Tropics
Online ISSN : 1882-5729
Print ISSN : 0917-415X
ISSN-L : 0917-415X
屋久島における伝統的な森林保護システム
原口 泉
著者情報
ジャーナル フリー

1996 年 6 巻 4 号 p. 451-457

詳細
抄録

屋久杉と人間との関係は,歴史的に4 つの段階に区分される。それは:
(1)「神木としての屋久杉」 (~1641 年までに屋久島は山岳信仰の対象であり,人聞が利用する木は里山で足りていた。
(2)「糧としての屋久杉」 (1642~1967年),屋久杉の本格的な伐採が始まる。斧を使って伐らざるを得なかったため,屋久杉は世代交替することができた。
(3)「資源としての屋杉」(1868~1969) ,屋久杉が最大限利用された。伐採・運搬の機械化が進み,昭和40 年代の小杉谷のように一定地域が皆伐された。
(4)「自然環境としての屋久杉」 (1970~),屋久島は貴重な自然環境として高く評価されるようになり。1993年世界自然遺産に登録された。この第2期の近世から第3期の近現代まで屋久杉は一貫して伐採されてきたが,すぐれた森林生態系が維持されてきた。この点で人間と自然との共生の好事例として高く評価されている。
宗教的・国家的建築への屋久杉利用近世以前,屋久杉は大隅国正八幡宮の再建(1560) や京都方広寺大仏殿の再建(1610~1612) などに限られていた。1595 年,島津氏は屋久島の大木の調査を行うとともに「屋久島置目」を発布た。
屋久杉の一般的利用と専売制の確立屋久杉の開発を藩に提言したのは,安房出身の儒学者・泊如竹(1570~1655) であるといわれている。屋久杉は1642 年から広く伐採されることになった。そして財政難に苦しむ藩は,時代とともにいっそう屋久杉に財源を求めることになり,島民の年貢米を平木で上納することを命じた。1726 年屋久島全島の検地が実施され,生産高1386 石が打ち出された。ついで1728 年「屋久島手形所規模帳」で米と平木の交換率(米1石=平木14000枚)が定められた。年貢としての平木生産の伐採量は年当たり約5000m3と計算される。1967 年の年間伐採量15万5000m3の1/30 の量である。伐り出しは手斧のみで,やぐらを組んで相当上の方で伐っていた。山からの運び出しは,人夫が背負って港まで運び,運送は帆船であった。また,藩の専売政策は,資源が枯渇しないよう,伐採者に「御礼杉」の植栽を義務づけた。さらに島民は林業一本ではなく,漁業(カツオ,サパ,飛魚漁) ,農業(薬草のガジュツ栽培等) ,そして一部には海運業もかねて生活している。
土地制度の在り方と森林保全は密接な関係がある。近世屋久島の山林は,藩直営林や村民請負林で構成されているが,村持山は入会山であり,村民が自由に利用できた。この村持山のような共同利用地を新たに開発しようとすれば,村民全員の一致が必要とされていたので,慣行的な利用形態が存続され,森林保全につながった。
近世の地租改正と国有林化明治維新後,屋久島に地租改正が実施され(1881 年終了) ,村持山のように個人の所有が確定できない山林も含めて,ほとんどの山林が国有林となり,山稼ぎ島民の入会利用の自由が奪われてしまった。1921 年提示された「屋久島国有林経営の大綱」(「屋久島憲法」) は島民の期待を裏切るものであった。国は2年後に約7000 ha の山林を入会用地として設定したが,固有林が民有林になることはなかった。近世における屋久島の山林は,島民の年貢としての屋久杉伐採にもかかわらず,伝統的に保護され,また岳参りという山への信仰も存続し,保護育成されてきた。ところが国有林経営の下で,チェーンソーにより皆伐され, トロッコで容易に運搬され,森林破壊が進められた。世界遺産に指定された屋久島では農林漁業だけでなく,エコツーリズムや自然環境学習という新しい産業の活性化が実現可能である。屋久島の貴重な生態系を守り,次世代に伝えるためには,単に規制を強化するだけでなく,産業の複合化によって島民の生活安定をはかり,島民が中心になって生態系を守り,島外の人たちがそれを支援していく体制が必要である。

著者関連情報
© 1996 日本熱帯生態学会
前の記事 次の記事
feedback
Top