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クエリ検索: "僧"
10,861件中 1-20の結果を表示しています
  • 中川 孝
    印度學佛教學研究
    1958年 6 巻 1 号 229-232
    発行日: 1958/01/10
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 杵築 宏典
    印度學佛教學研究
    1995年 44 巻 1 号 206-210
    発行日: 1995/12/20
    公開日: 2010/03/09
    ジャーナル フリー
  • 茶書のなかの料理 (第2報)
    福崎 春子
    家政学雑誌
    1985年 36 巻 10 号 770-778
    発行日: 1985/10/20
    公開日: 2010/03/10
    ジャーナル フリー
    In Part 1, by studying the tea-ceremony classics Nanboroku, Sennorikyu's opinion concerning meals served in the tea-ceremony was interpreted and the origin of the meals was clarified.
    Study was continued to make clear details of the served foods referring to the documents of teaceremony classics, cooking books, dictionaries which were published between the latter half of the 16th century and the first half of the 17th century and some cooking books in the 18th century.
    This report contains the study of the soups in the tea-ceremony meals which are difficult to understand with the present knowledge and disappeared in the present-day cooking. The soups were classified in two groups, i.e., the one was a side food taken with boiled rice and the other a relish taken with Sake (Japanese wine). Bean paste was usually used for seasoning of the soups and clear soup was prepared by suitably treating bean paste as soy sauce was not popular.
    In addition, cooking techniques of vegetables, birds, shellfish and so forth being used in the soups were examined.
  • 藏本 龍介
    文化人類学
    2006年 71 巻 1 号 119-133
    発行日: 2006/06/30
    公開日: 2017/08/28
    ジャーナル フリー
    The purpose of this paper is to present the concept of "sanctification" as a framework to analyze the dynamism of the interaction of monks and society in Theravada countries, by examining the cult of "Arahant" which came to the fore in the 1970s in urban Thailand. The cult of "Arahant" in Thailand is a phenomenon in which urban dwellers passionately seek to obtain monks' sacred power by going on a pilgrimage or through relics, amulets, etc., because the monks - especially Acharn MUN and his disciples - are said to have attained "enlightenment" and possess a miraculous power. TAMBIAH [1984] analyzed that phenomenon by dividing monks into two categories: (1) priest-like town-village monks who engage in learning and offer social services, and (2) charismatic forest monks who retire from the world and devote themselves to ascetic practices such as meditation. According to him, when society is stable, town-village monks, who are in the center of the society, play an important role, but when it is unstable, the charismatic power of forest monks, who are at the periphery, is called upon. Since his argument is based on structuralism, he did not treat the historical peculiarity of this case appropriately. He also disregarded the fact that there are various patterns in the monks' cult. In that sense, his argument is problematic; however, I appreciate his attitude of pursuing the universal framework in Theravada society. Therefore, while I accept his approach of generalization of that phenomenon in Thailand as my working hypothesis, in order to overcome these problems, I introduce the concept of "sanctification" as an analytical framework. According to that concept, I intend to focus on the process in which forest monks gradually become worshiped through their interaction with lay people, town-village monks and political authorities. From that perspective, I reexamined the case of Thailand as follows. The process of "sanctification" of Thai forest monks began early in the 20th century when the centralized political authorities and Buddhist order approved the forest monks' legitimacy. That is, because of that official approval, rumors flourished that Acharn MUN and his disciples were "Arahant". Later, the process of "sanctification" progressed quickly during the rapid social change of the 1970s, because city residents felt a religious desire and enthusiastically sought the transcendent power of the monks, known though the mass media that also developed at that time. Based upon that case, it can be said that the cult of charismatic monks is the social process that operates variously in the interaction between (1) the forest monks who pursue a religious goal, (2) the lay people who survive in this world, (3) the town-village monks who maintain religious legitimacy and (4) the political authority that maintains world order. Therefore, because "sanctification" is a concept that deals with that process, we can use it to analyze the historical peculiarity of a cult and treat various patterns of cults as a whole.
