産業衛生学雑誌
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職場における化学物質管理の今後のあり方をめぐって
宮川 宗之城内 博半田 有通清水 信之橋本 晴男 名古屋 俊士
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2012 年 54 巻 4 号 p. 150-157

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I. 職場における化学物質管理(宮川・名古屋)

現在,化学物質による業務上疾病は年間200–300件程度(休業4日以上)発生しており,産業衛生において化学物質による健康障害の防止は依然として重要なテーマである1).このような労働災害の発生を防止するためには,職場における化学物質の適切な管理がもとめられる.化学物質は取扱いを誤ると重大な健康障害をもたらす場合があることは,過去の事例からも明らかである.化学物質の危険有害性に応じた適切な管理を実施するためには,個々の化学物質の危険有害性に関わる適切な情報を入手し,健康障害に結びつくばく露を未然に排除すべく,作業手順やばく露の防止策を定める必要がある.平成24年1月に労働安全衛生規則が改正され,今年4月からは危険有害性を有する全ての化学物質を対象としてGHS(化学品の危険有害性の分類と表示に関する世界調和システム)に基づいたMSDSの交付と容器へのラベル表示が努力義務化される.これまで一部の物質のみを対象として強制されていたものが,「努力義務」とはいえ対象が大きく拡げられることとなり,今後の化学物質管理に向けた大きな前進である.本稿では,これに関連した最近の話題を提供したい.

平成22年,厚生労働省は「職場における化学物質管理の今後のあり方に関する検討会」を設け1月から6月まで計8回の会合を開催した.この検討会では,労働者の健康障害の発生を予防するために化学物質の管理をより適切なものとするための方策について活発な議論が行われ,7月には報告書がまとめられている1).この中では,化学物質の危険有害性情報の伝達や活用が不十分であることが職場における不適切な取扱いを誘発し災害につながるといった問題や,化学物質のリスクアセスメントが各職場で十分に実施されていないといった問題が指摘されており,GHSに準拠したラベル表示やMSDSによる危険有害性情報の伝達および活用の重要性が示されている.また,健康障害予防のためにはリスクに基づく合理的な化学物質管理の促進が重要との観点から,簡便なリスクアセスメント手法の普及や個人サンプラーによるばく露評価の導入,局所排気装置の要件の柔軟化,専門人材の育成や専門機関による管理の促進などに関する検討が行われたことが報告されている.

平成22年12月には,労働政策審議会から安全衛生対策に関する建議がなされているが,その内容は,同審議会安全衛生分科会報告「今後の職場における安全衛生対策について」に示されたもので,職場における化学物質管理については,「リスクアセスメントの普及・定着を推進するためには,危険性または有害性の情報が確実に伝達,活用されるようにするとともに,リスクアセスメントの結果に応じた合理的な安全衛生対策を講じていくことができるようにする必要がある.」と記されている2).上述のあり方検討会の議論を受けた内容であり,「職場における自主的化学物質管理の促進」として,1)GHS分類において危険有害性を持つとされたすべての化学物質を対象にラベル表示およびMSDS交付による情報伝達を行う,2)事業場内で取り扱う容器等についてもラベル表示を導入する,3)GHS分類結果のデータベースといったインフラの整備や自主管理のための簡易なリスク評価手法の開発を進める,といった方向が示されている.

このような状況を受けて,平成23年5月に開催された第84回日本産業衛生学会では「あり方検討会」に関わったものが中心となり,シンポジウム「職場における化学物質管理のあり方をめぐって─新しい視点に立った化学物質管理のフレームワーク─」を開催した3).シンポジウムでは,あり方検討会での議論を踏まえて「危険有害性情報の伝達と活用の促進」と「リスクに基づく合理的な化学物質管理の促進」を軸に,異なった立場の4人の演者が現状と今後の方向性について見解を述べた.本稿は,シンポジウムで発表を行った各演者が講演の要点をまとめたものであり,全体として今後の職場における化学物質管理の望ましい方向性を示すことを意図したものである.

