属からガラス、樹脂などと幅広い。きわめて裾野の広い産業であること、さらに自動車産業が発展すれば、関連する産業も発展することが見込まれたからである。
戦後の日本の道路の舗装率は低く劣悪な状態であった。道路状況が悪ければ原材料や部品、完成品の輸送に支障があり、さらに自動車の国内販売台数も伸びない。そこで政府は揮発油税を道路整備特定財源にするなど、道路整備に力を注いだ(堀内, 2012)。
モータリゼーションの進展は、地方鉄道に大きな影響を与えた。人々が自動車を利用することによって、ますます自動車の増加を促すという結果をもたらした。これを上岡(2004)はモータリゼーションの「悪の枢軸」と名付けている(図1)。

(出所)上岡(2004)から筆者作成。
図1の右側は自動車を使うほど、ガソリン等の消費が進み、道路特定財源の収入が増加、道路整備が進み、人々はますます自動車を使うというサイクルを示している。また、自動車が普及すると、都市中央部では駐車場の確保等が難しくなり、郊外に住宅地が拡大する(図1の左側のサイクル)。こうした過程の中で人々は自家用車を利用するようになり、公共交通の利用者が減少するため、公共交通の経営は厳しくなっていく。公共交通の事業者では、路線の廃止や運行本数の削減を行ってコストダウンを図ろうとするが、それに伴い、人々はますます自動車への依存度を高めていく(上岡, 2004)。
地方の鉄道の経営が苦しいのは、こうした構造的な問題によるものであるが、これほど自動車が普及した今、「自動車のない社会」は考えられない。地方鉄道と自動車の共存方法を考える必要がある。この点でも、えちぜん鉄道のパーク&ライド(詳細は後述)の取り組みは、自動車との共存も視野に入れたものであり、注目に値する。
次に、えちぜん鉄道設立の経緯について、時系列で追う。この項目については、えちぜん鉄道に勤務した伊東(2023)、見奈美(2007, 2009)、嶋田(2008)をベースにしつつ、茶木(2016)、川上(2015)、堀内(2012)なども参考にした。
5.1 京福電鉄における二度の事故発生京福電鉄は自動車の普及が急速に進んだ1960年代以降、利用者が減り続け、長年にわたり、厳しい経営を強いられてきた。そこで不採算路線の廃止を繰り返し、かつては1,000万人以上あった利用者が300万人程度まで減少した。
モータリゼーションの進行以外にも、少子高齢化による人口減少もあり、京福電鉄の経営は苦しく、資金繰りに苦労していた。京福電鉄福井鉄道部が車両更新や信号系統の改良を行う意思を示しても、主要株主から支持が得られない状態だった。1989年以降、越前本線(現在の勝山永平寺線)は、山間部路線の線路維持費用がかさむことから、毎年のように廃線・バス転換を沿線自治体に要望した。そして1992年2月、京福電鉄は越前本線の勝山―東古市(現・永平寺口)間と永平寺線の廃線とバス転換計画の申し入れがなされた。
沿線住民はバス化による乗り心地の悪化、所要時間、運賃などがサービス低下につながり、利用者の減少を招き、最終的にはバス路線も廃止されるという危機感から鉄道存続を要望した。自治体もまた存続を要望した。数度となく話し合いがもたれ、行政は赤字補填のための補助金増額などで対応した。1997年から福井県と沿線市町村は、今後3年間、欠損補助を実施することにし、越前本線勝山-東古市間および永平寺線の鉄道事業を継続することで合意された。
鉄道存続の協議が行われた最中の2000年12月、越前本線東古市-志比堺間で電車正面衝突事故が発生した。この事故は、走行中の車両のブレーキロッドが破断し、ブレーキが利かなくなった結果、電車が暴走して停車中の電車に正面衝突したもので、乗務中の運転手を含め26名が死傷した。再発防止策として同系統のブレーキを有する17両の車両に対し、3か月に1度、当該ブレーキロッドの打音検査を行い、傷やきれつの有無を確認することで、国土交通省から運転再開許可が与えられた。
