抄録
本稿の目的は、明治八年に各産地の蚕種製造組合(以下、組合)の全国的な組織として東京に設立された蚕種製造組合会議局(以下、会議局)が、蚕種の粗製濫造に対応するために行った活動に関して検討することである。そのことを通じて、近代日本における全国的な同業者組織の展開の中に会議局を位置づけたい。
明治一〇年前後に日本の蚕種は品質にばらつきがあり、イタリア・フランス製品との競合で粗悪な製品の需要は減少に向かっていた。そうした状況で、会議局は規則の制定を通じて、会議局と組合が協力して国内向け、輸出向け蚕種のそれぞれについて、流通を調節する体制を構築した。特に、輸出向け蚕種に関しては横浜などで「検査」が実施されていた。
一方、日本の蚕種業には、輸出先で売れ残りが発生するなど過剰な製造が行われているという問題もあった。この問題に関しては、会議局が明治八、九年に製造量を調節することで対応した。しかし、産地間の品質の格差に関連して、会議局では蚕種の製造量を制限するか否かで意見の対立があり、会議局は明治一〇年には製造量の調節に失敗し、一部の蚕種を処分して流通量を調節した。明治一〇年末から主要産地の第二課(勧業課)間で蚕種業に関して協調する動きが見られたが、会議局の内部対立は解消されず、一一年に組合・会議局は廃止されることになった。なお、内務省は組合・会議局を通じて製造量の抑制に努めたものの、会議局の活動への干渉には消極的であった。
以上のように、明治一〇年前後に蚕種製造業者を中心とする全国的な同業者組織である会議局は、内務省による積極的な梃入れがない中で、各産地をまとめて不完全ながらも粗製濫造への対応に取り組んだ。こうした活動を展開した会議局は、後年の同業組合連合会などに先立ち、輸出品の粗製濫造に立ち向かった近代日本における全国的な同業者組織の起源として位置づけられる。