史学雑誌
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トラウトマン工作における蔣介石の対日・対ソ戦略
「防共」をめぐる矛盾を手がかりとして
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2017 年 126 巻 10 号 p. 63-81

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抄録

本論は、トラウトマン工作をめぐる国際関係を主題とする。同工作の失敗について多くの先行研究は、有利な戦局に乗じた日本が3度目に提起した条件が過酷であったために、中国側の拒絶を招いたと結論づけている。中国側史料によっても、蔣介石がこれに妥協しない態度を取ったことは確認できる。しかし、条件提示はそれ以前にもなされており、なぜ蔣が拒否を繰り返したかという点には、なお議論の余地がある。本論が注目するのは2回目の条件提示において、蒋介石が共同防共要求について矛盾した行動を取った事実である。本論ではこの問題に関し、中ソ不可侵条約交渉の経緯、同工作における防共の位置づけから、その理由を検討する。
盧溝橋事件以後、中ソ間では条約締結が喫緊の課題となったが、ソ連は中国が早期に日本と講和し、共同防共に合意する可能性を予見していた。このため、「中国は共同防共を締結せず」との秘密声明に合意することで、中国はこの可能性を打ち消した。
トラウトマンより2回目の条件提示のあった1937年12月2日、蔣介石は共同防共要求には反論しなかったが、ソ連へは不可侵条約の存在を理由として、「共同防共について議論しない」という矛盾した情報を伝えた。この時、蔣がスターリンに参戦を要請していた事実と併せれば、蔣は日本側には交渉の可能性を残す一方で、ソ連側には条約の遵守という態度を見せることで、関係を維持しようとしたと考えられる。
ソ連が参戦を否定した後でも、蔣はなおソ連に最後の期待をかけていた。3度目の条件提示後、12月28日、拒絶を決定すると同時に、オレルスキー・ソ連大使と会見して、抗戦継続のための援助を要請している。
総じて、蔣介石は中ソ不可侵条約に基づいたソ連からの支援に期待しており、対日・対ソと態度を使い分けることで抗戦を有利に導こうとしたと考えられる。

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