II. GHS導入が化学物質管理を変える(城内)

1.化学物質管理の潮流

近年の化学物質管理の潮流は「自主対応型アプローチ」と「国際的な枠組みでの実行」にあるといえる.例として前者には労働安全衛生マネジメントシステムや特に中小企業の化学物質管理を念頭に開発されたコントロール・バンディングがあり,後者にはオゾン層破壊物質に関するモントリオールプロトコール,廃棄物に関するバーゼル条約,残留性有機汚染物質禁止条約,さらに国連勧告GHS4)などがある.そしてこれらの条約あるいは勧告に従うことが各国政府に求められている.これらの背景には,増加し続ける化学物質の種類(2011年8月CASに登録された化学物質数は6,000万に達した)および用途の多様性があり,行政が法的にこれらを取り締まることへの諦観,そして化学物質による災害および環境破壊に対する世界規模での急を要する対策の必要性が挙げられる.すなわち化学物質(製品)のライフサイクル(製造,流通,使用,廃棄まで)を通して,全ての国や人が化学物質を適切に管理するために行動することが必要になってきたともいえる.

さまざまな化学物質管理に係わるシステムにおいて,最も重要で根本的な要素の一つとして危険有害性に関する情報がある.これは消費者や労働者等が直接的に災害防止を行う上で必要不可欠な情報であり,また環境および職場でのリスク評価,リスク管理を行う上でも同様である.現在,化学物質管理を世界的に推進するための基盤ツールとして危険有害性を包括的にわかりやすく伝える事を目的として策定されたGHSの普及が世界同時的に進められている.

2.日本の法規制における問題

日本の化学物質管理に関する法規は比較的よく整備されてきたといえる.これらは化学物質を使用する際の災害リスクを少なくする,あるいは病気の早期発見を目的として制定されており,管理体制の構築,危険有害性の評価,施設要件,取扱方法,貯蔵法,局所排気装置の設置,個人用保護具の使用,健康診断等について規定しており,事業者はこれらの法規を遵守することで化学物質による事故や病気の予防に取り組んできた.

しかし,日本においては化学物質の持つ危険有害性を包括的(物理化学的危険性,健康有害性さらに環境有害性などをまとめて)にわかりやすくラベル等に記載し消費者や労働者(使用者)に伝えるためのシステムが構築されることはなかった.危険有害性がわからなければ使用者は予防や緊急時への対応ができないのであり,その危険有害性についてまず使用者に知らせることが,化学物質管理の第一歩であるにもかかわらず,これを包括的にわかりやすく知らせるシステムが存在しない.これは「危険有害性が書かれていなければ安全であろう」という間違った判断に結びつく可能性も包含しており,実際化学物質の取扱者がその危険有害性を知らないために起こした事故例は数え切れないであろう.危険有害性に関する情報提供が無ければ,リスク評価/リスク管理も労働安全衛生マネジメントシステムもライフサイクルに応じた化学物質管理も絵に描いた餅である.

日本で化学物質の危険有害性に関する情報をラベルに記載することを求めている法律には「毒物および劇物取締法」,「消防法」等があり,これらが求めている情報は「医薬用外毒物」,「医薬用外劇物」,あるいは「水溶性」,「可燃物接触注意」,「禁水」,「火気・衝撃注意」,「可燃物接触注意」,「火気厳禁」,「火気注意」,「空気接触厳禁」等である.しかしこれらの対象範囲(危険有害性)は限定的であり,また,用語は各法律の専門家でなければ理解が難しいものとなっている.日本で唯一GHSを導入した法律として労働安全衛生法(第57条)があるが,GHSに基づいた分類および表示方法(ラベル,MSDS)が義務付けられているのは,ラベルでは104物質,MSDSでは640物質に限られている(平成18年12月施行).

一方,欧州では化学物質の危険有害性について分類しそれをラベルでわかりやすく知らせるシステムが1970年代には施行され,また米国では1980年代に労働者向けの危険有害性周知基準が制定されている.これらの規制の源になっているのは,供給する側の「知らせる義務」,使用する側の「知る権利」であり,それらは法によらなければ達成できないという認識である.

