史学雑誌
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明治前期の府県庁「会議」
行政における「公論」の展開
袁 甲幸
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2020 年 129 巻 2 号 p. 37-72

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抄録

本稿は、明治前期に広く展開されていた府県庁「会議」(各部課署係の正副長ないし一般属官を構成員とし、議会的な議事規則を用いて府県内の重要事案を審査する諮問機関)を対象に、府県行政における意思形成過程の一端を解明することを通じて、近代国家形成期における「公論」の変容過程を考察したものである。
廃藩置県後、府県庁内の官吏と区戸長・公選議員とが交わる「官民共議」的な地方民会が一時に現れたが、公選民会の発達により官吏は徐々に除外された。しかし官側にも、意見集約の場と、対等な議論による意見形成の経路が求められていたため、明治ゼロ年代末から明治十年代初頭にかけて、多くの府県で「会議」が創出された。「会議」の誕生経緯、規則、および議事録からは、「会議」が府県行政、特に議会の議案審査など対議会事務において大きな役割を果たしていたことが指摘できる。府県会が成立したにもかかわらず、議会式な意思形成経路が行政内部に存続しつづけた理由は以下の二点が挙げられる。一つ目は、官僚制内部の階級差や専門性の分化がまだ希薄だったため、行政内部においても対等な議論および議論による意見集約が比較的に達成しやすかったということ、二つ目は、「会議」を構成する属官層が、その出自・教育背景に由来する「公論」観、すなわち「公論」とは「賢明」で「公平無私」な人物の「衆議」によって形成されるものだという認識に基づき、地域利害を反映する議会と異なる役割を自覚していたことである。その後、地方官官制の整備につれ「会議」は上層部のみの部局長協議会へと収斂されていったが、議会制の危機あるいは新たな課題に応じ、「会議」が再び姿を見せることも屢々あった。
このように明治前期においては、行政における「公論」が、「民」側の民会・府県会と、「官」側の府県属官層によって支えられていた「会議」と、すなわち「官」「民」双方の「衆議」で棲み分ける形により、異なる側面の「至当性」を確保しようとしていたと捉えることができるのである。

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