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クエリ検索: "中世"
47,464件中 1-20の結果を表示しています
  • 藤田 美輝
    日本土木史研究発表会論文集
    1986年 6 巻 85-91
    発行日: 1986/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国における道路交通史の研究は文献に重点が置かれ、この面では多くの成果が得られている。しかし多くの文献は、国史と称される資料である。国史は概して統治する側の立場記録されており、一般の交通状況を把握するには、やや難点があると云わざるを得ない。この点、絵巻はより具体的な記録として貴重なものである。また、実感としてとらえることができ、道路と交通の技術的な史資料として極めて示唆に富む内容を含んでいる。この絵巻をもとに平安末期から主として鎌倉時代における道路と交通の実態を探り、特に一般的な生活の中における道路の状況、橋の様子、牛車 (荷物運搬用) の利用に着目し、従来の研究では、あまり触れられていない面に関して、考察を試みたものである。また交通の基本的機能と当時の交通実態との関連を対比し、歴史的な変遷の過程について若干の推論を行った。
  • 馬場 俊介, 岩本 雅伸
    土木史研究
    1992年 12 巻 25-36
    発行日: 1992/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    石造アーテ橋の構築技術の中から、地域性や時代性にあふれた固有技術として、(1)コーベルアーチ、(2)鉄楔付きアーチリブ、(3)せん断壁、(4)籠手型アーチ、(5)オープンスパンドレルの5点をとり上げ、これらの技術の必然性について有限要素解析に基づく構造論的な評価を行なう。討議の対象とした橋は、(1)~(5)の技術が構造上の要件として典型的な形で活かされたことで有名な石造アーチ橋で、それぞれ、(1)プラプトス橋、(2)安済橋、(3)放生橋、(4)サンタ・トリニタ橋、(5)ポンティプリッド橋である。これらの結果を用いれば、経験の集積としての技術の妥当性を今日的観点から評価することが可能となる。
  • 本間 大善
    宗教と社会
    2023年 29 巻 1-13
    発行日: 2023/06/24
    公開日: 2025/05/31
    ジャーナル フリー

    本稿は、〈障害者〉を差別する社会の史的構造を明らかにすることを目的とする。主として起請文に書かれる「罰文」の機能の変化について考察を行い、日本

    中世
    社会において存在した種々の〈障害〉の内でもとりわけ「癩」が析出された構造を解明することを試みた。1187年~1300年の史料に見られる罰文を、3期に区分しながら網羅的に検討し、①罰文における「癩」は、重源や鑁阿といった勧進聖によって意図的に析出されたこと、②癩罰文は勧進聖を回路として在地社会に広まりを見せたこと、③そのような癩罰文の利用は、高野山や東大寺といった寺院社会に収斂することを明らかにしえた。また、従来の
    中世
    身分制研究と、本稿の企図する障害史との接点を阻むものとして、身分制研究における「職能」による非人の類型化・系譜化があることを指摘し、三枝暁子氏の研究を参照しながら、身分制研究の背後にある能力主義を乗り越える必要があることを提言した。