  • 幕末上級武家のインテリア研究①
    平井 良直
    日本インテリア学会 研究発表 梗概集
    1999年 11 巻 67-68
    発行日: 1999年
    公開日: 2022/06/01
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • 堀 正侃
    日本植物病理学会報
    1937年 7 巻 2 号 136-140
    発行日: 1937年
    公開日: 2009/04/03
    ジャーナル フリー
  • 藤平 正道, 西山 勝彦, 米山 博之
    日本化学会誌(化学と工業化学)
    1987年 1987 巻 11 号 2119-2123
    発行日: 1987/11/10
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    電子供与体(D),増感色素(S),電子受容体(A)部位を有する両親媒性化合物の単分子膜を累積することにより,新しい電気化学的ホトダイオードを作成した。本研究で用いた両親媒性化合物では,ビオロゲンが,A,ピレンあるいはポルフィリンがS,フェロセンがD,としてそれぞれ作用する。これらの三つの部位を金透明電極(AuOTE)上に空間規則的に配置する,すなわち,AIS/DあるいはD/SIAのようにAuOTE上に累積すると,光誘起された電子の流れが起こり,光電気化学セルで光電流が検知された光電流は膜のA,S,Dの空間配置に依存して方向が逆転し,これは膜のエネルギー準位図と一致した電子の流れとなっている。また,このような三層系だけでなく各層を累積した形,すなわち,AAA/SSSS/DDD,DDD/SSSS/AAAの形のホトダイオードも作製した。三層系で得られた光電流よりも大きな光電流が得られ,その方向は期待される方向と一致した。
  • *種村 正, 柴田 佳子, 塩野谷 恵美, 梨子田 佐恵子, 渡 春樹, 竹内 伸子
    超音波検査技術抄録集
    1994年 19 巻 19-12
    発行日: 1994年
    公開日: 2008/06/30
    会議録・要旨集 フリー
  • ー安房長勝寺聖教にみる孝完房良恭ー
    橋浦 寛能
    智山学報
    2017年 66 巻 _153-_168
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        本稿では、孝完房良恭という智山学匠であり地方寺僧である僧侶の修学事例を提示することで、近世後期智山学侶の修学状況の一端を示したい。
     洛東智積院を含む新義真言宗団は、江戸幕府の教学振興策もあり、諸宗派と同じく談林を軸とした修学制度のもと成り立っていた。しかし近世中後期になると、時代に合わせて制度が改変(中下り制度)され、また修学軽視(不修不学)の風潮により、論議による研鑽という教学・制度上の根幹が揺らぐ(1)。この傾向は、諸宗派全体に及ぶものとされ、談林に基づいた修学制度は最盛期と比べると、明らかにその機能を低下させる(2)。
     この時代にあって、智積院では安房国僧侶が修学・寺院運営面で大きな役割を果たしたことが知られている。その安房国僧侶が宗団を支えた主因を探る過程の中で、安房長勝寺聖教を調査させて頂く機会に恵まれ、孝完房良恭という学匠の書写聖教を披見する機会に恵まれた。孝完房良恭書写聖教は、同じく安房国出身の江戸愛宕円福寺観如房元瑜(1756~1826)・京清和院大識房宥豊(1760~1824)・智積院第三十三世唯明房隆瑜(1773~1850)といった後の能化や学匠も書写している。この良恭は『智山学匠著書目録(3)』・『密教大辞典(4)』や「智山学匠略伝(5)」(『智山全書』所収)にも取り上げられているが、著名な存在ではない。しかしながら、そこには主に安房国において修学し、田舎門徒寺院住職であった僧侶が、智積院に再住することで、越前国三国滝谷寺・安房府中宝珠院という有力談林住職となり、触頭の一つである江戸愛宕円福寺の住職になるまでの略歴が記されている。
