抄録
本論稿の目的は、近代文学の精神史において、遠藤文学を改めて相対化することにある。そのために、その結節点として、山本健吉の『正宗白鳥』を置く。先ずは、終生その親交の変らなかった山本健吉との関係を検証しながら、健吉の遠藤文学への評価の内実、特に遠藤にとって、その文学的テーマの根幹ともなった「日本の風土」に対する認識と評価について考察する。前半では『海と毒薬』をめぐる二人の論争について、後半では『沈黙』と『侍』について、健吉の文学的立場や文学的創造の基盤を確かめ、批評家山本健吉の批判的な座標に改めて遠藤文学を映し出してみる。あわせて、両者のなかに現われる「日本人的キリスト者」についても、その意味を明らかにしたい。最後の章では、小林秀雄の「正宗白鳥の作について」(絶筆)に触れて、「信じるということ」をめぐって、「宗教と無意識」という問題について検証する。文学史において、「正宗白鳥」という水脈をたどるささやかな試みでもある。