  • 中世教会史をめぐって
    石原 謙
    日本の神学
    1963年 1963 巻 2 号 1-11
    発行日: 1963/08/10
    公開日: 2009/09/16
    ジャーナル フリー
  • リーゼンフーバー K
    日本機械学会誌
    1992年 95 巻 881 号 311-314
    発行日: 1992/04/05
    公開日: 2017/06/21
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • カリフォルニア大学における値上げ過程の分析
    中世
    古 貴彦
    九州教育学会研究紀要
    2022年 49 巻 31-38
    発行日: 2022/08/10
    公開日: 2023/09/03
    ジャーナル フリー
  • 馬場 俊介
    土木史研究
    1991年 11 巻 1-12
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    フランスの石造アーチ橋の歴史を、橋を構成するアーチ迫石、橋脚の水切り、高欄といった形態、および、アーチ環を強調したり高欄部に水平線を付けるといった意匠的付属物という二つの観点から分類し、時代と地域による体系化を試みる。また、これらの形態・意匠要因がどのような印象を与える可能性があるかを分析し、土木意匠における土木史の役割について、方向性を示唆する。
  • 間宮 正光
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 131-148
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    能登半島には鎌倉で確認される「やぐら」と類似した
    中世
    石窟が分布する。本稿の目的は,それらの集成を行いつつ「やぐら」と比較検討し,その発生を促した歴史的要因の考察にある。
    能登半島では,横穴墓の再利用や可能性のあるものを含めると、5ヶ所において石窟が確認される。造営の時期は,14世紀第2四半期から15世紀代で,“都市鎌倉”が隆盛する時期の遺構はなく,我が国における石窟造営の末期になり造られている。
    構造においては「やぐら」との相違は認められず,両者が極めて類似する遺構と判断されたが,内部施設及び埋葬施設を分析すると,同規模の「やぐら」に比べて石窟内施設の充実や外側入口上部の妻入り屋根形に代表される装飾性が明らかとなった。
    造営者については,石窟の分布が密教系寺院及び禅宗系寺院(臨済禅)の勢力地に位置する傾向があり,「やぐら」と石窟は基本的に同一の遺構であることからも律宗系あるいは臨済禅の人々の関与が想定できる。全体に造営数は少なく葬送観念を共有する集団の存在を暗示しており,特に臨済宗が教線をはる富山県氷見市周辺にまとまりをみせることは示唆的である。
    能登半島における石窟造営の歴史的要因を見通すと,この地域における石窟が主として鎌倉幕府崩壊後にみられることから,真言宗勢力が弱まり,禅宗(曹洞宗),更には浄土真宗の影響が浸透していく状況で,律宗や臨済禅などの南宋文化を引き継いだ人々の教線の強化,あるいは新たな展開を模索した結果であり,津・浦を媒体とする広域的な交通路を背景に,鎌倉地域で隆盛した「やぐら」の葬制を基調として成立したと考えた。そして,「やぐら」が寺院と密接な関係にあり総合的な宗教空間を構成するのに対して,能登半島では装飾性と機能を充実させることで石窟毎に一っの宗教的空間の創出を意図したところに,この地域における
    中世
    石窟の様相がうかがわれる。
  • 都市鎌倉を中心として
    鈴木 弘太
    日本考古学
    2006年 13 巻 21 号 81-101
    発行日: 2006/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    「竪穴建物」とは,地表面から竪穴を掘り込み,その地下空間を利用する半地下式の建物である。
    規模は一辺2mから6m程度が過半であるが,中には10mを越す報告もある。その多くは12世紀後半以降に求められ,
    中世
    を通じた報告例がある。また日本列島には縄文時代以来,竪穴住居があるが,弥生,古墳時代を経て西日本で7世紀,東日本では10世紀ごろに断絶する。そのため
    中世
    の竪穴建物とは直接の系譜関係は想定しづらい。ただ,少数ではあるが北東北地方や博多に11世紀代の報告例もあり,竪穴住居との系譜関係は今後,検討すべき点である。
    竪穴建物は,1982年に鎌倉遺跡群で報告されてから広く認知され,その後,列島規模の広範囲で報告される。各地の竪穴建物の構造は,柱によって上屋を支える構造,いわゆる柱穴建ちが主体であるが,それに対して鎌倉遺跡群は,竪穴底面に据えられた土台角材から隅柱や中柱を組み上げ,それにより内部空間を確保する木組構造が主体をなす。
    本稿ではこの両者の相違を明確にするために,基本構造により分類をおこなう。これにより,鎌倉遺跡群の建物構造は,列島の中で特徴的な構造である可能性を提示した。そして,より詳細に構造を検討した上で,以下に続く,年代や建て替え状況から都市の土地利用についての考察を行なう。
    鎌倉における竪穴建物の年代について,現在まで直接的な研究は見当たらない。筆者は遺構(竪穴建物)の重複から新旧関係を見出し,各遺構に含まれる最新の遺物を下限年代とした上で,重複する遺構群内で変遷を追った。その結果,鎌倉においては13世紀第2四半期ごろに出現し,下限は15世紀代と推測した。
    その重複関係に着目すると,竪穴建物は建て替えに際しても大きく場所を変えず,同一の地点で繰り返し構築される。その限界が「区画」を表現するものと考えた。鎌倉の「海浜地区」は区画が存在しないと考えられていたが,検討の結果,可能性を示した。この区画こそが
    中世
    都市における土地規制の徴証であり,都市制度下にあったものと推察され,今後は都市論あるいは都市構造論へ発展すべき問題点だと考えられる。
  • 宗臺 秀明
    日本考古学
    1996年 3 巻 3 号 101-111
    発行日: 1996/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    This paper discusses the management and maintenance of an urban center in early medieval Japan (twelfth and thirteenth centuries), with particular reference to the drainage system in Kamakura, the political center of Japan between 1180 and 1333. As population of Kamakura grew in the thirteenth century, residents had to spread into alluvial lowland, which later became an important area for the shogunate. In the process, a well-planned drainage system was adopted, which is evident at numerous archaeological sites in present-day Kamakura City. Nonetheless, the Azumakagami, a chronicle of the Kamakura shogunate, records that many floods hit Kamakura. It has become apparent archaeologically that well-constructed drainage ditches filled up with garbage, pottery sherds, and animal bones. Historically, the Kamakura shogunate issued a decree in 1261 prohibiting the discarding of "sick people, orphans, dead bodies, as well as the carcasses of oxen, cows, and horses on and along the streets." All these indicate that the drainage system in Kamakura was not well maintained and managed by the shogunate, and it may be supposed that this poor maintenance contributed to the floods that destroyed houses and districts, as recorded in the Azumakagami. One reason why the government did not prevent people from discarding garbage in the drainage ditches may be the belief shared by the shogunate and residents of Kamakura in the power of water to wash away impurities.
  • ―西鶴作品に見る子ども忌避論―
    木村 政伸
    日本の教育史学
    2021年 64 巻 20-33
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/04/01
    ジャーナル フリー

