史学雑誌
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126 巻, 8 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2017 年 126 巻 8 号 p. Cover1-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 2017 年 126 巻 8 号 p. Cover2-
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
  • 一八世紀トスカーナにおける絹織物工業保護
    大西 克典
    2017 年 126 巻 8 号 p. 1-29
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    イタリア諸都市の工業は近世を通じて衰退し、イタリアは農業中心の社会へと変容したのだと長らく考えられてきた。18 世紀後半にイタリア各国で行われた啓蒙改革は、このような近世イタリア社会の根本的な変化に対応し、フランス啓蒙、特に重農主義を理論的根拠として、農村、特に農業生産を担って実質的に社会を支える土地所有者層を中心にした社会制度への移行を目指した試みとされてきた。ピエトロ・レオポルド (在位 1765-1790)治下で行われたトスカーナ大公国の改革は、こうした啓蒙改革の典型例のひとつとされてきた。
    だが、トスカーナ啓蒙改革理解の中で不可解とされてきたのが、1780年代後半から見られる絹織物工業保護論とそれ を受けた保護制度の再開である。1781 年の関税改革で一旦は解禁された生糸輸出は、そのわずか7年後の1788年には再び全面禁止され、結局フランス革命の余波で大公国が崩壊するまで維持されることになる。
    この政策は、これまで自由主義改革の部分修正ないしは、一時的な逸脱と考えられてきたが、近年のいくつかの研究成果を考慮すれば、絹織物工業保護を目指した層は、重農主義とは全く異なる理論のもと、別の社会経済の発展の方向性を模索していた可能性が高い。
    したがって、本稿では、絹織物工業保護を主張していた人々が、いかなる理論を背景にして、何を目指していたのかを再検討した。
    最初に 18 世紀後半におけるフィレンツェ絹織物工業について概観した後、1770 年代から 1780 年代にかけての絹織物を取り巻く制度の変遷とそれに関する議論を見た。最後に、生糸輸出禁止を主張した中心人物であるジャンニの覚書を参照することで、その経済思想や彼が目指したものを分析した。
    その結果、保護政策により当時堅調だった都市フィレンツェの絹織物工業を振興することで、絹織物という工業製品の輸出に立脚した経済発展の道を目指していたことが明らかになった。
  • 成尋“密航”説への疑問
    篠崎 敦史
    2017 年 126 巻 8 号 p. 30-53
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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    古代日本では渡海制と呼ばれる海外渡航制限がしかれ、出国には天皇の勅許が必要であった。ところが延久四年(一〇七二)に宋に渡った成尋については、彼と密接な関係にあった権門貴顕がその出国を忌避したため、やむなく〝密航〟したとされてきた。しかしこのような見解は十分な論証を経たものではなく、さらに成尋の出国を望まない貴族たちが一方では彼を支援していたとするなど、問題点が多い。
    成尋出国の背景となる渡海制であるが、従来、これは天皇のあずかり知らぬ出国を禁止するものとされてきた。しかし、実際の事例をみると、大部分は密出国そのものには成功している。一方、密出国者が帰国した際は、官司先買権に関わる入国検査があり、これをすり抜けることは難しい環境にあった。そのため、渡海制下の出入国の実態は、密航はある程度可能だが、朝廷に把握されずに帰国するのは難しい環境であったと考えられる。
    次に成尋の〝密航〟説であるが、渡海制下、彼と類似の行動をとり、問題とならなかった例がない。そのため、彼を〝密航〟とみると、かなり特異な事例となってしまう。さらに、従来、成尋〝密航〟の根拠とされているのは、①『参天台五臺山記』、②『成尋阿闍梨母集』、③『続本朝往生伝』の三つであるが、詳細にみると、③は史実に反する内容があり、信憑性に乏しい。また②は成尋が「宣旨が出れば宋に渡る」と発言したとしており、実際に彼はその後出国している。そのためこれは〝密航〟の根拠とはなり得ず、むしろ逆に、彼に出国許可が出たことを示唆する史料として扱わなければならない。①についても〝密航〟と断定できるような記述ではない。このように、従来の通説である成尋〝密航〟説は実は史料的根拠に乏しい。先に述べた渡海制との関係性や彼に出国許可が出たことを示唆する史料などもふまえるならば、成尋は渡海制下、正規に出国した人物である可能性が高いと結論づけられる。
  • その問題点と市町村合併史上の意味
    クラーマー スベン
    2017 年 126 巻 8 号 p. 54-76
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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    1953年10月から実施された「昭和の大合併」は日本の第2次大規模市町村合併政策である。それは各都道府県の市町村を対象にし、市町村の数を3分の1に減らすという目標で実施された。主な目的は戦後の地方行政団体(兼自治体)の財政危機の解決だとされている。この「昭和の大合併」において以前には存在していなかった新しい市が数多く誕生した。その中では奈良県天理市が注目すべき事例である。
    天理市は1954年4月1日に発足した。その前身町村は山辺郡丹波市町、同郡二階堂村、同郡朝和村、同郡福住村、磯城郡柳本町、添上郡櫟本町である。「天理」という市名の由来は新宗教団体の天理教である。天理教は1838年に発祥し、その本部は教祖中山みきの故郷である丹波市町の三島地区にある。天理教は19世紀末から丹波市町の発展に貢献し、天理教の巡礼などが町の経済発展を支えてきた。「昭和の大合併」の際、新市を天理教にちなもうとしたのである。
    『改訂天理市史』は天理市を誕生させた合併について詳しく説明せず、問題点がなかったかのように協議の要点と市の発足だけ述べている。しかし、現地の行政資料と新聞記事を確認すると、天理市の発足を危うくするほどの問題点があったことが分かる。具体的には二階堂村と櫟本町が一時的に天理市合併に参加しない方針を示し、さらに「天理市」という名称を採用するために天理教の許可が必要であったが、合併協議会の議論でこの許可が下りるかについては、確実ではなかった。本論は以上の問題点とその解決を説明した上、天理教の役割について検討し、「昭和の大合併」中の天理市合併の意味について考察する。先行研究において宗教は合併に対して大きな要因として扱われていないが、天理市の事例が示すよう、場合によって宗教が重要な役割を果たせる。
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