     本稿では、『陀羅尼惣名録』をもとに近世後期智積院の修学状況を概観した上で、安房長勝寺聖教を取り上げ、孝完房良恭の事績から地方寺僧の修学事例を提示したい。そしてなぜ安房国僧侶から多数の人材が輩出されるに至ったのか、その一端を考察したい。
  • 苫米地 誠一
    智山学報
    2016年 65 巻 141-158
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
        奈良・平安期の日本仏教界における諸宗兼学は、大きく分けて「制度的な問題としての兼学」と「重層的(包摂的)な兼修という事態」とが存在する、と考える(実質的には鎌倉期まで含まれるが、室町期以降については、現在の筆者には把握できていないので、今は取り上げない。ただし「制度的な兼学」が機能しなくなっていたとしても「重層的(包摂的)な兼修という事態」は近世末まで継続していたと思われる)。ここでいう「制度的な兼学」とは、太政官符などによって知られる朝廷の律令制度(格)上の問題として規定される諸「宗」を兼学することである。しかし一方では、それとは異なる形で諸「宗」を重層的(包摂的)に位置づけた諸宗の兼学・兼修という事態が存在する。この問題については「宗」の語の意味を含めて、まだ十分な議論・認識がなされていないと思われる。この問題については、筆者も以前に少しく述べたことがあり(1)、また堀内規之氏(2)も触れておられるが、今回はそれらを踏まえた上で些か再考したい。
     ところで日本史学では、仏教が日本に伝えられた当初に「三論衆」「法相衆」と呼ばれていたものが、後に「三論宗」「法相宗」に変ったと説明されることがある。これは「宗」と「衆」とが同じ意味であることを前提とする。しかしこのような説明は、日本の史料の中のみで作られた理解であり、仏教が中国から伝えられたことや、当時の中国仏教界で「宗」の語がどのような意味であったのか、という問題を無視した議論と言えよう。或いは当時の日本人が、新しく伝えられた中国仏教について、その教理についても、教団的在り方についても、全く理解できなかったと言うのであろうか。少なくとも中国仏教において「宗」は教の意味であり、衆徒を意味する用法は見いだせない。即ち「三論衆」「法相衆」とは「三論宗(を修学する)の衆徒」「法相宗(を修学する)の衆徒」の意味、その省略形であり、そのことは当時の日本においても十分に了解されていたと考える。
     既に田中久夫氏(3)は鎌倉時代の仏教を区別するに当り「鎌倉時代に天台宗といえば、天台の教学を意味し、教団の意ではない。それゆえに、天台宗・真言宗などと呼び、教団史的に区別するのは実態に相応しない」として「現実に存在したのは、南都北嶺と真言密教の教団(寺院)と地方におけるそれらの末寺である」と指摘しておられる。もっとも南都(東大寺・興福寺)は真言宗僧が顕教諸宗を兼学する寺院となっており、決して南都と真言密教の教団(寺院)とを区別することは出来ない。どちらにしても諸宗の兼学は奈良時代の南都仏教に固有の問題ではない。平安時代から江戸時代に至るまで、以下に論ずる「制度的な兼学」と「重層的(包摂的)な兼修」の問題は別にして、諸宗の兼学・兼修は、全ての僧尼にとって日常的なものであった。そもそも「宗」が教理・信仰の意味であることを前提として、初めてこの諸宗の兼学・兼修ということが理解できる、と考える。
     「宗」を人(衆=教団)と見る理解は、明治時代に西洋的法概念が導入され、そこで定められた宗教法人法によって規定された宗派教団に対する現代的常識によって成立した理解であろう。明治期以降の宗派教団は「法人」の概念によって、夫々に独立した組織(宗教法人)を形成し、その教団名として「宗」の語を冠した。このことが古代における「宗」概念にも影響を及ぼし、何ら反省されることなく適用されてきたのであろう。しかし江戸期以前の日本仏教界では、そのような概念も組織も存在しなかった。