    Through an examination of the discourse on sexual love between man and woman, pregnancy, and childbirth, this paper explores the view of children in the early modern period and its social background. This paper analyzes the works of Ihara Saikaku (1642-1693), a representative of late seventeenthcentury Japan. Saikaku depicted many people who lived a life of sexual love between man and woman which differed from the ethics prevalent in society. In this context, the idea of avoiding children appears again and again.

    Firstly, this paper explores the statement of an old nun, “ko wa ukiyo no hodashi” (children are the fetters of this floating world) in “Ukiyo eiga ichidaiotoko” (1693). These words simply state that children are obstacles to her, a woman who was forced to give up marriage and became a nun; in order to seek her own sexual pleasure, she abandoned her many children.

    The protagonist of “Koshoku ichidaionna”(1686) also had many abortions, having no intention of raising children that resulted from her dalliances with various men. This attitude, however, were not limited to women in Saikaku’s writing. Yonosuke, the protagonist of “Koshoku ichidaiotoko” (1682), also had sexual relations with many women and men, but he never raised children or had a family. Taking into consideration that these works were bestsellers, it appears that Edo society was rather tolerant of abandoning and aborting children.

    While it was a conventional ethic that women establish their place in the family system as a wife and mother by bearing children, the trend was to live a life of sexual love between men and women, reviling the constraints of such ethics. Discourses of avoiding the responsibility of children in such literature depicted women and men living their lives outside of this ethical convention.

