『学術の動向』では、ジェンダーに関する特集を幾度となく組み、総合学術誌という特徴を活かして、さまざまな研究分野からジェンダー問題をとらえた論文を多数掲載してきました。 ジェンダーギャップ指数下位の日本とその他の国に生きる人々の現状に鑑み、その一部を集めました。 問題の根源は何でしょうか。日常に刷り込まれた不平等に、気づけているでしょうか。これは過去の話だと言える世界にするために、どうすればよいのでしょうか。 多くの研究者の分析と問題提起、解決への提案をご覧ください。
2021年度現在、高校卒業後に4年制大学へ進学する者の数は男子57.4%、女子51.3%であり、二人に一人以上が進学しているが、実は二つの「足枷」が存在している。一つは非大都市圏、いわゆる「地方」であり、どの地域に在住しているかによって大学進学のハードルは異なっている。もう一つは「性別」であり、全国の大学進学率において女子が男子を上回ったことはこれまで一度もなく、特に「地方の女子」は「地方と性別」双方が大学進学の「足枷」になる。
大学進学には社会的諸条件が影響するため、「大学進学はやる気さえあれば誰でも可能」といった個人の努力や意志の問題へ矮小化してはならない。大学という進路選択が開かれた社会を目指すためにも、「足枷」をなくしていく政策や支援制度が必要である。その一方で、大学進学を選択しなくとも安心して暮らせる社会を基盤に据えることも重要である。
21世紀の現在においても、日本における就学経路上のジェンダー格差は、特に高等教育段階において存在している。なにゆえ、こうした格差が存在するのか、そして、いかにすれば格差は解消できるのか。この問いの答えは、中等教育段階に着目することで見えてくる。現代日本において、中等教育段階が、性別の社会化が進展する重要な教育段階であることを考えるために、私たちを「今」に連れてきた教育の歴史をジェンダーの視点から振り返り、「今」を再検討する。
ルワンダにおける女性議員の比率は、2020年段階で61.3パーセントと6割を超え、比率の上では世界第一位である。本稿では、それを可能にしているクオータ制を紹介するとともに、この制度の導入の背景と経緯、そしてその効果について多角的に検討する。ルワンダでは、ジェノサイド後、憲法で規定される形でのクオータ制が導入される以前から女性を一定程度優遇する新政策の策定がなされた。2003年憲法第75条に規定されたクオータ制を根拠として、女性の議員比率は向上してきた。ただし、その効果に対する評価は両義的である。また、クオータ制が「男女共同参画」的な視点から政治をとらえる上での有意な効果をもたらしたのかについても課題が残されている。加えて、アフリカでは権威主義体制下でのクオータ制の導入が進められるなどの政治的な文脈にも留意が必要である。
本稿は、まず第1章で男女間の教育格差解消がなぜ大事なのかを人権(国際条約)と経済(人的資本論)の側面から解説した。次に第2章でOECDのデータを基に日本の女子教育が低い大学(院)進学率・STEM系学部進学率・トップスクール進学率という三重苦の問題に直面していることを解説しつつ、教育政策研究で明らかになっていることからこの女子教育の三重苦の問題が経済的にどのような示唆を持ってしまうのかも解説した。第3章ではデータと教育政策研究が生み出してきたエビデンスに基づいて、学校・社会(家庭)・政府といった各教育政策関係者が日本の女子教育の問題に対してどのような対処策を講じれるのかを足早に解説した。
本稿では、コロナ・パンデミックにおける自殺について論じる。1節でパンデミックにおける自殺の概況を提示したのち、2節ではパンデミック初期の自殺の減少について述べる。3節ではE.デュルケームの「自己本位的自殺」の観点から「自粛」や「ソーシャル・ディスタンス」と孤立・孤独、自殺について考察する。4節では、デュルケームの「アノミー的自殺」の観点から「リモート・ワーク」による職住の再編と自殺について検討する。5節では、自殺予防NPOでのフィールドワークにもとづき、「死にたさ」に耳を傾けることについて考察する。6節では、自殺のケアの未来について考える。
戦争はジェンダーと深いかかわりをもっている。男性が女子供を「保護する」という家父長制的なジェンダー秩序は、暴力の導火線のように機能することで、戦争に適した状態をつくりあげてきた。この意味で、ジェンダーは、戦争を引き起こす原因としてある。
一方で、戦争はジェンダー化された暴力を引き起こす。戦時性暴力は長いこと、戦争の副産物とされ不可視化されてきたが、近年では「戦争兵器」と捉える見方が登場するようになった。だが、性暴力は安全保障化され、「保護する責任」の名の下で軍事化されたジェンダー秩序を再編しつつある。この意味で、ジェンダーは戦争の結果でもある。
戦争とジェンダーの間にこのような循環的な関係があることを思えば、戦争と暴力を考えるためには、そして、戦争と暴力に抗うためには、日常から戦場までのつながりのなかで、ジェンダーの視角から考えることが不可欠なのである。
このコロナ禍では数多くの憲法問題が生じたが、殆ど主題化されてこなかった問いがある。それが身体の自由をめぐる問いである。外出自粛であれワクチン接種であれ、公衆衛生対策の多くは身体に向けられたものであることを考えると、これは不思議である。その原因の一つは、憲法学が主権的権力に目を向け過ぎるあまり、着々と進行する人口の生政治に十分な注意を払ってこなかったことにある。生政治は、人口というマスの身体に働きかけるため、個人の身体に対する作用は間接的であり捉えづらい。しかし、間接的とはいえ自律に及ぼす影響は絶大である。このことは要請ベースを主とする「日本モデル」の問題点につながる。日本の感染症対策は強制力を用いることを極力控えてきたが、それは国民を個人として尊重するどころか、かえって安全を脅かす個人を強力に排除するメカニズムとして機能してきた。その排除の自覚がないままに、国民が統治されやすい個人と化していることが、憲法上の一番の課題である。
SDGsの一つに「ジェンダー平等」が示されて以降、わが国でもこの問題に関する現状と課題が様々な形で取り上げられるようになった。他の先進国と比較しても、政治や管理職、理系の分野などで日本のジェンダー指数は低いままである。本論文は、このような状況の中で、高校教育の現状はいかにあり、どのような取り組みが必要となるのか、これまでの実践を振り返りつつ考察する。一地方の公立学校の教員として私自身が日々行っていることを振り返りながら、明日からの実践の可能性を考えていきたい。
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