3.今後への期待

日本では個別の化学物質あるいは作業をリストアップし,それらを管理することで災害対策を行ってきた.いわゆる法規準拠型管理である.これはリストアップされていない化学物質による災害は予防がより困難になり,また災害の原因や責任が曖昧になる可能性も含んでいる.すなわち「危険有害性を知って行動し,災害を未然に防ぐ」という労働安全衛生における最も根本的な概念が法的に担保されていないのみならず,起こりうる災害に対して誰も責任を取ることができないシステムになっているといえる.無論,化学物質で災害が起きた場合,事業者の一般的な「安全配慮義務」は問われるであろうし,労働者は災害補償制度により救済されるが,これらは予防的な解決には結びつかない.

近年,厚生労働省から,「化学物質による災害の半数は未規制物質により起きている」,「危険有害性情報がラベル等により伝達されていれば防ぐことが出来たと考えられる災害事例が多い」との発表があった.これはこれまでの化学物質管理の方向を転換せざるを得ないことを認めたものといえるであろう.これらの事実を踏まえて,厚生労働省では化学物質をGHSに従って分類し,全ての危険有害な化学物質についてMSDSを添付させ,ラベルには危険有害性を記載させることを検討していると聞く.これが実現すれば,化学物質管理が法規準拠型から自主対応型へ転換することが可能になり,また危険有害性情報の伝達が国際基準になり貿易障壁を回避することにもなろう.

世界的な潮流の中で,人の健康と地球環境を守るために,行政,事業者,労働者,消費者の全てが化学品の危険有害性情報を共有し,行動できるような基盤整備に期待したい.

III. リスクに基づく化学物質管理の推進とその重点分野(半田)

1. 行政から見た課題

化学物質管理に限らず,安全関係,保安関係の法令は,実際の事故を教訓として,必要な規定を設けることから始まった.いわゆる「仕様基準」といわれるものである.その結果,厖大で複雑な法令体系を抱えることとなった英国は,ローベンス卿にあるべき法令の姿を諮った.そしてまとめられた報告に基づいて,1974年,新たな労働安全衛生法を制定した.その要は,「So far as is reasonably practicable」(合理的に実施可能な範囲で)という言葉に象徴される,「性能基準」であり,「自主管理」であった.

平成9年,安全衛生部計画課の課長補佐となった私に課せられた大きな仕事は,第9次労働災害防止計画策定であった.英国流をそのまま移植することは困難だろうが,その精神は鑑としたいと考えて,臨んだ.

平成21年7月,化学物質対策課長を拝命するに際して,ローベンス報告,9次防の精神を踏まえて,取り組んでいこうと決意した.早速,翌平成22年1月から,労使,専門家の皆さんに御参集を頂き,「職場における化学物質管理の今後のあり方」について,御検討頂いた.7月まで,前後8回にわたり御議論を頂いたが,この間,検討会以外でも,多くの有識者の皆さんから,有益な御示唆,御支援を頂戴した.こうして,7月に報告書がまとめられた.

この後,労働政策審議会安全衛生部会において,今後の労働安全衛生政策について議論され,12月22日に建議がまとめられた.

化学物質対策については,上の報告書に基づき,

イ 化学物質を危険有害性の観点から分類するための国連基準(GHS)に基づいて,危険有害性を有すると判断される,すべての化学物質について,GHS基準に基づく情報提供のルールを導入・普及すべきこと

ロ この情報提供のルールと対をなす重要な考え方として,「リスクに基づく」自主管理の推進を推進すること

が提言された.現在,こうした流れに沿って,検討が重ねられている.本章では,その状況を紹介させて頂く.

2. 化学物質規制の現状

職場で製造し,取り扱われている化学物質は,約6万あるといわれている.労働安全衛生法では,その危険・有害性の程度に応じて,①製造等を禁止する(8物質),②製造を許可に係らせる(7物質),③特別の管理を義務付ける(104物質),④譲渡提供時の危険有害性情報の伝達を義務付ける(ラベル104物質,MSDS 640物質)などの規制を講じている.

さらに,18年度からは,労働者が取り扱う化学物質の有害性と,作業に伴うばく露の可能性を考慮したリスク評価制度を導入し,リスクが高いと評価された化学物質の製造・取扱いについては,労働安全衛生法の特別則により規制してきている(図1).

