現実感喪失は一般に解離性群の一種とされるが、物心二元論に基づく断絶では、自覚あるその全喪失を説明できない。それはむしろ、物語で状況を認識する先験的見当識の問題である。物語は、他人の経験からも物事を学ぶ庶民の哲学である。しかし、ネガティヴプロットで語られることが多いので、我々はその謎を解かなければならない。物語は自身を語り、我々は聞くことしかできない。
海外旅行と同じように、近代化は物語だった。ルネサンスは我々に単独エヴリマンとしてのそれぞれの責任を問うた。革命時代にはその方向性は迷走したが、その後はポピュリスト指導者が産業革命と帝国主義を推進した。しかし、彼らの近代化の物語は、私たちに均質なエヴリマン、つまり大衆であることを要求した。実存主義は警告したが、全体主義でさえ我々に快適であり、大衆エヴリマンは我々の知性の蓄積者としてうまく機能した。
我々は今なお大衆エヴリマン見当識で物事を整理しており、それが我々に物事の現実感を保証している。ただし、それは個人的問題には無力である。また、感性の過覚醒は、見当識の停止による現実感の喪失を引き起こす。くわえて、大衆エヴリマンの母体としての中流階級の衰退はそれを解体し、かわってさまざまなセレブ見当識が提案され、濫用されている。このことは、社会の中でだけでなく個人の中ででも混乱や軋轢を生む。確固たる見当識がなければ、我々はすべてに現実感を失う。
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