存在したのは「宗」を同じくする者の寺院の本末関係であり、本寺が末寺を支配する、その関係が「宗」を同じくするが故に「宗=教団」が存在するように見えるのかも知れない。しかし「出家得度の儀礼に拠って入門する教団」という意味において「教団」というものを捉える時、その「教団」は四方僧伽としての出家教団でしかありえない。中国・日本において「宗」の相違は問題とはされず、同じ四分律による授戒が行われてきた。たとえ叡山の大乗戒壇が允許され、大乗菩薩戒(金剛宝戒)によって大僧(比丘)に成ることが認められたとしても、四分律か菩薩戒か、の相違によって「宗」が異なることにはならなかった。則ち「宗」毎に別箇の教団が存在する訳ではない。インド仏教において、部派によって異なる律を受持し、授戒が行われたとしても、全国を遊行した彼等は、同じ精舎に同宿し、同じ托鉢の食事を分け合っている。ただ夏安居の終りに行われる自恣のみは、同じ部派の者同士が、精舎内の別々の場所に集まって行ったとされる。これは受持している律の本文・内容が部派によって異なるからではあるが、それ以外の場面において、部派の相違が「教団」的な相違を示すことはない。それは同じ「四方僧伽という教団」内の派閥的・学派的相違に過ぎないからであろう。確かに日本では、沙弥(尼)戒・具足戒の受戒制度が崩れ、その意味では正しい四方僧伽への加入が成立し得ていないという問題が存在するかもしれない。それにしても朝廷によって補任される僧官(僧綱)は、諸宗の相違を越えて僧尼全体を統制する機関であった。僧綱位が後に名誉職化して僧綱組織の実体が無くなり、仏教界における権威(又は単なる名誉)としての機能しか持たなくなったとしても、その補任に「宗」の相違を問うことはない。
  • 嶺崎 寛子
    文化人類学
    2014年 79 巻 1 号 70-73
    発行日: 2014/06/30
    公開日: 2017/04/03
    ジャーナル フリー
  • 特に疣贅と腱索断裂について
    *高梨 昇, 田中 美由紀, 鈴木 順子, 白石 周一, 南里 和秀, 池田 紀之, 小林 久雄
    超音波検査技術抄録集
    1993年 18 巻 18-12
    発行日: 1993年
    公開日: 2008/07/05
    会議録・要旨集 認証あり
  • *岡田 由香里, 谷内 亮水
    超音波検査技術抄録集
    1992年 17 巻 17-4
    発行日: 1992年
    公開日: 2008/07/10
    会議録・要旨集 認証あり
  • *北林 明子, 種村 正, 塩野谷 恵美, 岡田 裕美子, 三浦 絵里花, 竹内 伸子, 柴田 佳子
    超音波検査技術抄録集
    1997年 22 巻 22-20
    発行日: 1997年
    公開日: 2008/05/15
    会議録・要旨集 認証あり
  • 武井 正弘
    飯田市美術博物館 研究紀要
    2000年 10 巻 33-45
    発行日: 2000年
    公開日: 2017/10/01
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • ー智積院蔵『醍醐祖師聞書』を手がかりとしてー
    宇都宮 啓吾
    智山学報
    2016年 65 巻 453-472
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/02/22
    ジャーナル オープンアクセス
    稿者は、前稿(1)において、智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』(53函8号)について、次の二つの記事を手掛かりとしながら、

    ○頼賢の法華山寺での活動
    (略)遁世ノ間囗ノ/峯堂(法華山寺)ニヲヂ御前ノ三井寺真言師ニ勝月(慶政)上人ノ下ニ居住セリ/サテ峯堂ヲ付屬セムト仰アリケル時峯堂ヲハ出給ヘリ其後律僧ニ成テ高野山一心院ニ居其後安養院ノ/長老ニ請シ入レマイラセテ真言ノ師ニ給ヘリ  (6裏~7表)

