抄録
近年の科学技術の発展は、私たちの生活を豊かなものにした一方で、多くの化学物質を産出し、それらの生体に対する有害作用が時として社会問題をひき起こしていることも否めない。高齢化社会の進展に伴い、生活習慣病の罹患者数が急増しているが、加齢に伴う生体防御の衰えがこうした病態の基盤をなしていることも理解され始めている。すなわち、環境中の毒性化学物質や私たちの体に内在するストレスの処理能力の維持が、私たちの生存と健康保持に極めて重要である。これらのストレスへの応答のためにも、生体防御機能の深い理解が必須である。
赤血球分化や機能発現制御過程の解明に取り組む過程で、転写因子NF-E2の分子実態がp45と小Maf(sMaf)因子の形成する2量体であることに気がついた。この発見は、CNC因子群とsMaf因子群の2量体からなる転写因子群が存在することを明らかにしたパラダイムシフトであった。ところで、毒性学の分野において、以前から化学物質(特に、親電子性毒物)による発がんが抗酸化剤の前投与により抑制できること(化学発がん予防)、また、本事象は第2相解毒酵素群の誘導発現を基盤としていることが知られていた。第2相解毒酵素の遺伝子群には、共通して抗酸化剤応答配列(ARE)と呼ばれる制御配列が存在していることから、AREにある種の転写因子が結合して遺伝子発現が誘導され、化学発がん予防が惹起されるものと予想されたが、実際にはその実態解明はたいへん難航した。
私たちは、ARE結合転写因子は赤血球系NF-E2と同様のメカニズムを採用している可能性に気がつき、この仮説を検証した。この過程で、CNC群因子Nrf2を同定し、また、Nrf2遺伝子欠失マウスを作成・解析して、Nrf2とsMafの2量体が実際にAREに結合して第2相酵素群遺伝子を活性化する転写因子の本体であることを突き止めた。さらに、長い間謎であった親電子性毒物と酸化ストレスのセンサーであるKeap1を発見し、Keap1-Nrf2制御系が生体防御において中心的な役割を果たしていることを明らかにした。また、Keap1-Nrf2制御系の解析を進め、本系の機能障害がさまざまな疾患の分子基盤を形成していることを見出した。さらに、Nrf2活性制御が疾患の予防と治療に有効であることを実証した。この成果をうけて、現在、Nrf2活性化剤が多発性硬化症の治療薬として承認されており、糖尿病性腎症の治療薬も実用化にも近づきつつある。
Keap1-Nrf2制御系の分子メカニズム解明は、基礎生命科学において極めて重要な概念の確立をもたらした。平常時には、Nrf2はKeap1により迅速に分解されているが、細胞が酸化ストレスや親電子性毒物に曝露されると、Keap1が失活してNrf2分解が停止する。その結果、Nrf2は細胞内に蓄積し、様々な生体防御遺伝子群の発現を活性化する。これにより細胞はストレスに対する抵抗力を増大させる。すなわち、環境ストレス応答の実態はKeap1によるNrf2の恒常的分解による抑制からの「脱抑制」である。そして、Keap1の反応性システイン残基がこれらの環境ストレスを鋭敏に感知する。ストレスセンサーの分子基盤は「システインコード」(システイン残基修飾による遺伝子発現制御)である。
このように、本研究は環境ストレスに対する生体応答メカニズム研究領域におけるフロンティアを開拓しており、その成果は毒性学の発展に大きく貢献するものと確信している。