史学雑誌
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官僚任用制度展開期における文部省
文部官僚と専門性
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2017 年 126 巻 1 号 p. 39-66

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抄録

本稿の目的は、1887年に制定された近代日本最初の官僚任用制度である試補及見習規則期における文部省の官僚任用と文部官僚に要求された専門性・専門知識について明らかにすることである。従来、文部省・文部官僚への言及は、主に教育史領域からなされてきたが、そこでは政策過程を解明することが主眼であり、文部省・文部官僚自体がいかなる組織・集団で、官僚制度の進展とどのように関連したのかといった視角は希薄であった。本稿では、多数の帝国大学法科出身者が各省へ入省する契機となった試補規則期に焦点を当て、文部省による官僚任用の実態を明らかにした。そのうえで、雑誌『教育時論』を用いることで、文部官僚が同時代的に要求された教育行政の専門性・専門知識に関する議論を浮き彫りにした。
 本稿の成果は以下の三点である。
(1)試補規則期の文部省の試補の採用は、多数を占める帝国大学法科出身者の任用は各省中最少であり、対照的に文科出身の試補全員を任用するという点で、各省の中でも独自の人事任用を行っていた。そして、省内多数を占めた省直轄学校長兼任者・経験者とともに、文科出身者は教育行政を担うに足る専門性・専門知識を持っていると考えられていた。
(2)文科出身者とは異なり、井上毅文相期の省幹部が「法律的頭脳」と批判されたように、法科出身者は教育行政官としての資質において批判を受ける可能性を持った。根底には、教育とは「一科の専門」であり、法学領域の能力とは別のものであるという見解があった。
(3)「法律的頭脳」と批判された木場貞長は、「行政」を主として教育行政を考える自身を「異分子」と認識した。そして、木場は文部省直轄の学校長などから学校の実情を理解しないと批判されに至った。木場のような思考を持つ文部官僚が主流となるのは、文官高等試験を経て、内務省の官僚が文部省へ異動し、局長などの省内幹部を占める明治末期まで待たなければならなかった。

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