中国における宗教の伝統のなかで、来世という観念はかならずしも十分には成熟しなかった。あの世という観念も本来はない。そこでは現世だけが存在の一切である。したがって現世のしあわせが人のしあわせのすべてであった。そうした中国社会に根づいた宗教のうち、とりわけ道教は日々の暮らしのなかで生をいつくしむことを追い求めてきた。道教につながる民間の気功も漢方も風水も護符も、そうした追求においてつちかわれたものである。転変する社会のなかで切望されたのは平穏な日常である。為す無きことであり事無きことであった。無為と無事を渇仰するこの思いは、『荘子』において神話世界に仮託して表明され、『老子』によって世にながらえるための存在の法則へと昇華された。のちに『太平経』を奉じた道教徒にとっては、実現すべくして実現し得ない理想となったのである。