抄録
水俣病の病理において未解決となっている病理学上の主要問題は以下の2つであると思われる。第一は,大脳組織の病変部位の局在性である。成人における大脳組織の傷害は,大脳皮質の中心溝,外側溝および視覚野が存在する後頭葉の鳥距溝など深い脳溝周辺の組織に限局しており,傷害部位に依存して感覚障害,聴力障害,視野狭窄など特徴的な神経症状が観察される。このメチル水銀による部位特異的な大脳傷害の発生のメカニズムとしては衛藤らにより提唱された「浮腫仮説」が有力である。この仮説においては,大脳におけるメチル水銀の毒性発現の特異性は,初期病変として脳溝深部に形成された浮腫により招来された組織の循環障害により,メチル水銀による神経細胞の傷害が増長された結果であると説明される。第二は,小脳において,小脳性運動失調の原因となる顆粒細胞層の特異的傷害が発生するメカニズムである。小脳においてもメチル水銀中毒初期に大脳と同じく浮腫形成が認められるが,顆粒細胞層特異的な病変形成を「浮腫仮説」で十分に説明することは難しい。我々は炎症性細胞が顆粒細胞層に浸潤し,メチル水銀に刺激されて顆粒細胞に対して毒性を発現するという「炎症仮説」を提唱している。我々は血管毒性の立場から「浮腫仮説」および「炎症仮説」の分子的基盤を研究してきた。その結果,この2つの仮説には確かに分子的基盤が存在することが分かってきた。すなわち,メチル水銀は,脳微小血管内皮細胞,周皮細胞,マクロファージ,細胞傷害性T-リンパ球などに作用して「浮腫仮説」および「炎症仮説」を構成する機能異常を惹起するが,それを介在する細胞内シグナリングにおいてPTP1BおよびKeap1がメチル水銀のセンサータンパク質として重要な役割を果たしていることを示唆する結果を得た。本シンポジウムでは,その詳細を提示し,議論する。