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クエリ検索: "博覧会"
9,909件中 1-20の結果を表示しています
  • 中野 朋子
    大阪歴史博物館研究紀要
    2018年 16 巻 001-017
    発行日: 2018年
    公開日: 2021/04/01
    研究報告書・技術報告書 フリー
    大正二年(一九一三)夏、天王寺公園で「関西教育
    博覧会
    」が開催された。この
    博覧会
    は「教育」を主題とした日本で初めての
    博覧会
    であるものの、これまでの
    博覧会
    研究においてはほとんど注目されることがなく、したがって同
    博覧会
    に関する研究や報告は皆無である。本稿では、地方に活動の根幹を置いた「名家」が各地の美術工芸振興や
    博覧会
    の開催にあたってどのような役割を果たしたのかについて調査を進めていくなかで明らかとなった「関西教育
    博覧会
    」の開催経緯や運営組織、展観事業の概要について報告するとともに、同
    博覧会
    の開催にあたって大阪の「名家」がどのような関わりを持ったのかについて言及した。
  • 伊藤 真実子
    史学雑誌
    2008年 117 巻 11 号 1981-1989
    発行日: 2008/11/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
    博覧会
    に関する研究は歴史学のみならず多方面から進められ、業績は厚みを増している。このことから現時点における
    博覧会
    研究の動向を整理し、その意義をふりかえってみることには意味があろう。
    博覧会
    研究は、一九、二〇世紀に各国で開催された万国
    博覧会
    を対象としたものがその中心となっている。とりわけ開催国となったアメリカ、イギリス、フランスで一九八〇年代から、日本国内では一九八〇年代後半から研究が盛んになってきている。欧米における研究は開催国の視点からのそれを中心としている。日本での研究は、日本における初めての万博開催が一九七〇年であったことから、そこにいたるまでの時期における万博参加の経過ならびに、そこで得られた参加経験から導かれた内国勧業
    博覧会
    の開催にかかわる問題群を中心にすえて進展してきた。本稿では、まず欧米における万国
    博覧会
    研究の動向をおさえ、次いで国内における
    博覧会
    研究の動向について考察を加えてみたい。
  • *荒山 正彦
    日本地理学会発表要旨集
    2013年 2013s 巻 S0606
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     「地域文化」の生産・流通・消費というそれぞれの局面において,近代の
    博覧会
    が果たした役割は大きい。そこで本発表では,1918(大正7)年に北海道開拓50周年を記念して開催された開道五十年記念北海道
    博覧会
    を事例としてとりあげたい。 近代以前の北海道は島の先住民(アイヌ)によってアイヌモシリと呼ばれ,和人(日本人)によって蝦夷地と記されてきたが,明治政府による開拓史設置(1869・明治2年)に伴い「北海道」と命名された。この命名は,伝統的な地域名称の五畿七道という考え方が踏襲されたものである。 したがって,北海道という地域名称のもとで「地域文化」が生産・流通・消費されるのは,この命名以降のことである。こうして近代日本の版図に加えられた北海道は,台湾や満洲のような「植民地」ではなかったが,日本内地とは異なる「外地」という地理的空間として表象されてきた。 一方で,およそ18世紀からはじまった
    博覧会
    は,19世紀から20世紀にかけてさまざまな社会状況の下で開催可能な「近代の文法」として世界各地へ広がった。グローバルな規模の
    博覧会
    としては,周知のように1851年のロンドン万国
    博覧会
    にはじまる系譜が存在する。 近代日本における
    博覧会
    は,1871(明治4)年の京都
    博覧会
    や翌1872(明治5)年の湯島聖堂
    博覧会
    を嚆矢とし,前述の万国
    博覧会
    に参加することを契機として,5回にわたる内国勧業
    博覧会
    (1877・明治10年~1903・明治36年),東京勧業
    博覧会
    (1907・明治40年),東京大正
    博覧会
    (1914・大正3年),平和記念東京
    博覧会
    (1922・大正11年)などの大規模な
    博覧会
    が開催された。入場者数が1000万人を超えた平和記念東京
    博覧会のような国家規模での博覧会
    があった一方で,全国各地でローカルな規模の
    博覧会
    も数多く開催され,たとえば明治期から1940年代はじめの昭和戦前期までに開催された日本での
    博覧会
    は200回を超える。開道五十年記念北海道
    博覧会
    はその一例となる。 他方で近代日本における
    博覧会
    の系譜には,京城
    博覧会
    (1907年),台北物産共進会(1908年),市制十周年記念大連勧業
    博覧会
    (1925年),施政二十年記念朝鮮
    博覧会
    (1929年),満洲大
    博覧会
    (1933年)のように,外地や植民地において開催された
    博覧会
    も少なくない。本発表でとりあげる北海道での
    博覧会
    は,いわゆる内地の
    博覧会
    の系譜に属しながらも,他方では外地/植民地での
    博覧会
    の系譜にも属している。 開道五十年記念北海道
    博覧会
    は,1918(大正7)年8月1日から9月11日までの50日間にわたり,札幌区と小樽区の三つの会場において開催された。期間中の観覧者数は140万人を超え,北海道内からばかりではなく,内地や北海道以外の外地/植民地からの観覧者もあった。これは同時期におけるローカルな
    博覧会
    としてはきわめて規模の大きなものであったといえる。 
    博覧会
    の開催にあわせて,あらたに『北海道史』の編纂がすすめられ,また北海道におけるツーリズム進展の契機ともなった。
    博覧会
    の開催は,限られた会場内ばかりではなく,開道から50年目を迎えた北海道全体の地理的空間へも大きなインパクトを有していた。本発表では,1980年代以降の
    博覧会
    研究の成果を踏まえながら,北海道全体を示すような「地域文化」や,さらにミクロなスケールでの「地域文化」が,
    博覧会
    を通してどのように生産され,流通し,消費されたかについて整理したいと考える。【文献】河西晃祐(2006)「南洋スマラン植民地
    博覧会
    と大正期南方進出の展開」日本植民地研究18,pp.18~34.國雄行(2005)『
    博覧会
    の時代:明治政府の
    博覧会
    政策』岩田書院,285p.パトリシア・モルトン[長谷川章訳](2000=2002)『パリ植民地
    博覧会
    :オリエンタリズムの欲望と表象』ブリュッケ,373p.山路勝彦(2008)『近代日本の植民地
    博覧会
    』風響社,314p.山本佐恵(2012)『戦時下の万博と「日本」の表象』森話社,325p.吉田光邦編著(1985)『図説万国
    博覧会
    史1851-1942』思文閣出版,196p.吉田光邦編著(1986)『万国
    博覧会
    の研究』思文閣出版,357p.