  • 三輪 修三
    日本機械学会誌
    2006年 109 巻 1052 号 575-578
    発行日: 2006/07/05
    公開日: 2017/06/21
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 福島 二朗, 西片 守
    日本土木史研究発表会論文集
    1986年 6 巻 103-109
    発行日: 1986/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、京と東国との大動脈であった東山道をとりあげ、古代から近世に至る間、その果たしてきた役割を時代ごとに明らかにすると共に、地方の地域社会発展にどのような影響を及ぼしたかを、東山道の経路に位置した栃木県足利市を例として考察したものである。
    今回は第2報として鎌倉~室町時代をとりあげたが、この時代は前代までの皇室・公家政権から武家政権へと移行した時代であり、鎌倉に幕府が置かれたことによって、従前の京都周辺に集中していた政治・経済・文化・交通が、鎌倉をも円心として二元化された時代であった。律令制下においては主に国家への貢納物輪送として使われてきた東山道は、
    中世
    に至って、荘園年貢物の輪送、さらに中央諸都市の発達と地方の領主層の成長に伴う地方産業の勃興により、商品輪送路としての役割を果たしたのである。又、前代末期に興った新仏教である時宗や禅宗が東漸したのもこの時代である。このような状況の中足利は、前代の郡衙・駅家が位置し東山道が近傍を通っている周辺に寺院が建立され、又市が立つなど、この地方の主邑として発展してきたが、このことは東山道を媒介とした文化や技術の伝播・交流が繁く行われてきたことを物語っているものと思われる。本稿ではこれらについて詳述した。[
    中世
    ・道路・地域開発]
  • 知(霊知)を中心として
    高柳 さつき
    仏教文化研究論集
    2022年 21.22 巻 88-111
    発行日: 2022/03/20
    公開日: 2024/04/26
    ジャーナル フリー HTML
  • 橋本 雄太
    デジタルアーカイブ学会誌
    2020年 4 巻 2 号 169-172
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/04/25
    ジャーナル オープンアクセス

    近年多数の文献資料がデジタルアーカイブ化されているが、専門知識を有さない一般の人々には前近代の文献資料の読解は困難である。国立歴史民俗博物館では、同館が所蔵する

    中世
    文書資料のオンライン展示システム『日本の
    中世
    文書WEB』(以下、『
    中世
    文書WEB』)を開発・公開した。『
    中世
    文書WEB』は、展示資料の内容解説に加えて、音声による文書の読み上げとアニメーションによる翻字の強調を組み合わせた「カラオケ」式のプレゼンテーションを採用している。この手法は非常によく機能し、2020年1月8日のシステム公開後、1週間の評価期間中に5,000人を超える人々がWebサイトを訪問した。また、サイト利用者48名に対して実施したオンラインアンケートにおいても、「カラオケ」式のインターフェイスが高く評価された。これらの結果は、前近代の文献資料を幅広い利用者に展示する手法として、読み上げ音声の提供が効果的にはたらくことを示唆している。