2000年は欠損補助の最終年で、福井県および沿線市町村はその延長を決定したが、その直後の2001年6月24日、越前本線の保田-登坂間で2度目の列車衝突事故が発生してしまった。2度目の事故は運転士による信号の見落としによるもので、乗員乗客25名が重軽傷を負った。6か月の間に2度の正面衝突事故を起こしたことを重く見た国土交通省は事故当日、京福電鉄福井鉄道部に全線の運行休止とバスによる代行輸送を命じた。
5.2 京福電鉄の福井県下鉄道事業の撤退とバス代行による社会的混乱2度目の事故から約1か月後の2001年7月19日、中部運輸局は京福電鉄に対し「安全確保に関する事業改善命令」を出した。同年8月(公表は9月)、同事業改善命令を受けて京福電鉄が調査を依頼した鉄道総合技術研究所から、「年内の運転再開に11億円以上、施設改修・設備投資の上積み分を加えれば、長期的に必要な金額は150億円を超える」と提示された(日本経済新聞地方経済面北陸、2001年9月4日付)5。この時、京福電鉄がATSなどの安全装置の設置を先送りにしていたことも明らかとなった。
事故の翌日からバスによる代行運行が始まっていたが、定時性が確保できず、遅れが頻発していた。当初は駅に行ってから幹線道路に戻るというルート設定をしていたため、電車の3倍以上の時間がかかった。バス運転手には、「定時性を確保するためにスピードを上げろ」という指示が出されていたという話もあり、乗り心地も悪かった。このバスによる代行輸送によって50%以上の顧客がバスの利用を止めたとされる(見奈美, 2007ほか)。
突然電車が全面運行休止になり、いつまでバスでの代行輸送が続くのかがわからない状況の中、廃線の危機感を持った沿線市町村長が、2001年10月14日に「電車存続に向けた財政支援の拡充について」の要望書を福井県ならびに県議会に提出した。
経営が厳しかった京福電鉄は安全確保のための施設改修費用がなかったことや、バス代行によって利用客が減少したことを理由に福井県下での鉄道事業継続は不可能と判断し、2001年10月19日に中部運輸局に「鉄道事業廃止届」を提出し、1年後に福井県内の鉄道事業(越前本線、三国芦原線、永平寺線の3路線)から撤退する意思を表示した。その直後には京福電鉄は福井鉄道部を解体した。
越前本線廃線の意思表示後も、バスによる代行輸送が続いたが、年間利用者が越前本線ピーク時の3分の1に減ったとはいえ300万人以上、営業キロ数50キロ以上、40を越える駅の列車輸送をバスによる代行輸送で賄おうとする計画には無理があった。
通学で利用していた中学生・高校生からは「始発バスに乗っても遅刻する」「バスが来ても満員で乗れない」という声が続出した。さらに冬になると、みぞれが降る中、屋根のないバス停で寒さに震えながらバスを待つ高校生の姿などが報道された。また、運転免許証や車を持たない高齢者の中には、いつやってくるかわからないバスに乗るぐらいなら外出を諦めるという事態も発生した。診察や治療のための病院通いや日用品や食料品の買い物を断念するケースも見られた。
福井県は自動車保有率日本一の県である。通勤で鉄道を利用していた人たちは自家用車で通勤することになった。そこにバスに乗れない中学生・高校生を家族が送迎する自家用車が加わり、大渋滞が発生した。当初は「自分は越前本線に乗らないから、廃線になっても関係ない」と思っていた人たちにも、大きな影響を与える結果となった。
さらに沿線周辺の企業や公共施設、商業施設、病院なども、来訪者が自動車で移動するため、駐車場の拡張を強いられるなど、新たな出費を強いられることになった。沿線住民の中には「もう電車は走らない」と考え、線路敷地内を畑にするなど勝手に利用するケースも見られた。この混乱状態は2年以上続いた。