図1.

職場における化学物質管理の現状(全体像).

3. 化学物質管理の今後のあり方について

「1. 行政から見た課題」に述べたような経緯を経て,現在,今後の化学物質管理のあり方が検討されているが,その概要は次のとおりである.

イ ラベル表示および化学物質安全データシート交付による危険有害性情報の伝達および活用の促進

「化学物質を合理的に管理する」ためには,まず,取り扱う化学物質の危険有害性を知らなくてはならない.その物質の情報を一番持っているのは,大本の製造者である.したがって,製造者が物質を譲渡するのに合わせて,危険有害性情報を通知するのが,最も合理的である.途中の加工業者は,川上から貰った情報に,自らの情報も付け加えて,さらに,川下に伝達する.こういう仕組みが必要である.

安衛法制定時から,一部の物質にはラベル表示が義務付けられており,さらに平成11年の安衛法改正で,MSDSが導入された.現在,同法第57条及び第57条の2により,譲渡提供時のラベル表示およびMSDS交付が義務付けられている.国連では,こうした考え方をさらに進めて,平成15年「GHS」を勧告した.そこでは,次のようなことが提言されている.

① すべての化学物質の危険有害性を,GHSに沿って分類すること

②その結果は,ラベルと文書(MSDS)で,伝達すること

このように,国際的には,すべての危険有害な化学物質について,ラベル表示およびMSDS交付を求める動きが強まってきている.このため,労働安全衛生法においても,「GHS分類を行った結果,危険有害性を有するとされる全ての化学物質」を対象として,ラベル表示およびMSDS交付を促進することとしている.

なお,経済産業省においても,化学物質管理法体系下で,同様の仕組みを導入することが検討されている.両法の仕組みの整合性を図ることは当然であるが,さらに経済産業省および関係業界と協力して,両法の仕組みを包摂する「危険有害性周知基準」をJISとして定めるべく,検討を進めている.このJISが定められた段階で,このJISを両法の共通基盤として位置付けることを予定している.すなわち,新JISに基づいて情報伝達を行った場合は,両法に基づく告示に従って情報伝達を行ったものと見なすこととするのである.こうすることによって,本来,勧奨基準に過ぎなかった新JISが,安衛法と化管法に基づく情報伝達の共通ルールとしての命を吹き込まれるという訳である.

安衛法,化管法の告示よりも,新JIS策定の作業が先行しており,平成23年9月現在,素案作成を終了している.今後,必要な手続を経て,24年度には新JISが公示される見込みである.

ロ 多様な発散抑制方法の導入(結果を求める規制へ)

さて,情報が伝えられた現場では,そうした情報を元に,自分達の職場におけるリスクを評価し,その結果に基づいた,合理的な管理に取り組む必要がある(図2).

図2.

リスクに基づく合理的な化学物質管理の促進.

 現行の安衛法体系における有害物の発散抑制措置としては,原則として発散源を密閉化する設備,局所排気装置およびプッシュプル型換気装置に限られている.しかし,リスクに基づく合理的な管理の促進という観点からは,作業の実態に応じたより柔軟な発散抑制方法を導入できる仕組みを導入すべく,検討を行っている.当面は,個々の事業場から申請して頂いて,個別に認めるという方向を考えている.その際の条件として,有害物の発散が抑制されていることの確認,定期的な点検等による維持管理およびこれらを実施するための管理体制の整備が重要な点であると考えられる.

この「転換」は,「1 行政から見た課題」で述べた仕様基準から性能基準へ向かう第一歩だと考えている.すなわち,「何をやったか」から「どういう結果を出したか」を問う規制に向かっていきたいと考えている.

4. 今後の行政課題

労働分野で使用される化学物質は6万物質を超え,毎年,1,200物質の新規化学物質が追加されている状況にある.これらの多くは,幅広い産業において重要な基礎資材として使用され,産業活動に不可欠である一方,その取扱いや管理の方法を誤ると,人の健康や環境に悪影響を及ぼしかねないものもある.

