最初に、小学校一年生の生徒が書いた詩、まど・みちおが九十七歳のとき書いた詩、このふたつにそくして「言葉の普遍性」について考察する。つづいて、石原吉郎、金時鐘、永山則夫らの表現について、彼らの作品にとって語りえぬ現実こそが「超越」ではないかと述べる。さらにこのことを、石原のシベリア・エッセイと詩にそくして考察する。一連のシベリア・エッセイよりもそれに先立つ詩篇においてこそ、シベリアの記憶はよく表出されていた、というのが私の考えである。最後に、ベンヤミンの言語論をここでの考察に重ねる。事物の言語‐人間の言語‐神の言葉という三層構造からなるベンヤミンの言語論において、人間の言語は事物の言語を神に報告する位置にある。同様に、語りえぬ現実を表出しようとする言葉は、絶対者に向けてこの世界の出来事を報告しようとする。つまり、現実という超越が絶対者というもうひとつの超越とかすかにふれ合う場、それが言語にほかならない。
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