5.3 住民運動の高まりとえちぜん鉄道の設立「鉄道運行休止とバスによる代行運転」を実際に体験したことにより、勝山市などで1992年頃から本格化していた鉄道存続運動がさらに盛り上がりを見せてきたが、その一方で鉄道の存続に反対する声もあった。JR沿線の市町村からは「県の税金を投入してまで存続させる必要はない」と消極的であり、多くの県議会議員からも反対の声があった。
当時の栗田行雄知事から「住民が本当に欲しい鉄道なのか。住民の熱意で決定したい」との声明が出され、鉄道存続運動を担う地域住民たちは、「赤字の鉄道はいらない」という県議会の方針を変えるほどの「本気」を見せる必要に迫られた。そこで2001年11月18日には電車存続を熱望する吉田郡で「電車存続駅伝大会」が実施され、引き続き行われた「電車存続県民総決起大会」には吉田郡、勝山市、福井市、坂井郡の住民約1,000人が集結した。駅伝のバトンの中には「電車が欲しい」と訴える小学生と保護者の作文が入っており、これを当時の西川一誠副知事に手渡した。
こうした活動と、県議会で、ある議員からの「上下分離方式」による事業運営という案が出されたことにより、一気に流れが鉄道存続の方向に変わった。2002年1月、「京福越前線沿線市町村長会議」で第3セクターによる運営が決定した。駅舎や車両等の資産取得費用、設備投資や保守管理の費用は福井県が負担し、沿線5市町村と一般株主の出資による第3セクターの新鉄道会社は運行と事業経営に専念することになった。
なお、各地で起こった住民による鉄道存続運動が活発化し、連携したNPO法人の「ふくい路面電車とまちづくりの会(ROBA)」をはじめとする団体が果たした役割も大きいとされる。鉄道の存続が決まったものの、存続運動を行ってきた市民団体は危機感を失っていなかったことから、住民主体のサポート団体を立ち上げたのである。
そして2002年9月、えちぜん鉄道が設立された。沿線自治体が資本の約7割、残りの3割を県内の企業、団体、沿線住民の支援団体が出資した。2002年10月10日、えちぜん鉄道は京福電鉄との間で、土地や建物など資産譲渡を含む鉄道事業の営業譲渡契約を締結し、運行開始に向けた準備が始まった。
5.4 えちぜん鉄道による電車運行再開とサービスの拡充2002年10月21日、京福電鉄の永平寺線は採算が見込めず、廃線になることが発表された。なお、越前本線と三国芦原線は新会社による運行再開までバスによる代行輸送が行われることになった。
えちぜん鉄道設立に際し、福井県は京福電鉄からの資産購入費用の全額、国交省から指摘されたATS(列車自動停止装置)の設置など、安全投資の3分の2(残り3分の1は国補助)を負担し、運行再開前に必要な安全対策工事を実施した。
その一方で社員の採用活動も行われた。その基本方針は「京福電鉄のスタッフを積極的に引き継がない」というものであった。会社設立時に採用された社員の中で、鉄道経験者は約30%、ほとんどが鉄道未経験の若い社員であった。ただし、育成に時間がかかる運転士についてはその例外とした。採用した運転士23名のうち、京福電鉄出身者は21名だった。運転士には運行までの3か月間にわたり、安全に関する意識改革のためのジョブトレーニングを行うとともに、安全マニュアルを作成し、周知させた。なお、本社の指令室と運転士の控室、社長室には正面衝突事故の写真を掲げ、事故の記憶を風化させないようにした(嶋田, 2008。なお、北陸新幹線開通に伴う高架化事業によって建てられた現在の新社屋では、指令室と乗務員控室に事故の写真が飾られている)。
