史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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126 巻, 10 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2017 年 126 巻 10 号 p. Cover1-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 2017 年 126 巻 10 号 p. Cover2-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 杉森 玲子
    2017 年 126 巻 10 号 p. 1-39
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    幕府が開かれ、大規模な造成工事を経て近世最大の城下町となった江戸では、初期に町割が行われた町方中心部に、公儀に対して国役を担う町々が見出される。国役には、技術労働等のほかに刑罰、特に死刑を意味した御仕置に関わる資材を差し出すものも含まれていたが、その内容や役を負担した町のあり方については明らかにされていない。町方の社会や空間の編成と深く関わる国役の重要性と、社会の秩序を維持し権力を行使するための刑罰の役割を考えれば、役の具体相および役と町の関係についての検討は、刑罰を支える枠組みを総体としてとらえ、政権の所在していた江戸の町方社会の特質をみるうえでも有効である。
    そこで本稿では、御仕置者のある際に役を担う本材木町と炭町を主な対象として町の構造や商人の動向を検討し、①享保初年の江戸では、この両町を含む町方中心部の特定の町々が御仕置の主要な資材等を役として差し出しており、両町には江戸城の修復や造営に関わる御用を勤めた商人が存在したこと、②町の構造の変化や御仕置の増加等を契機に、享保期以降、負担の見直しや役に関わる実務の代替が行われたこと、③本材木町の場合、商人が勤めていた御用を町で役として負担するようになり、その枠組みは明治初年まで維持されたこと、④御仕置用の竹木等を町で役として負担していた点に江戸の特質があること、を明らかにした。
    職人町や伝馬町と同様、商人町は幕府の御用に応える渡世筋の延長上で御仕置に関わる役を担っていたが、町の構造の変化に伴い、本材木町では負担の増大を避けつつ役を維持するため、その実務に非人との複合関係を組み込んでいった。同時期に役負担が見直された京都では御仕置の主要な資材を商職人の集団が担っていることをふまえると、役や身分制という近世的な原理のもとで、諸集団の複合するそれぞれの社会の展開に即して御仕置の枠組みが支えられていたと考えられる。
  • 災害対策と地域開発
    井上 敬介
    2017 年 126 巻 10 号 p. 40-62
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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    本論の目的は災害対策を中心に、斎藤実内閣期における立憲政友会及び立憲民政党の北海道支部と北海道庁の動向を検討することである。
    一九三二年の災害を機に、政民両党の北海道支部は対立から提携に転換し、「凶作水害善後策道民大会」を共催した。同会の宣言は、北海道第二期拓殖計画の問題と災害対策とを結びつけた。二大政党の対立に翻弄されてきた第二期拓計問題は、政民両党の北海道支部によって超党派問題として再確認された。道民大会実行委員は政民両党の北海道支部の関係者で構成された。道民大会実行委員は、道庁と協力して北海道の復旧対策に奔走した。超党派の道会議員は被災地を視察し、北海道選出代議士は政民両党の本部に復旧対策を訴えた。道民大会実行委員の最大の成果は、後藤文夫農相の北海道視察を実現させたことだった。後藤農相は災害状況を斎藤内閣に伝達し、食糧配給や多大な義捐金をもたらした。
    北海道の復興対策は復旧対策と異なり、順調に進展しなかった。北海道選出代議士と道庁は凶作対策として、一億円の融資を高橋是清蔵相に要求した。道会と道庁は水害対策として、治水計画を第二期拓計から切り離そうとした。だが、高橋蔵相は前者を北海道更生資金(一〇〇〇万円)に置換し、後者も容認しなかった。これ以後、政民両党の北海道支部は、長期的な北海道開発構想を提示するようになった。一九三三年五月、政民両党の北海道支部は、第二期拓計の改訂を「第二次北海道更生道民大会」の「三大決議」として掲げた。道民大会実行委員による「拓殖計画改訂綱領」は、一九三五年の第二期拓計改訂運動の指針となる先駆的な北海道開発構想であった。
    本論は、これまでの日本近代史研究で着目されてこなかった斎藤内閣期における地方政治の一側面を明らかにした。
  • 「防共」をめぐる矛盾を手がかりとして
    2017 年 126 巻 10 号 p. 63-81
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    本論は、トラウトマン工作をめぐる国際関係を主題とする。同工作の失敗について多くの先行研究は、有利な戦局に乗じた日本が3度目に提起した条件が過酷であったために、中国側の拒絶を招いたと結論づけている。中国側史料によっても、蔣介石がこれに妥協しない態度を取ったことは確認できる。しかし、条件提示はそれ以前にもなされており、なぜ蔣が拒否を繰り返したかという点には、なお議論の余地がある。本論が注目するのは2回目の条件提示において、蒋介石が共同防共要求について矛盾した行動を取った事実である。本論ではこの問題に関し、中ソ不可侵条約交渉の経緯、同工作における防共の位置づけから、その理由を検討する。
    盧溝橋事件以後、中ソ間では条約締結が喫緊の課題となったが、ソ連は中国が早期に日本と講和し、共同防共に合意する可能性を予見していた。このため、「中国は共同防共を締結せず」との秘密声明に合意することで、中国はこの可能性を打ち消した。
    トラウトマンより2回目の条件提示のあった1937年12月2日、蔣介石は共同防共要求には反論しなかったが、ソ連へは不可侵条約の存在を理由として、「共同防共について議論しない」という矛盾した情報を伝えた。この時、蔣がスターリンに参戦を要請していた事実と併せれば、蔣は日本側には交渉の可能性を残す一方で、ソ連側には条約の遵守という態度を見せることで、関係を維持しようとしたと考えられる。
    ソ連が参戦を否定した後でも、蔣はなおソ連に最後の期待をかけていた。3度目の条件提示後、12月28日、拒絶を決定すると同時に、オレルスキー・ソ連大使と会見して、抗戦継続のための援助を要請している。
    総じて、蔣介石は中ソ不可侵条約に基づいたソ連からの支援に期待しており、対日・対ソと態度を使い分けることで抗戦を有利に導こうとしたと考えられる。
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