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クエリ検索: "佐々木蔵之助"
7件中 1-7の結果を表示しています
  • 渡邉 晶
    竹中大工道具館研究紀要
    2002年 14 巻 1-58
    発行日: 2002年
    公開日: 2022/01/31
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    伐木・製材の技術と道具に関して、近世以前の諸資料を調査した結果、次のように要約できる。 (1) 伐木用の主たる道具は、約2000年前より以前が石斧、それ以後が鉄斧(ヨキ)であったが、16世紀後半頃から鋸も併用されるようになったと考えられる。 (2) 原木を大はつりして荒角材をつくる道具は、近世にいたるまで、刃幅の広い縦斧(タツキ)が使われ続けたと推定される。 (3) 大木を製材する道具は、14世紀頃まで斧とクサビ(打割製材)であったが、15世紀頃から二人使いの製材鋸(オガ)が普及し、16世紀後半頃から一人使いの製材鋸(マエヒキ)が使われはじめたと考えられる。 (4) 小木を製材する道具は、14世紀頃まで鑿とクサビ(打割製材)であったが、15世紀頃から一人使いの製材鋸(カガリ)が使われるようになったと推定される。 (5) 伐木・製材の専門工人は、5世紀頃にコタクミからソマヒトが分化し、15世紀頃にソマヒトからオガヒキが、コタクミからコヒキ(カガリ使用)が、それぞれ分化し、16世紀後半頃にオガヒキからコヒキ(マエヒキ使用)が分化したと考えられる。
  • 渡邉 昌
    竹中大工道具館研究紀要
    1999年 11 巻 1-63
    発行日: 1999年
    公開日: 2022/01/31
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    木を材料とする建築をつくり上げるための主要な道具である、斧・鋸・鑿・カンナに関し、古代・中世における発達史を調査した結果、次のように要約することができる。 (1) 伐木用の縦斧は中世に無肩袋式から無肩孔式に変化し、建築部材荒切削用の横斧は古代・中世を通して無肩袋式であったと推定される。 (2) 古代・中世における建築部材加工用の鋸の基本構造は茎式で、古代において歯道部分が内湾形状から外湾形状に変化し、中世において引き使いが一般化したと推定される。 (3) 古代における鑿は、基本構造として袋式と茎式が、刃部断面形状として両刃と片刃が、それぞれ併用されていたが、中世において茎式・片刃形状に統一されていったと推定される。 (4) 古代・中世における建築部材仕上げ切削用のカンナはヤリカンナであったが、中世において台鉋も使われはじめたと推定される。 (5) 古代・中世において伐木段階には縦斧が、部材加工段階には横斧・鋸・鑿・カンナが主として使われ続けたが、製材段階の道具は中世において大きく変化(打割用の鑿から縦挽鋸へ)したと推定される。
  • 本田 敏雄
    八戸工業高等専門学校紀要
    2002年 37 巻 159-164
    発行日: 2002/12/20
    公開日: 2018/11/23
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 上野 佳也
    史学雑誌
    1977年 86 巻 5 号 511-516
    発行日: 1977/05/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 吉本 洋子, 渡辺 誠
    日本考古学
    1994年 1 巻 1 号 27-85
    発行日: 1994/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    従来人面把手とよばれていたものは,実際には把手としては機能せず,宗教的機能をもった装飾と考えられる。本稿は,その宗教的機能を解明するための基礎的研究として,それらの時期的・地理的分布を明らかにすることを目的にしている。
    そのために機能の違いを想定して煮沸用の深鉢形土器に限定し,他の器種と区別した。
    その分布は北海道から岐阜県にかけての東日本に集中し,293遺跡より443例出土していることが判明した。人面装飾付土器が主体で94%を占め,土偶装飾付土器は少ない。
    人面装飾付土器は形態上4類に分類される。I類は胴部に,II類は口縁部に,III類は口縁部上に人面装飾がみられる。そしてIV類はIII類がさらに発達して大型化・立体化したもので,顕著に把手状を呈するようになる。
    それらのうち始めに出現したのはII類で,縄文時代前期前葉である。中期初頭にはIII類の発達が著しく,中期前半にはIV類が発達し,併せてI類や土偶装飾付土器もみられるようになる。しかし中期後半には急速にIV類などが減少し,もとのII・III類のみになる。
    地域的にみても,IV類は主に長野県・山梨県・東京都に集中している。時期的にも地理的にも勝坂式文化圏に相当し,同文化圏の代表的な遺物である。
    IV類の特徴である大型化などについて,それを客観的に理解できるように顔面サイズの測定を行った。その結果I~III類とIV類との大小2群に分かれることが判明した。しかし正確にはIV類にも大小2群が含まれていて,共存している。そのサイズは,高さ・幅とも13cmが目安である。
    その顔が成人女性であることは,耳飾りをつけていることから明らかである。そのうえ出産を表現した例さえある。また頭上や向かいあって男性を示すマムシとセットをなすことがあり,性的結合によって生じる新しい命としての食べ物を,神と共に食べた宗教的な行事を示唆している。そのうえその直後に,けがれを恐れて底を抜いたことを証明するような埋設例もみられるのである。
    時期的・地理的分布状態の正確な把握を基礎として,原日本文化である縄文文化の精神世界を実証的に明らかにしていきたい。
  • 加藤 美紀
    仙台白百合女子大学紀要
    2022年 26 巻 1-16
    発行日: 2022/03/01
    公開日: 2022/04/08
    ジャーナル フリー
  • 山本 暉久
    日本考古学
    1994年 1 巻 1 号 1-26
    発行日: 1994/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    関東・中部地方を中心とした地域では縄文時代中期後葉期の竪穴住居址内に祭祀的な遺構・遺物がしばしば検出されるという特徴を有している。なかでも注目されるのが,石柱・石壇と呼ばれる,石を用いて構築された祭壇状の施設である。この特異な遺構については,これまでにも多くの研究者によって注目され,しばしば論じられてきたが,こうした施設を有する住居址を他の一般的な住居と区別して特殊な祭祀家屋であるとか司祭者家屋とする見方が一般的となっている。
    そうした観点とは別に,筆者は中期終末期に忽然と出現をみた柄鏡形(敷石)住居の出現過程を探るうえで,とくに屋内敷石風習の開始時期とのからみにおいて,この石柱・石壇をもつ住居址に注目して,柄鏡形(敷石)住居の初源段階に位置づけてみたことがある。
    その後,資料の増加とともに,中期後葉期から終末期に至る過程の中で,柄鏡形(敷石)住居の成立のありかたをより細かく検討しなおす必要性が生じてきた。そこで,本稿では,石柱・石壇をもつ住居址例を再度分析することを通じてその特性を明らかにさせるとともに,この種の住居址を特殊視化する傾向に対してあらためて反論を試みることとした。
    検討にあたって,事例の集成を行ない,とくにその変化のありかたを中心に論じてみることとした。その結果,石柱・石壇をもつ住居は,中部山地を中心とした地域の中期中葉に初源し,中期後葉にその盛期を迎え,中期終末期に衰退するという変化のありかたがとらえられること,他の石柱・石壇をもたない住居と比較して,石柱・石壇をもつ以外にその差異を見出すことは困難であることを明らかにさせた。こうした時空的分布の特性からするなら,石柱・石壇をもつ住居址を特殊な祭祀家屋であるとか司祭者家屋であるとするような位置づけは困難なのであり,ごく一般的な住居としてとらえるべきであることを再確認した。すなわち,特殊であるのはその住居にあるのではなく,石柱・石壇という祭壇状施設を住居内に設置したという時代の特性にあると考えられるのである。
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