2005 年 4 巻 p. 105-112
大正という時代は日本全体の変革期であった。マスメディアについていえば、旧来からあった新聞、雑誌が大きく変容した。1924年、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』の両紙が100万部達成を宣言した。1925年には70万部雑誌『キング』の創刊があった。有力マスメディアの、事業を含む全国展開はこの時期から活発になる。大正中期以降は、日活、松竹の2大活動写真製作会社を中心に活動写真(映画)が娯楽の覇者の位置を占めることになる。これから発声映画(トーキー)の導入を経て第二次大戦後テレビにその位置を奪われるまで、この状態は変わらない。本論はこれから日本を席巻しようとする活動写真が、山梨という地方マスメディアのなかでどのように扱われてきたかを、当時の記事、広告の両面から探る試みである。