アテンダントの募集は2003年4月頃から始まった。当初は派遣社員としての採用であった。経営が厳しい地方鉄道の多くは人員を削減するのが普通だが、えちぜん鉄道の専務で民間企業出身の見奈美徹氏が「人材は投資であり、サービス要員である」という考えのもと、アテンダントの乗務を決定した。当時のえちぜん鉄道は43駅中26駅が無人駅であったことに加え、プラットフォームがバリアフリーでなかったことから、高齢者の乗車に支障があった。また、沿線には観光地もあり、不慣れな観光客が利用することも考えられた。そこでアテンダントは乗客の乗降サポート、各種案内を担うことになった。
さらに京福電鉄時代は利用者が減ると本数を減らし、料金を上げていたため、また利用者が減るという悪循環を繰り返していた。「鉄道は割高である」というイメージが定着していたため、見奈美はこれを打破すべく、料金の見直しを行った。初乗り運賃を170円から割安な150円に値下げし、普通運賃も15%引き下げた。京福電鉄時代に900円だった福井-勝山間は750円になった(価格はいずれも当時)。
2003年1月17日に国土交通省から「鉄道事業譲渡譲受の認可」が下り、同年7月20日にえちぜん鉄道勝山永平寺線の福井-永平寺口間、三国芦原線の福井口-西長田間が運行を開始。8月10日には三国芦原線の全線、10月19日には勝山永平寺線の永平寺口-勝山間が運行を開始し、えちぜん鉄道の全線が開通した。
会社設立当初は当時の勝山市長である山岸正裕が社長を兼務していたが、県議会が民間人の社長を望んだこともあり、2004年6月に2代目社長として専務の見奈美が昇格した。
2007年には三国芦原線で住宅や工場があるにもかかわらず駅間が長かった福大前西福井-新田塚間に日華化学前と八ッ島の2駅を設けたほか、パーク&ライドの駐車場整備や通勤定期を利用しやすくするために同居家族の使用を可能にする、一日フリー切符の20%値下げ、障害者用回数券の価格を普通回数券の半額にする、夏休み親子フリー切符の販売、無料のレンタサイクルの実施など、サービス向上の取り組みを行っている。
以上、京福電鉄による二度の正面衝突事故とそれに伴うバスによる代行輸送、そして、えちぜん鉄道による鉄道復興についての時系列的分析を行ってきた。この中で最もインパクトがあるのが、「約2年にわたる列車の運行休止とバスによる代行輸送」である。
この「約2年間にわたる列車の運行休止とバスによる代行輸送」は、過去の事実であると同時に、この件に何らかの形で関係した人、同時期にこのエリアに存在した人にとっては「集合的記憶」でもある。茶木(2016)では、「鉄道の運行休止とバスによる代行輸送」の時に高専生で、当時の永平寺町役場税務課主事の酒井貴広氏の声を掲載している。酒井は上志比村(現・永平寺町)の出身で、自宅から鯖江市にある福井工業高等専門学校に通っていた。しかし、「2度目の事故の翌日から急に鉄道が使えなく」なり、代わりに代行バスが運行されたものの、「朝は道が渋滞して時間通りに来ないし、福井駅まですごく時間がかかる」「雪の日などはいくら待ってもバスは来ない」「(来たとしても、途中の停留所は)満員で通過されてしまう」、「JRの時間に合わせてバスの運行ダイヤが組まれていたが、遅延で授業の開始時間に間に合わないので、母親が父親と私を福井駅までマイカーで毎日送ってくれるようになった。渋滞もあって片道40~50分かかった」と証言している。さらに「当初、これは一時的なこと」と考えていたが、「時間が経つにつれて、このまま鉄道がなくなってしまうんじゃないかという不安が増した」という。
酒井のように個人的に大きな影響を受けなかった人であっても、マスメディアの報道等もあり、「列車の運行休止とバスによる代行輸送」の経験6は、集合的記憶として残る。えちぜん鉄道の設立には、従来から廃線の議論があったことに加え、この集合的記憶、すなわち「列車の運行休止とバスによる代行輸送による混乱の体験の記憶」が大きな役割を果たした。しかし、えちぜん鉄道設立後も、この集合的記憶は機能し続けたと考えられる。そこで以下では、えちぜん鉄道設立後におけるステイクホルダー(えちぜん鉄道、福井県および沿線自治体、沿線住民の組織)とこの集合的記憶との関連を考察する(図2)。

