宗教哲学研究
Online ISSN : 2424-1865
Print ISSN : 0289-7105
ISSN-L : 0289-7105
論文
カントにおける「べきだからできる」ことの宗教的意義
――エディット・シュタインとの対峙を基点として
森 良太
著者情報
キーワード: 恩寵, 実践, 実在性,
ジャーナル フリー HTML

2025 年 42 巻 p. 79-92

詳細
Translated Abstract

This paper examines Kant’s thesis, “I can do it because I ought to,” by analyzing his confrontation with the Carmelite philosopher Edith Stein. Stein criticizes Kant’s thesis in “Critique of Practical Reason” in her main work “Finite and Eternal Being.” Unlike Kant, who justifies the connection between “should” and “can” based on moral principles, Stein locates the grounds for this connection in the Christian faith. The former demonstrates the cognitive capacity to understand necessary actions, whereas the latter emphasizes the belief in the realization of miracles based on God’s grace. However, Kant reiterated the thesis in his subsequent work titled “Religion within the Boundaries of Mere Reason.” Thus, both philosophers should have been allowed to engage in a second confrontation. In his later years, Kant particularly emphasized that the “can” in the thesis is not merely a presumed cognition but rather embodies the reality of the power of practice. Concerning this matter, he should have been able to identify a specific resemblance to Stein. According to Stein, power originates from a life force of the divine entity, whereas Kant believes that the subject who exercises power is not God but humans. This paper delineates the confrontation between the two philosophers as such.

Notes

(1) 例えば古典的なカント研究であるPaton, H.J., The Categorical Imperative: A Study in Kant‘s Moral Philosophy, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1971, p.220も、当該テーゼの趣旨を「理性の事実」の意識(認識)として義務(べき)が自由(できる)を含意することと解する。但し認識された自由の実現性については問題にしていない。

Notes

(2) 「ローマの信徒への手紙」六章二三節を参照。

Notes

(3) Rechtfertigungの原義は「正当化」であるが、キリスト教の文脈からは「義認」と訳される。そのカント哲学上の含意については、拙論「カントと「義認」の問題――キリスト教との「和解」を求めて」『宗教哲学研究』第三八号、二〇二一年、六一―七三頁を参照。

Notes

(4) Betschart, Christof, Christliche Philosophie nach Edith Stein - Aufgezeigt am Ort und Sinn der Trinitätstheologie in "Endliches und ewiges Sein", Freiburg: Karmelitenkloster, 2004, S.68も、シュタインにおける永遠存在(神の三位格)は、自らを原型として、その性質を類比的に有限存在(人間)に呈示するという解釈を示す。

Notes

(5) Sharkey, Sarah Borden, Edith Stein's Finite and Eternal Being: A Companion, Lanham: Lexington Books, 2023, p.187も、「神の言葉」への応答の契機を強調する。

Notes

(6) 『三位一体論』第十五巻第七章では、三位格の父が自己と子と聖霊の記憶であり、子が自己と父と聖霊の知解であり、聖霊が自己と父と子の愛であるといわれる(アウグスティヌス(中沢宣夫訳)『三位一体論』東京大学出版会、一九七五年、四三六頁)。また同書第十四巻第三章ではその神の三一性のあり方について、記憶によって保持し、思惟(知性)によって見、意志によって愛するといわれる(前掲書、三八九頁)。これをシュタインは、「記憶の原型は父に由来し〔……〕生み出された認識は子と同一視され、聖精神(聖霊)は愛の位格(ペルソナ)と称される」と主著の内で述べ直している(Stein, 294)。

Notes

(7) アウグスティヌスを参照するシュタインの意図は、神が原型として内在する人間の愛の働きの根拠を、特に父(記憶)から発出する三位格との類比性から補強することにある。

Notes

(8) Husserl, Edmund, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologishen Philosophie, Hamburg: Felix Meiner Verlag GmbH, 1992, S.77(フッサール(渡辺二郎訳)『イデーンI–I』みすず書房、一九七九年、一六九頁)は、体験流を複数の想起を「連続的に媒介する」ものとみなし、またその統一を「体験そのものの固有な単独の本質によって純粋に規定される統一」として説明する。ここでシュタインが当該概念に依拠する狙いは、人間体験において想起的に表象される神的三位格の愛の働きを、意識の志向性の「流れ」として明瞭化することである。但しこれはフッサールにはみられない論点である。

Notes

(9) フッサールは、体験流における純粋自我は、コギトの絶えざる変動に左右されない、「ひとつの原理的に必然的なもの」とする( a. a. O., S.123, 前掲書、二四四頁)。これに反しシュタインは、「全体験流」自体を「流れる生命(ein fließendes Leben)」としての「自我生命」そのものと捉える(Stein, 44)。そして彼女は「自我生命」の「流れ」において人間が永遠存在(神の三位格)と出逢う可能性を認め、これを「信仰の道」と呼ぶ(Stein, 50)。

Notes

(10) 『神学大全』第一部第九三問第七項では、神の三位一体の像が看取されるのは、愛へと向かう現実的活動においてであり、またその根源は能力態にあるという。そしてトマスは記憶については、認識と愛の能力態的な保持として定義している(トマス・アクィナス(山田晶訳)『神学大全第七冊』創文社、一九六五年、七四―七七頁)。

Notes

(11) カントにおける「恩寵」概念に関しては、最近の研究にあっても賛否が分かれる。Insole, Christopher J., Kant and the Divine: From Contemplation to the Moral Law, Oxford: Oxford University Press, 2020, p.298は、カントには原罪の概念が適合しない為、その理性哲学の体系には「恩寵」概念は不要であるという、思い切った解釈を示す。だがこれは人間を理性的かつ感性的な二重存在者と見做すカントの意向に沿うものであろうか。他方ではWood, Allen W., Kant and Religion, Cambridge: Cambridge University Press, 2020, p.160のように、カントには道徳的奇跡を起こす為の「恩寵」概念が欠かせないとする研究もある。但しかかる立場をとる場合にも、「恩寵」概念と(それだけには依拠しない)人間の自律性との関係性が明示されねばなるまい。本稿は「恩寵」を、人間から自律の力を引き出す実在的契機として位置付け、こうした課題の解決を試みるものである。

 
© 宗教哲学会
feedback
Top