他方,我が国を取り巻く環境は,続く円高,東日本大震災後の電力不足など,実に厳しいものがある.安全のための規制も,行政責任を回避するために過剰な規制を行えば,それは我が国産業の衰退となって返ってくるかもしれない.働く人を守り,産業も守り立てる.今こそ,リスクに基づく,柔軟で合理的な化学物質管理を推進していきたいと考えている.

IV. サプライチェーンにおける化学物質情報の伝達(清水)

1.化学物質管理の動向

国際的な化学物質管理の取り組みについては,2002年に開催された「持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)」において「化学物質の生産や使用が人の健康や環境にもたらす著しい悪影響を2020年までに最小化する」という国際合意(WSSD目標)がなされ,化学物質の危険有害性に主眼を置いたハザードベース管理から,人や環境へのばく露を考慮に加えたリスクベース管理への移行が示されている.こういった動きはグローバルな流れとなっており,例えばEUのREACH規制においては,製品中の含有化学物質情報の提供,リスク評価結果の登録が求められ,日本では改正化審法で既存化学物質に対して段階的なリスク評価が実施されている.

2.産業界の自主的取り組み

国際化学物質管理会議(ICCM)では定期的にWSSD目標に向けての進捗を管理することになっている.第1回ICCM(2006年)で,ICCA(国際化学工業協会協議会:International Council of Chemical Associations)はGPS(Global Product Strategy)活動を公表し,推進しているところである.本活動はサプライチェーン全体を通じて化学物質のリスクを最小限にするために,自社の化学製品を対象にリスク評価を行い,リスクに基づいた適正な管理を実施するとともに,リスクに関する情報を安全性要約書の形で社会一般に公開する自主的取り組みである.GPSの周知活動として,初心者向けのガイダンスの発行や各地での普及のための教育活動等が行われている.ガイダンスは初版が2010年7月に発行,第2版が2011年9月に発行されている.また,教育活動については途上国を中心に年間10箇所以上で説明会が開催されている.

国内においては,一般社団法人日本化学工業協会(以下 日化協)がGPSの具体化の活動としてJIPS(Japan Initiative of Product Stewardship)を展開中である.

3.化学物質情報の伝達

化学物質のリスクは有害性とばく露量で評価される.有害性情報はGHS分類結果等の情報を有効に活用できるが,サプライチェーンにおけるばく露量の算出はかなりむずかしい.「化学物質がどのように取り扱われ,製品中に含有し消費されていくのか─川中・川下における用途情報─を如何に収集するか」という課題があると考えている.欧州においては,REACH規制の中で用途情報を確認することが義務となっているのに対して,日本では自主的対応であるのに加えて,複雑なサプライチェーンによる情報の途切れ,リスク評価に対する各立場での認識の相違も情報伝達が滞る一因となっている.

一方,RoHS規制のように製品中の含有化学物質の量を規制する動きも出てきており,サプライチェーンにおける含有化学物質の種類,量に関する情報を自主的に伝達することも必要となってきている.しかし,危険有害性および取り扱いに関する情報はラベルやMSDSで情報伝達が行われているが,含有化学物質情報については営業秘密情報が含まれる場合もあり,対応に慎重になっているケースが散見される.また,各企業独自の書式による調査により情報の流れが非常に煩雑化している実態がある.

ここではサプライチェーンにおける情報伝達のしくみの普及を進めているアーティクルマネジメント推進協議会(以下 JAMP;Joint Article Management Promotion-consortium)の取り組みを一例として紹介する.JAMPは成形品が含有する化学物質等の情報を適切に管理し,サプライチェーンの中で円滑に開示・伝達するための具体的なしくみを構築し,普及させることを目的として,2006年に設立された.各サプライチェーンに位置する川上企業,川中企業,川下企業が参加している(会員数396(2012年1月現在)).従来から,化学物質に関する情報伝達の手段として製品の構成物質や危険有害性,取り扱い情報を伝達するためにラベルやMSDSが利用されているが,製品が含有する化学物質情報を伝達するために,JAMPでは化学物質中の情報を伝達するMSDSplus(主に川上から川中への情報伝達用含有化学物質情報記述様式)と成形品中の情報を伝達するAIS(主に川中から川下への情報伝達用含有化学物質情報記述様式)の2つの書式を用いて,JAMP-IT(JAMPが提供する情報流通基盤)を通じて情報のやり取りをする仕組みを提唱し,運用している.書式を統一化することで円滑な伝達を促進することができ,企業秘密情報についてもJAMP-ITでのセキュリティ機能を活用することで対応できるしくみとなっている.

