史学雑誌
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日清・日露戦間期の官民造修船業における修理船の事業構造
外国船の修理を手掛かりに
賀 申杰
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2024 年 133 巻 3 号 p. 41-69

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抄録
日清戦争後、日本の官民造修船業は飛躍的な発展を遂げた。とくに東京湾内では民間船渠が続々と開業し、同地域における修理船市場は大きな構造的転換を遂げた。この転換についてこれまでの多くの研究は三二年に発布された部外船修理の停止に関する海軍省告示に注目し、以下の通り指摘している。すなわち、同告示が発布された後、船舶修理工事をめぐり、海軍造船廠と民間企業の間に、前者が海軍部内の工事のみに専念し、後者が海軍から排出された部外工事に従事する、という分担体制が形成した。
以上の指摘に対し、本稿は東京湾内の官民造修船業に注目し、外国船の修理問題を手掛かりにして海軍内外の修理船需要をめぐる海軍造船廠と民間船渠の間の事業構造を解明することで、その関係について先行研究とは異なる事実を指摘する。
まず、日清・日露戦間期、船舶修理をめぐって、この時期、海軍造船廠は依然として部外船の修理工事に従事し、その同時に大量の部内艦船の修理工事を民間造修船企業に排出していた。
また、三二年告示の効力は実際には海軍全体に及ばず、その影響は限定的であったと言えよう。そして日清戦争後、海軍が従事した部外船の修理工事はたしかに減少したが、その原因に関しては民間造修船企業の発達という外部要因の他、部内工事の圧力といった内部要因も無視できない。
また、この時期、東京湾内に新設された民間船渠のうち、浦賀船渠は国内外の軍需に力点を置き、それとは対照的に恵まれた立地条件を持つ横浜船渠は国内外の民需に専念した。前者は海軍からの委託工事を通して艦船の修理技術と経験を蓄積し、海軍造船廠と外国海軍艦船修理をめぐる分担体制を形成した。一方、後者では、国内民間船の修理の面では海軍造船廠への補助的な役割を果たした同時、外国民間船の修理を誘致しようとしたが、結局日露戦争まで安定的な外需市場を形成することはできなかった。
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