2014 年 94 巻 p. 29-54
東日本大震災を体験した後の社会において、我々は、リスク社会とどのように向き合わねばならないのか。個人化社会において、ますます社会から切り離されてゆく個人と、〝終焉〟しつつあると言われる「近代」社会は、どのような形で新たに接続され得るのか。そして社会学は、このような個人と社会の関係を、いかなる形で新たに構想すべきなのか。
社会学は、個人と社会という、二つの別個の存在をうまく調停しバランスを取ろうとしてきたが、今やリスク社会によって、個人も社会も、これまでとは異なったあり方を求められている。これまでの社会学の考え方に替わる、いかなる理論的観点が存在し得るのか。この点について検討することが、本稿の課題である。
本稿では、この問題を近代的な理論的シンボリズムの隘路として捉え、「シンボリックなもの」(結合と連帯を生む契機)と「ディアボリックなもの」(分離と個別化を生む契機)の対比において把握し、リスク社会においては、ディアボリックなものへの注目が求められることを示したい。
社会学においては、「シンボリックなもの」は結合と連帯を生む契機として、もっぱらプラスの意味で使用されている。だが、シンボリックな契機による結合と連帯は、今やリスク社会の到来と共に深刻な制度疲労を起こしつつあり、それとは反対の契機に道を譲らねばならぬ位相に来ているのではないか。