史学雑誌
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近世イタリア都市工業と啓蒙改革
一八世紀トスカーナにおける絹織物工業保護
大西 克典
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2017 年 126 巻 8 号 p. 1-29

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抄録

イタリア諸都市の工業は近世を通じて衰退し、イタリアは農業中心の社会へと変容したのだと長らく考えられてきた。18 世紀後半にイタリア各国で行われた啓蒙改革は、このような近世イタリア社会の根本的な変化に対応し、フランス啓蒙、特に重農主義を理論的根拠として、農村、特に農業生産を担って実質的に社会を支える土地所有者層を中心にした社会制度への移行を目指した試みとされてきた。ピエトロ・レオポルド (在位 1765-1790)治下で行われたトスカーナ大公国の改革は、こうした啓蒙改革の典型例のひとつとされてきた。
だが、トスカーナ啓蒙改革理解の中で不可解とされてきたのが、1780年代後半から見られる絹織物工業保護論とそれ を受けた保護制度の再開である。1781 年の関税改革で一旦は解禁された生糸輸出は、そのわずか7年後の1788年には再び全面禁止され、結局フランス革命の余波で大公国が崩壊するまで維持されることになる。
この政策は、これまで自由主義改革の部分修正ないしは、一時的な逸脱と考えられてきたが、近年のいくつかの研究成果を考慮すれば、絹織物工業保護を目指した層は、重農主義とは全く異なる理論のもと、別の社会経済の発展の方向性を模索していた可能性が高い。
したがって、本稿では、絹織物工業保護を主張していた人々が、いかなる理論を背景にして、何を目指していたのかを再検討した。
最初に 18 世紀後半におけるフィレンツェ絹織物工業について概観した後、1770 年代から 1780 年代にかけての絹織物を取り巻く制度の変遷とそれに関する議論を見た。最後に、生糸輸出禁止を主張した中心人物であるジャンニの覚書を参照することで、その経済思想や彼が目指したものを分析した。
その結果、保護政策により当時堅調だった都市フィレンツェの絹織物工業を振興することで、絹織物という工業製品の輸出に立脚した経済発展の道を目指していたことが明らかになった。

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