  • 北條 暉幸
    Journal of UOEH
    1981年 3 巻 1 号 11-13
    発行日: 1981/03/01
    公開日: 2017/04/11
    ジャーナル フリー
    熊本市近郊2遺跡から得られた
    中世
    の中西部九州人(男性成人)が過長頭型であることが記載され, 同地方人の頭蓋骨形態の時代的変化が考察された. 現代中西部九州人の頭骨指数の平均値は中頭型であるが,
    中世
    の中西部九州人の頭骨指数の平均値は68.1で過長頭型である.
    中世
    鎌倉人に関して, 鈴木は頭骨指数の平均値は74.2で長頭型であることを示した. 中西部九州人の頭骨指数は
    中世
    から近世を経て現代にかけて増加している. この現象はヨーロッパ諸国においても認められているところの短頭化現象であって, その明確な原因をつきとめることは難しいが, 人類の自己家畜化現象にもとづく変化の1つであると考えることができよう.
  • 新田 英治
    法社会学
    1956年 1956 巻 7-8 号 33-52
    発行日: 1956/07/20
    公開日: 2009/04/03
    ジャーナル フリー
  • 黒田 俊雄
    法社会学
    1989年 1989 巻 41 号 20-26,285
    発行日: 1989/04/20
    公開日: 2009/01/15
    ジャーナル フリー
    Now so-called 'social history' is becoming one of the most favourite styles of research among the Japanese historians. In this country, modern historical research began as political and constitutional hitory, but a little bit later, social and cultural history was also introduced. Broadly speaking, the 'social history' which is now in boom, can be seen as a part of this rather old social and cultural history. And in my opinion, it should be defined as 'history of social life'. This type of research aims mainly to clarify the historical process of modernization of our society (or civilization). For this purpose, it is essential for the 'social historians' to co-operate with sociologists, particularly those specializing in the sociology of law. As for the study in the 'laws' of Medieval Japan, such a kind of co-operation seems to be highly desirable, especially for such themes as the nature of Laws for the Warriors' Society (_??__??__??_), problems of status-system, Laws Concerning with Temples (_??__??__??_) and so on.
  • 前川 要
    日本考古学
    2005年 12 巻 19 号 51-72
    発行日: 2005/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    近年,都市史研究の分野では,前近代における日本都市の固有な類型として,古代都城(宮都)と近世城下町が抽出され,これらを現代都市と対峙させ「伝統都市」と位置づけることによって,新たな都市史の再検討がはじまりつつある。本稿では,こうした方法を念頭に置きながらも,都城にも城下町にも包摂されない日本固有の都市類型として,
    中世
    の「宗教都市」を具体的な発掘調査事例に基づいて分析しようというものである。そして近江における「湖東型」
    中世
    寺院集落=「宗教都市」を,戦国期城下町・織豊系城下町などとならんで近世城下町へと融合・展開する
    中世
    都市の一類型として位置づける必要性を主張するものである。
    特に,「都市考古学」という立場に立ち集落の都市性を見ていくという観点から,V.G・チャイルドの10個の都市の定義の要素のうち,3つの要素(人口の集中,役人・工匠など非食料生産者の存在,記念物・公共施設の存在=直線道路)に着目して
    中世
    近江の寺院集落の分析をした。その結果,山の山腹から直線道路を計画的に配置し,両側に削平段を連続して形成する一群の特徴ある集落を抽出することができた。これを,「湖東型」
    中世
    寺院集落と呼称し,「宗教都市」と捉えた。滋賀県敏満寺遺跡の発掘調査成果を中心に,山岳信仰および寺院とその周辺の集落から展開する様相を4っの段階で捉えた。また,その段階の方向性は直線道路の設定という例外はあるものの,筆者が以前提示した三方向性モデルのうちII-a類に属すると位置づけた。
    そして,特に4つの段階のうちIII期を「湖東型」
    中世
    寺院集落の典型の時期と捉え,その形成と展開および他地域への伝播を検討してその歴史的意義を検討した。その結果,この都市計画の技術や思想が,北陸の寺内町や近江の
    中世
    城郭やさらには安土城に採用された可能性を指摘した。その成立時期については,佐々木六角氏の観音寺城や京極氏の上平寺城の事例を見ると,武家権力が山上の聖なる地を勢力下において「山上御殿」が成立してくる時期とほぼ一致すると考えた。
    日本都市史においては,
    中世
    都市のひとつの類型として,「宗教都市」を挙げることができるが,特に「湖東型」
    中世
    寺院集落は,個性ある「宗教都市」の一つとして重要な位置を占める。それは,戦国期城郭へ影響を与えたのみならず近世城下町へ連続する安土城の城郭配置や寺内町吉崎の都市プランに強い影響を与えたことが想定できるからである。
  • 安曇川沖積平野(木津荘, 滋賀県)を対象として
    小谷 裕枝
    都市計画論文集
    2017年 52 巻 3 号 1191-1198
    発行日: 2017/10/25
    公開日: 2017/10/25
    ジャーナル フリー
    本研究は,滋賀県安曇川沖積平野の条里制集落群を対象として,
    中世
    応永29年(1422年)から平成27年(2015年)まで継承される「文化的景観」の特徴に関する研究である。遺産でも遺構でもなく,文化財に付帯もしないが,地域風土による社会的な歴史が作用し,現在の農林地や構造物等にその歴史に基づく利用が確認できる景観を「文化的景観」と定義している。対象地が
    中世
    に属した木津荘には,
    中世
    応永20年前後の間に2つの史料が存在し,近現代の景観のルーツとされる大きな変化を捉えたとされる。本研究では,これら
    中世
    史料の既往研究の成果,明治初期の絵図(1873,74年頃)の復元図,対象地の圃場整備前後の昭和40年(1965年)と平成27年(2015年)のベースマップの5時点を基点に,同一二時点による質的変化と分布変化から分析を行っている。結論として,条里地割に展開する,以降の景観の礎(景観の骨格や関係性,敷地の文脈)を形成した点が
    中世
    から現存する「文化的景観」の特徴であることを明らかにした。また,圃場整備を境に生じた,屋敷地の核としての公共施設という地域居住域の特徴の変化も明らかにしている。
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