さらに,JAMPは化学物質のリスク管理(JIPS)を推進する日化協と連携し,サプライチェーン全体での化学物質のリスク評価・管理が適切に効率的に行われるための必要な情報伝達と共有のしくみを構築することを目的に,日化協とJAMPの会員メンバーで構成された協同プロジェクト(SCRUM: Project of Supply Chain Chemical Risk Management and Useful Mechanism Discussion)を2011年10月に立ち上げた.選定したモデル対象化学物質の実際の流通経路を調査することで情報伝達の課題等を抽出し,具体的な情報伝達システムの構築を検討していくこととなっている.

4.今後の化学物質管理に必要な情報

今後の化学物質管理においては,「製品の構成物質や危険有害性及び取り扱いに関する情報」(ラベル,MSDS),「含有化学物質・量に関する情報」(MSDSplus,AIS),「リスク評価結果に関する情報」(安全性要約書)のいずれもが不可欠であり,これらの情報をサプライチェーンにおいて円滑に情報伝達できるしくみを構築していくことが急務であると考えられる.

V. 作業現場における化学物質管理の推進者の立場から(橋本)

1. 有害性情報の作業現場への浸透と活用

全ての化学物質に対してGHS情報を含んだMSDSの提供と容器のラベル表示を推進させる方向性が国により示された.作業現場の管理者としては大いに歓迎したい.製造業A社において化学物質管理の指導者層複数者に尋ねたところ,(1)譲渡時のMSDS交付と容器へのラベル表示は管理上の基本要件であり全ての化学物質について行うべき,(2)全ての容器(小分け後の容器も含む)への物質名の表示は安全確保の上で非常に重要(注: 現時点では法的な義務付けはない),(3)GHS標章(絵標示)の容器への表示は労働者の注意喚起に特に有効ではないか,の各点に関して全員の意見が一致した.

現場の労働衛生管理に長く携わってきた立場で上記(1)を解釈すると,MSDSやラベルの記載内容は一定の教育を受けた場合でも労働者にとってはハードルがかなり高く,現場の労働者がこれらを実際に読むことはあまり多くないと思われる.しかし監督者・職長層であれば最初の作業手順の設定時や薬品の漏洩時などの必要時に何とかこれらを読み活用する機会が増えると予想され,その意味で,作業場の安全確保の底上げに資するであろう.いずれにしても,MSDSやラベルの表示内容,およびGHS標章や警句の読み方に関して相当の繰返し教育が求められる.

(2)と(3)の事項はより根源的で広範な意義を持つと思われる.特にGHS標章は労働者にとってのわかり易さが貴重であり,化学物質を「慎重に取扱う」に始まり,「適切な使用手順を定める」,「ドクロマークの物質について勉強会を持つ」などの対応,さらには「詳しくリスクアセスメントを行う」といった段階まで,化学物質管理の様々なレベルアップのきっかけになり,化学物質管理をボトムアップで現場から変える大きなインパクトに繋がり得ると考えられる.

2. 事業主を動かすもの

欧米では事業主が比較的自発的に化学物質管理を進めているようにも見受けられる.この点に関して米,英,豪の労働衛生専門家から,「そんなことは決してない.事業主にとり真に怖いものは,国による立入り査察,労働組合,および訴訟であり,事業主が法規定を守りリスクの評価と管理を進める根源の動機はそこにある」との見解を得ている.一方で,これら各国では国が化学物質のばく露限界値を定め,「労働者のばく露をばく露限界値以下にする」ことを法で規定している.これを達成する方法の詳細を国は定めておらず,事業主の責任に任せている.すなわち「性能基準」の法である.こういった仕組みの下で欧米の事業主は労働衛生に関する「自主管理」を半ば強いられ,その結果として労働衛生の技術,大学や大学院の教育制度,専門家制度,学会などが1970年頃から長い年月をかけて今日まで発展してきた.現在,これら専門家群や学会は国レベルでの労働衛生の重要な推進力となっている.

