1.研究の目的 1990年代後半以降,日本の自動車企業各社はアジア通貨危機の影響に伴う生産分業体制の見直しなどにより,タイを世界的輸出拠点に位置付けた.現地の日系企業,とりわけ既存企業では生産台数・車種が増加することが見込まれたため,生産システムをより大量生産に対応できるものへと革新していった.新興国で自動車の生産規模が拡大するなか,現地の日系自動車企業は生産システムをどのように構築・革新しジャスト・イン・タイム方式(以下,JIT)を実現しているのか,またそれはどのような空間的特徴を有しているのかという点を検討する必要がある.
そこで,本発表は生産規模の拡大に伴う物流システムの変化に着目して,タイにおける自動車企業の生産システムの構築・革新過程と実践内容を明らかにする.ここでいう生産システムとは,自動車企業および同部品企業による部品生産・資材調達から自動車の完成に至るまでに関わる要素,すなわちJITを中心とする物流システム,製造(組立および内製),生産管理機能,労働力が相互に連関しあったものとする.事例として取り上げるのは,三菱自工の現地生産法人ミツビシ・モーターズ(タイランド)社(以下,MMT社)である.同社は1988年にASEANで初めて完成車を先進国に輸出した企業であるうえ,1990年代後半以降は輸出拠点化に伴う生産規模の拡大が顕著にみられた.また,演者は2003年と2008年の二度にわたって同社への聞取り調査を実施している.この間に生産システムが革新しており,事例として適当であることから,本研究ではMMT社を取り上げた.
2.MMT社の進出と世界的輸出拠点化による生産規模の拡大 三菱自工は1966年にタイで現地生産を開始し,工場移転を経て,1992年にバンコク都の南東約100kmのチョンブリ県レムチャバン工業団地で乗・商用車専用の組立工場(以下,レムチャバン工場)を建設した.同工業団地がレムチャバン貿易港に隣接していることが示すように,レムチャバン工場の立地選定において完成車の輸出が意図されていた.同工場で本格的に輸出向け生産が開始されるのは1996年以降である.これには,三菱自工グループの日米における1トンピックアップトラックの生産・販売体制の再編成が影響していた.レムチャバン工場の生産台数は,アジア通貨危機が発生した1997年の6万8千台から2007年には19万6千台へと10年間で3倍に増加した.2007年では14万6千台が欧州や豪州,ASEANなど140カ国以上に輸出されており,そのほとんどが1トンピックアップトラックである.
3.生産システムの革新と実践 レムチャバン工場では,限られたスペースや設備投資のなかでいかに生産規模の拡大に合わせて生産システムを革新しコストダウンを図るかが重要であった.そのために,同工場におけるタイ国内の物流システムは,1直接納入による時期(1992年~1995年),2シンクロ納入(自動車工場の組立ラインを流れる車両と同じ順序でサプライヤーが部品納入)が導入され部分的ながらJITが実現した時期(1996年~2003年),3
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方式(トラックがサプライヤーを巡回し小ロット部品をJITで自動車工場に納入)を導入した時期(2004年~)へと段階的に変化していった.2008年では3つの方法が併用されている.2では,部品調達から組立ラインまでを管理するAssembly Line Controlシステムがシンクロ納入と同時に導入され,生産システムが大幅に革新した.さらに3では,生産台数・車種の増加によって敷地内の部品在庫スペースに余裕がなくなってきたことなどを背景に,
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方式の導入や組立ラインの再編成などが実施され,生産システムはさらなる変革を遂げた.
各サプライヤーからの部品物流は,1年に1度の頻度で見直されている.当初,シンクロ納入および
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方式による納入を実施するサプライヤーはレムチャバン工業団地やその周辺に立地する企業に限られていたが,徐々にその企業数と立地範囲が拡大していった.また,生産システムの実践においては,サプライヤーの立地や部品特性に加えて,組立ラインへの部品の投入時間,サプライヤーの部品生産・管理能力,直接納入から
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方式への切り替えにおける際の交渉の問題など多様な要件が関わっていることが明らかになった.
以上のように,MMT社では世界的輸出拠点化による生産規模の拡大に伴ってJITが実現し,生産システムが革新していった.こうした動きは他社においても確認されており,タイ自動車産業のグローバル化に対する地域的対応を示すものであると捉えられる.
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