2005 年 78 巻 4 号 p. 1029-1058,vi
記述的な宗教学に対して、規範的立場に立つ宗教哲学は、客観的知識の基礎となるような「指示」(reference)の次元をもたないと見なされてきた。しかし、そのような宗教哲学の理解は、日本の宗教哲学には妥当しないように思われる。日本の宗教哲学の中心を占める西田幾多郎の思索の努力はむしろ、宗教哲学は根本的には実在に関わるとして、それがどのような実在であるかを明らかにすることに向けられた。その実在は、W・C・スミスが「信」(faith)において触れられる実在としたものであると言い得る。信とはスミスによれば、「人格的生の質」である。宗教研究はこれまで、「信条」(belief)という対象(ノエマ)極に主眼を置くことで宗教を捉えてきたが、信という見えざる主観(ノエシス)極に主眼を置いて捉えられなければならないと、スミスは主張する。日本の宗教哲学が全体として追求してきたのはそのような角度からの探究であり、人間が信において触れる実在の記述であったと言うことができる。