    ○頼賢の入宋 遍知院御入滅ノ時此ノ意教上人ニ付テ仰テ云ク我ニ四ノ思アリ遂ニ不成一死ヌヘシ 一ニハ一切經ヲ渡テ下●酉酉ニ置キタシ二ニハ遁世ノ公上ニ隨フ間不叶●死スヘシ 三ニハ法花經ヲ千部自身ヨミタカリシ不叶 四ニハ青龍寺拝見セムト思事不叶頼賢申テ云ク御入滅ノ後一々ニ四ノ御願シトケ申サル其後軈遁世セリ軈入唐シテ五千巻ノ一切經ヲ渡シテ下酉酉ニ經藏ヲ立テ、納也此時意教上人ハ青龍寺拝見歟不見也御入滅後三年ノ内千部經ヨミテ結願アリ四ノ事悉ク皆御入滅後叶給ヘリ(6表~6裏)
    主として、以下の如き四点について指摘した。

    ①智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』は、従来、奥書の類による確認でしか叶わない、意教情人頼賢の高野山登山前の法華山寺での活動や頼賢入宋の記事を含む新発見の「頼賢伝」資料として位置づけられる。
    ②法華山寺慶政を頼賢の「ヲヂ御前」とする記事から頼賢と慶政との関係の深さが確認できると共に、別の箇所では「意教ノ俗姓ハ日野(ヒノ、)具足也」(5裏)とする記述の存することから、頼賢の出自についても新たな資料が得られる。
    ③②を踏まえるならば、本書が慶政の出自に関わる新資料の提示ともなっていることから、慶政を「九条家」出身とする従来説との関連を考える必要が存し、その意味で、慶政の出自に関する再検討が俟たれる。
    ④本書の「頼賢伝」(頼賢の入宋と法華山寺慶政との関係)は、意教流、特に、東寺地蔵院流覚雄方相承の中において伝えられていたものと考えられる。また、本書が、家原寺聖教の一つであることから、家原寺を拠点とした律家側の資料として文章化されたものと考えられる。

     前稿においては、新たな「頼賢伝」資料の提示を中心とした、本書の紹介に主眼が存したため、本書の成立の背景や本書の記事を手懸かりとした分析には至っておらず、この点に関する検討の必要性を感じる。
     そこで、本稿においては、本書分析の一つとして、本書の成立の〝場〟について考えると共に、本書の記事を手懸かりとした東山と根来寺とを巡る問題についても検討したい。
  • *幸田 美佐, 遠田 栄一, 高師 里美, 大和 京子, 辻 浩史, 森田 勇一
    超音波検査技術抄録集
    1993年 18 巻 18-13
    発行日: 1993年
    公開日: 2008/07/05
    会議録・要旨集 認証あり
  • ー密教「聖教」の視点からー
    永村 眞
    智山学報
    2017年 66 巻 _1-_30
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        本論ではまず「鎌倉仏教」とは何かを考えておく必要がある。この「鎌倉仏教」という概念が、如何に定義されてきたのかを確認するため、「鎌倉仏教」を前面に掲げた先行研究をたどるならば、まず赤松俊秀氏の『鎌倉仏教の研究』(1957年)・『続鎌倉仏教の研究』(1966年)があげられる。両著は、「親鸞をめぐる諸問題」・「一遍について」・「慈円と未来記」、「親鸞をめぐる諸問題」・「源空について」・「覚超と覚鑁」・「愚管抄について」・「神像と縁起」等の論文をおさめ、主に浄土門の研究が「鎌倉仏教」の柱とされ、遁世者を通して顕教を見るという研究視角をとっている。次いで佐藤弘夫氏の『鎌倉仏教』(1994年)では、「法然の旅」・「聖とその時代」・「異端への道」・「仏法と王法」・「理想と現実のはさまで」・「襤褸の旗」・「熱原燃ゆ」・「文化史上の鎌倉仏教」等の論文において、顕・密を意識しながらも、浄土・法華に傾斜した関心とその展開を図っている。さらに仏教学・思想史という立場から書かれた末木文美士氏『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』(1998年)には、教理史へのこだわりのもとで、「鎌倉仏教への視座」・「顕と密」・「法然とその周辺」・「明恵とその周辺」「本覚思想の形成」・「仏教の民衆化をめぐって」等、黒田俊雄氏が提唱した「顕密仏教」の概念に基づく一連の研究への批判と対案の模索がなされている。