(出所)筆者作成。
えちぜん鉄道を利用しない住民にとって、公金でえちぜん鉄道に財政的支援を行うというのは、納得が得られない可能性がある。にもかかわらず、福井県、沿線自治体が、えちぜん鉄道の設立に関わり、その財政的支援を表明したのは、「鉄道が地域における重要な社会資本であり、公益支援性を有するものである」(川上, 2015・2019)という前提に立っているからである。その前提を成立せしめているのが、「約2年間にわたる列車の運行休止とバスによる代行輸送」による体験の集合的記憶である。鉄道利用者のみならず、渋滞による交通の悪化や駐車場拡充など、さまざまな人に大きな影響を与えたことが、公金による財政支援を正当化する根拠となっている。もっとも今回レビューをした文献では、えちぜん鉄道の設立前には財政支援の根拠が問われることはあったが、えちぜん鉄道の事業開始後に問われる事態があったかどうかは確認できなかった。
6.2 沿線地域住民組織京福電鉄越前本線の沿線地域の住民組織にとって、えちぜん鉄道による鉄道再興によって当初の目的を果たしたと言える。しかし、沿線地域住民組織はこの目標達成で満足はしなかった。それは、「経営が不振になれば、いつ運行休止になるか、わからない」「運行休止になれば、再びバスによる代行輸送になってしまう」7という恐れがあったからである。そのような懸念を持った沿線地域住民組織は、それぞれで駅の美化活動や乗客増加の取り組みを行うとともに、「えちぜん鉄道沿線サポート団体連絡会」を結成、えちぜん鉄道の存続のために、利用促進につながるアイデアに関する情報交換・検討などを行っている(茶木, 2016)。こうした活動を行う背景には、やはり「約2年間にわたる列車の運行休止とバスによる代行輸送」による体験の集合的記憶があったものと考えられる。
6.3 えちぜん鉄道えちぜん鉄道のウェブサイトには、同社の経営理念が記載されているが、その前に会社設立に至る経緯として、「2度の衝突事故」「2年5ヶ月間のバスによる代行輸送」「住民運動をきっかけに鉄道存続が決まる」という項目が掲載されている。
同社の企業理念では、「事業の目的と使命」として「地域・社会との信頼を基本におき、お客様への安全性、利便性、快適性を通して、地域共生型サービス企業をめざします」、「企業方針」として「お客様サービスを第一に考えます」、「沿線地域と交流するネットワークを創ります」「自己責任を果たし、自立する企業をめざします」「夢と希望のある企業にします」を掲げた。これらの目的と使命を実現していくためには、「存続」をしていかなければならない。つまり運行休止になるような事態を招いてはいけないという思いがある。
国鉄・JRの特定交通線から転換された第三セクター鉄道は、1キロあたり3,000万円の転換交付金があり、この転換交付金を基に基金を創設・運用して、赤字を補填する計画が立てられる(堀内, 2016)。しかし、私鉄の路線をベースに設立されたえちぜん鉄道には、転換交付金がないため、沿線自治体の支援を受けつつも、自らの力で稼ぐ必要があった。
そこで、えちぜん鉄道では自ら収益を向上させる取り組みを行った。前述のパーク&ライド実現のための駐車場整備や定期券の家族利用などの取り組みは、通勤定期の増加をもたらした。また、JRやバスなどとの連絡を考慮したダイヤ編成など、利便性に努めたことも業績向上に貢献した。さらにアテンダントの存在も、顧客の声や改善点の収集などに寄与、サービス品質を向上させ、利用者の満足度を上げている。これは民間企業出身の二代目社長である見奈美徹の「鉄道事業はサービス業である」という考えが周知徹底されたものであるが、その陰には「列車の運行休止とバスによる代行輸送」の体験を二度と起こさないという思いがあると考えられる。
