今日,通説として近世に関東流,紀州流なる河川工法があったといわれている。関東流は,近世初期,関東郡代をついだ伊奈家によって行われたもので,治水面では堤防は小さくて越流・氾濫させる,水利面では湖沼を水源として用水と排水とは分離させない。一方,紀州流とは近世中期に井澤弥惣兵衛為永によって始められたもので,堤防は高くし氾濫させない,用水は遠方から導水し用水と排水は分離させるとするものである。
たしかに,近世において関東流,紀州流の用語が識者により,また現場でも使用されていた。だが,その内容は堤防・圦樋の形状など技術の細部についてであって,工法全体のことではない。しかし,関東流,紀州流の用語こそ使用していないが,真壁用秀によって近世中期に新たな工法が始められたことが主張された。その背景として,河川管理の制度が享保年間に大きな転換をみていた。
関東流,紀州流の通説は,近代になって創られていった。まず明治時代,吉田東伍によって治水面からの通説がほぼ唱えられた。それを受け戦後になって菊地利夫により,利根川東遷事業とも関連させて治水面の通説が明確に確立された。また水利面についての通説も菊地によって確立された。これらの通説が妥当かどうか,伊奈家そして井澤が活躍した埼玉平野でみるならば,そのような評価は困難である。