史学雑誌
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永嘉の乱の実像
田中 一輝
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2016 年 125 巻 2 号 p. 39-60

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抄録

従来、西晋末の永嘉の乱については、五胡十六国史・北魏前史の観点から研究が進められてきたが、五胡諸族の主体的な発言・行動に注目した研究が多く、当時彼らと戦っていた晋朝系勢力との角逐を踏まえ、彼らの行動を相対的に把握するという視点に乏しかった。本稿では、五胡と晋朝系勢力の相克の過程を、厳密な編年と史料批判により復元し、永嘉の乱の実像を解明することを目指した。
西晋と戦った劉淵・石勒らは、乱の初期においては晋朝系勢力に圧倒されており、とりわけ西晋の并州刺史劉琨は、南方の劉淵(漢)を終始圧迫し続けていた。劉淵は劉琨の圧力に押される形で南方への進出(遷都)を行わなければならなくなったが、それを継続すればいずれ西晋の首都洛陽にぶつかることが避けられなくなった際に、漢の皇帝を自称し、西晋打倒の姿勢を最終的に明確化し、洛陽に進攻した。しかし折から洛陽に帰還した東海王越に撃破され、劉淵は死去してしまい、西晋側はこれが契機となって劉琨―東海王越による対漢挟撃戦略がはからずも形成される。以後の漢はこの挟撃戦略の克服が課題となったが、このときより晋朝系勢力の東海王越からの離反などの動揺が続き、また東海王越の洛陽からの出鎮・死去など、洛陽からの戦力流出が続出したため、挟撃戦略は弱体化し、永嘉5年(311年)に漢の攻撃により、洛陽が陥落した。北方の劉琨も漢の攻撃により撃破され、挟撃戦略は破綻することとなった。
以上の経緯から、永嘉の乱は必ずしも劉淵ら胡族の主体的な戦略や、西晋に対する一貫した優位により進んだのではなく、自勢力内外の軍事的・政治的環境に左右された結果であったことが判明した。

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