コロナ禍前の2017年度の実績を見ると、利用者からの収入は約8億円、必要な支出と投資を除いたオペレーション上の支出は約10億円で、2億円程度の赤字である。毎年2億円ほどの財政支援を行政から得ているが、それは線路・電路の修繕費用と固定資産税に充てられており、固定資産税額は2017年度で約9,000万円である。固定資産税は地方税として自治体に還元されるため、沿線自治体の実質的な負担は約1億円、これを5市町村で割るため、一市町村あたりの拠出は2,000~3,000万円に抑えられている(伊東, 2023)。
6.4 まとめ「2度の事故と2年間の運行停止・代行バス輸送の体験」の集合的記憶の活用を、えちぜん鉄道、福井県・沿線市町村、沿線住民の組織別にまとめる。えちぜん鉄道においては、事故および運行停止・代行輸送の体験は、自社の成立背景であり、企業理念にもつながるものである。しかし、事故および運行停止、バスによる代行輸送は、えちぜん鉄道設立前の出来事であるため、「企業理念を確立する設立時こそ積極的に活用したものの、あくまでも他社が起こした事故であることから、その後は積極的に活用する意思はなかった」(えちぜん鉄道取締役営業開発部長兼管理部長佐々木大二郎氏へのインタビュー、2025年7月4日実施)が、結果として活用した形になっている。
一方、福井県・沿線自治体にとっては、えちぜん鉄道に財政的支援を行う理由として活用しており、沿線住民の組織にとっては「乗って残す」ためのよりどころになっている。
冒頭の「1. はじめに」で述べたように、集合的記憶は、社会情勢から大きな影響を受けるだけでなく、社会に影響を与える。えちぜん鉄道をめぐる集合的記憶は、「2度の事故と2年間の運行停止・バスによる代行輸送」という記憶が、えちぜん鉄道、福井県・沿線自治体、沿線住民の組織それぞれに「鉄道を止める事態にならないように何をすべきか」という社会の認識の醸成に作用していると考えられる。
以上、見てきたように、「運転休止とバスによる代行輸送」という集合的記憶は、福井県および沿線自治体、沿線住民の組織、えちぜん鉄道の行動に大きく影響をしている。しかし、設立時における集合的記憶の活用を除き、先行研究で見た事例のように積極的に利用しているという動きはなく、設立以降は結果的に「集合的記憶」を活用している姿が明らかになった。
これまでの歴史利用の研究は、おおむね自社の歴史の活用を対象としたものが多かった。それに対し、本研究の事例では自社の前に事業を行っていた企業の「負の歴史」ともいえる歴史を、積極的ではないにしろ、結果的に活用したという珍しいケースである。同じ場所で同じ事業を別の企業が引き継ぐ例は稀有ではあるものの、まったくないわけではなく、そのような企業にとって、本研究の事例には歴史利用の研究において参考になるべき点は大きいと考える8。
本研究の次のステップとしては現地での調査を予定している。本稿締め切り後の7月3–4日に現地初動調査を実施したが(一部は査読審査後の原稿に一部反映させている)、さらに詳しい調査を10月中旬から11月にかけて実施する予定だ。現在のえちぜん鉄道の社員・関係者、そして実際に当時の体験をした人々(利用者・非利用者)へのヒアリング、公文書等の閲覧等を計画中である。また、えちぜん鉄道設立の経緯を見る中で、あえて触れられなかった過去の事実や、えちぜん鉄道は意図はしなかったものの、利用者たちの心情、特に京福電鉄に対してはマイナスに働き、えちぜん鉄道の印象にプラスに作用したと考えられる過去の事実など、意図しない要因についても掘り下げたい。
今後は同社および同社関係者へのインタビュー等の調査を行い、アクターネットワーク分析等の手法を生かして、現在のえちぜん鉄道における集合的記憶の活用についての考察を深めていきたい。