     これら三氏の先行研究のみで結論を導くことは憚られるものの、いずれも「鎌倉仏教」という要語について明確な規定はなされておらず、「鎌倉」時代に展開した「仏教」という枠を越えるものではない。また時系列で「鎌倉仏教」と連結する「平安仏教」と関連付ける試みについても、共通理解が得られたとは言えない。また先行研究に共通するものは、祖師・碩学の著述によって「鎌倉仏教」の性格付けが試みられており、その検討作業のなかで、厚みのある仏教受容の検討、つまり僧侶集団による受容の解明は必ずしも重視されてこなかった。
     「鎌倉仏教」を規定する上で、時系列上の存在意義、教学的な特質、社会的な受容のあり方など、その特異性を見いだすための指標は想定されるものの、それらを明快に語り尽くした研究は見いだし難く、また容易に解明できる課題とも思えない。
     この「鎌倉仏教」を内包する中世仏教のあり方を検討する上で注目すべき成果は、黒田俊雄氏により提唱された「顕密仏教」という概念である。日本仏教史において通説として根付いていた「鎌倉新仏教」と「鎌倉旧仏教」の歴史学的な評価を大きく変えたのが、同氏の『日本中世の国家と宗教』・『王法と仏法』・『寺社勢力』等の一連の著作であった。黒田氏は、「密教」を基調に顕教が教学的に統合されるという認識を踏まえ、宗派史を越えた仏教史の構想のもとに、実質的に聖俗両界で正統の位置をしめる「顕密仏教」(「旧仏教」)と、異端派(「新仏教」)との対照を顕示した。すなわち中世に受容された仏教の正統として「旧仏教」を位置づけ、政治史(国政史)と密着した仏教のあり方こそが「顕密仏教」の正統たる所以とする。ここに顕在化する「正統」と「異端」の両者が分岐する時代のなかに「鎌倉仏教」の特質を見いだしたとも言える。しかし「正統」と「異端」という二極化した理解に対して、「異端」とされた浄土宗・真宗研究の側からの反論に加えて、両極化では説明しきれない多様性が、伝来した膨大な寺院史料の中から明らかになっている。
     そこで中世仏教、とりわけ「鎌倉仏教」を、黒田氏の提示した密教を基盤におくとする仏教継承の母体としての寺院社会という側面から見るとともに、その検討素材として寺院史料の中核をなす教学活動の痕跡とも言える「聖教」に注目したい。諸寺院に伝来する多彩な「聖教」から、二極化では説明しきれない幅広い仏法受容の有様が実感される。すなわち「寺」・「宗」派という枠を越えた「聖教」の実相から、中世における仏法受容の多様性を検討する可能性を見いだすことにしたい(1)。
     ここで「聖教」の語義であるが、本来ならば釈尊の教えを指すが、併せて諸宗祖師の教説へと拡がり、さらに「諸宗顕密経論抄物等」(「門葉記」巻74)という表現に見られる、寺僧による修学・伝授・教化に関わる幅広い「抄物」等の教学史料という広い意味で用いられるようになり、しかもその語義は時代のなかで併存していた。そこで近年の研究・調査においても使われる、「寺僧の修学・伝授・教化等のなかで生まれた多様な教学史料」という広い意味で「聖教」を用いることにする。
     本論では、諸寺に伝来する「聖教」を素材として、層をなす僧侶集団が修学活動のなかで如何に仏法を受容し相承したのか、特に真言「密教」を中核にすえ、一側面からではあるが時代に生まれた特徴的な現象に注目して「鎌倉仏教」の特質を検討したい。
  • *谷内 亮水, 岡田 由香里
    超音波検査技術抄録集
    1992年 17 巻 17-8
    発行日: 1992年
    公開日: 2008/07/10
    会議録・要旨集 認証あり
  • *安田 智美, 茂木 伸之, 三澤 哲夫
    日本人間工学会大会講演集
    2009年 45spl 巻 1F3-1
    発行日: 2009年
    公開日: 2011/05/20
    会議録・要旨集 フリー
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