翻って日本では立入り査察の制度は一般になく,労働組合,および訴訟の事業主への圧力は(訴訟のリスクは近年高まりつつあるものの)強くない.また法律は概して詳細に定まった「仕様基準」であり,ややもすれば事業主は「最低限の法律さえ守ればよい」との認識に陥ることがある.こうした状況の中,化学物質の自主的リスクアセスメントが必要とされる現在において,何をもって事業主を動かすかは非常に難しい問題である.

まず,法律が性能基準を取り入れ,事業主の自主的取組みの余地を設けていく必要がある.リスクアセスメントを適切に行った者が報われるようなインセンティブ策(例えば局所排気装置の要件の柔軟化,図2)は正にこの方向に沿っている.次に「職場における化学物質管理の今後のあり方」の報告書に盛り込まれた,個人サンプラーによる測定の導入も有力な手掛かりと考えられる.本来,労働者のばく露を個人サンプラーで測定しその結果をばく露限界値以下とすることは,労働者の安全確保の基本である.個人サンプラーによる測定方法や結果の評価法について今後解決すべき多くの課題があるが,これらに関して新たな仕様基準を設けて縛りすぎることがないように望みたい.また,事業主への働きかけとして,化学物質の評価・管理情報の積極的かつ潤沢な提供も有効と思われる.例えば英国のコントロール・バンディングでは化学物質の作業現場別の詳細な管理方法を「管理ガイドシート」としてウェブサイト上で400種類以上も提供している.さらには,事業場の化学物質管理を統括できる十分な専門知識を持った人材の育成と,その法制度上の位置付けの明確化を含めた活用も課題である.これに関連して,労働衛生の技術や教育のさらなる充実,および作業現場での問題点の発掘や良好事例の提供に関して関連の学会の役割はさらに重要度を増すものと考えられる.

VI.結語 (名古屋・宮川)

化学物質に関する国際的な動きを背景に,国内でも化学物質管理のための新しいフレームワークを適切に構築することが求められている.本稿での議論を総括すれば,適切な危険有害性情報に基づいた合理的なリスク管理を自主的に実施する,という方向が見えてくるものの,危険有害性情報を川上から川下まで適切に伝達するシステムを構築し,当該情報を職場の安全衛生管理で適切に活用できるようにするには相当の困難もあり,時間がかかることも予想される.リスクに基づいた合理的な管理方法を具体的に決定するためには,これを支える専門家の育成も求められる.職場の化学物質管理に関わる科学的エビデンスを蓄積するとともに,それに基づいたより適切な管理の実現に向けて,産・官・学の協力が求められる.冒頭でふれた安衛則の改正(平成24年1月)は,化学物質管理の改善に向けた長い道のりの第一歩と考えられる.化学物質に起因する労働者の健康障害予防に,本稿での議論が参考となれば幸いである.

Acknowledgment

謝辞:本稿のもととなった産業衛生学会シンポジウムの企画者(独)労働安全衛生総合研究所の甲田茂樹氏に謝意を表します.

References
  • 1  厚生労働省.職場における化学物質管理の今後のあり方に関する検討会報告書.[Online]. 2010 [cited 2012 Feb 2]; Available from URL: http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000fkjc.html
  • 2  労働政策審議会安全衛生分科会.労働政策審議会建議「今後の職場における安全衛生対策について」別添報告.[Online]. 2010 [cited 2012 Feb 2]; Available from URL: http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000zafy.html
  • 3  シンポジウム7.職場における化学物質管理のあり方をめぐって─新しい視点に立った化学物質管理のフレームワーク.産衛誌 2011; 53s: 223-9.
  • 4   United Nations.GHS関係省庁連絡会議(訳)化学品の分類および表示に関する世界調和システム(GHS)改訂4版.東京:化学工業日報社,2011.
 
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