サイコアナリティカル英文学論叢
Online ISSN : 1884-6386
Print ISSN : 0386-6009
1998 巻, 19 号
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  • 関谷 武史
    1998 年 1998 巻 19 号 p. 1-14,43
    発行日: 1998年
    公開日: 2011/03/11
    ジャーナル フリー
  • 渡部 和子
    1998 年 1998 巻 19 号 p. 15-28,44
    発行日: 1998年
    公開日: 2011/03/11
    ジャーナル フリー
    George Eliotの中期の小説The Mill on the Flossは、ヒロインMaggieTulliverの成長を描いたBildungsromanで、全7巻から成っている. そのうち第1巻と第2巻はMaggieの9歳から13歳までの少女時代を扱っているが、興味深いことに、“Boy and Girl”と題される第1巻と、TomのStelling牧師宅での学校時代を背景にした“School-Time”第2巻とでは、Maggieの描写に明らかな違いがある. 第1巻に登場するMaggieははつらつとしているがあたり構わず衝動的でさえあり、母Mrs. Tulliverを嘆かせるエピソードに事欠かない.“friendly pony” (34) にも例えられる彼女のinnocentな時代と言ってよいであろう. しかし第2巻のMaggieはこれとはずいぶん趣を異にしている. 母親のしてくれるカールを受け付けず、おさまりのつかないのが特徴だった彼女の黒髪が、結い方が変わり耳の後へなめらかに櫛けずられるようになった (128). それなりにおさまりがつくようになったのである. そして程なく、生まれて初めて父親以外に彼女の黒い目を評価してくれる異性に出会う. その人Philip Wakemに対して、“Should you like meto kiss you, as I do Tom?” (161) と尋ねるMaggieの方は、無邪気な、兄に対する妹の感情であったかも知れないが、これは紛れもなき淡い初恋の情景の一頁と言えよう. このように、成長のしるしというには気になる変化が語られるのである. 一方でMaggieは子供時代の名残を色濃く残してもいる. 例えば、自分の賢さを認めてもらいたいばかりのMaggieは、かつて父の裁判上の相談相手Riley氏に対してしたようにStelling牧師を相手に、恐れも見せずしやべりまくる. しかし、第1巻と異なって「ジプジーのところへ家出した女の子」の話を持ち出されると、急に黙り込んでしまうのである (131).
    この話、Maggieがジプジー部落へ家出した事件は、第1巻の終わり近く、第11章で語られる. そして厳密には、この事件を境に、これまで述べたようなMaggieの変化が表れるのである. ということはこの事件が本質的にMaggieの変化、つまり彼女の“aloss of innocence”に深く関わっているからではないだろうか. 本論では“Maggie Tries To Run Awayfrom Her Shadow”と題される第1巻第11章に焦点を当て、この出来事がMaggieの子供時代の精神史において果たした役割を考察してみることにする. その過程で、この章タイトルに含まれる「影」の意味も明らかにすることが出来るであろう.
  • 鈴木 孝
    1998 年 1998 巻 19 号 p. 29-42,46
    発行日: 1998年
    公開日: 2011/03/11
    ジャーナル フリー
    The Innocents Abroad (1869) 、Roughing It (1872) などの旅行記や、The Adventures of Tom Sawyer (1876以下Tom Sawyer) 、Adventuresof Huckleberry Finn (1884) などの少年冒険課を世に出し、名声を博していたユーモア作家Mark Twainは、晩年になるにつれペシミスティックな思想を前面に押し出した作品を多く描くようになっていく. 人間が生来偽善的で、虚栄心を持つものであることを示し、その結果Hadleyburgという町が破滅していく様子を描いた“The Man That Corrupted Hadleyburg” (1899) や、超自然的な存在であるNo.44に「すべては夢にすぎないのだ」と語らせる“No.44, The Mysterious Stranger” (1916以下“No.44”) とともに晩年三部作と言われるWhat Is man? (1906) には、そのペシミズムがとりわけ明確に語られている.そこに描かれた中心的主題は、確かに「人間は機械である」という決定論的な人間観であり、作品に対するこれまでの批評も、Sherwood Cummingsが指摘するように (1) 、Twainはなぜこのような人間観を描いたのかという個人的な執筆理由を推測したりそこで展開されている決定論がこの作品に特有なものではないことを指摘するといった具合で、作品に見られるTwainのペシミズムを考察したものが多いのももっともであろう. しかしながら、これに先行するTom Sawyerにおいて、主人公であるTomが“a great law of human action”を発見し、それによって示された人間観がその後の複数の作品においても繰り返し描かれていることに注目してみたとき、What Is man?の中で展開されているTwainの人間観を指摘する上で重要となる、「欲望」というキー・ワードが浮かび上がってくることになる. 本稿ではTom Sawyerの中で提示されたその“a great law of human action”が、実は人間の本質的「欲望」の生成の場を的確に捉えたものであったということを論じながら、ペシミズムばかりが注目されがちなWhat Is man?を「欲望」という視点から見直し、Twainが思い描く「人間とは何か」を考察してみることにする.
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