日本におけるキリスト教研究は、欧米の場合とは異なり、単純に「神学」と同一視するわけにはいかない。日本では、キリスト教徒であることは、どちらかと言えば例外的なことであり、キリスト教研究者をキリスト教徒に限定すると、その研究は公共性を失い、閉鎖的になってしまうからである。ところが実際には、日本のキリスト教研究はこの点を十分に自覚せず、方法があいまいなままに、多様な試みを続けてきた。その結果、本来キリスト教研究と重なり合うはずの欧米文化の研究も、深みにふれるような成果をもたらさなかったように思われる。このような問題を克服するためには、日本の文化・社会のコンテクストの中で、キリスト教という宗教現象を総体として受けとめつつ理解しようとする「キリスト教学」の可能性が探求されなければならないのではないであろうか。