  • *根本 宏
    化学工学会 研究発表講演要旨集
    2005年 2005 巻 R113
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/08/30
    会議録・要旨集 フリー
  • 戦前期の国内建築専門誌における博覧会記事の研究
    夏目 欣昇
    日本インテリア学会 論文報告集
    2018年 28 巻 99-106
    発行日: 2018年
    公開日: 2022/06/01
    ジャーナル オープンアクセス
    本研究は第二次世界大戦前に開催された主要
    博覧会
    に関する批評傾向を『建築雑誌』,『建築と社会』,『建築世界』,『国際建築』,『新建築』を分析資料として考察することを目的とする。分析手順は以下である。1)分析資料における
    博覧会
    記事の採録傾向を分析した。2)
    博覧会
    記事における批評対象語を抽出・分類し,経年推移を分析した。3)
    博覧会
    記事のキーセンテンスにより主張を分析した。結論を以下に示す。1)分析期間における日本では常に万博の開催が意識されていた。2)建築様式に関する記事に注目した結果,新しい建築に対する意見が強く主張された。3)
    博覧会
    建築は分析期間を通じて,西洋様式の模倣が否定的に扱われ,1930年代以降は機能的,経済的合理化が進んだ。
  • 佐久間 恵二
    産業連関
    1990年 1 巻 3 号 66-70
    発行日: 1990年
    公開日: 2015/08/29
    ジャーナル フリー
     近年,全国各地において
    博覧会
    等の各種イベントが盛んに行われている。各自治体等はそれぞれの地域産業連関表を利用してこれらイベントの経済波及効果を計測しているが,本稿は,昭和62年に仙台市で開催された「未来の東北
    博覧会
    」を例に,このような地域産業連関分析の事例を紹介する。なお,試算結果をみると,同
    博覧会
    は,東北地域に約1,200億円の生産と約7千人の雇用を誘発したものと推測される。
  • 博覧会報道における台湾へのまなざしに注目して
    中西 美貴
    ソシオロジ
    2008年 52 巻 3 号 105-121,232
    発行日: 2008/02/29
    公開日: 2015/06/06
    ジャーナル フリー
     Though many studies have examined the relationship between the Japanese Empire and its colonies, few have addressed the exotic gaze which urban dwellers cast upon the colonized. Therefore, this paper aims to explore the relationship between the Japanese people and the exhibited colonial other. Through official colonial exhibitions, the Japanese authorities attempted to ‘guide’ the Japanese subjects’ view of the colonized. Meanwhile, newspaper reports covering two colonial exhibitions - held in 1903 and in 1912 - reflect the way in which Japanese patrons saw the colonized. This paper will show how hegemonic colonial ideas propagated by the colonial authorities were reinterpreted by the common people. In 1903, eight years after the First Sino-Japanese War, in the Fifth National Industrial Exhibition, the Taiwan Governor General’s Office attempted to present the island as the “honor of the Empire.” At first, consistent with the expectations of the exhibition’s organizers, Japanese patrons appeared to be in awe of the main attraction, namely the Taiwan Pavilion. However, it seemed that for many Japanese patrons, the most attractive “exhibits” were not those that had been prepared by the colonial government, but the waitresses in a Taiwanese café and restaurant that had been set up by private Japanese businessmen. Instead of seeing Taiwan as an island full of natural resources - which had been the original intention of the exhibition’s organizers - the Japanese patrons cast a very different gaze upon the colonized. The Colonization Exhibition in 1912 was held with the purpose of showcasing Japan’ s various political and economic accomplishments in its colonies, in order to attract private investors. However, the attention of Japanese audiences was drawn by an aboriginal Taiwanese tour group that had traveled to Japan upon the invitation of colonial authorities.They were not a part of the official exhibition, but were viewed by most Japanese people as a part of it, and they became the focus of the Japanese media. This small group of Taiwanese indigenous people came to represent Japan’s popular imagination of the Empire’s civilizing mission in a savage, tropical land. All in all, Japanese patrons of these exhibitions did not see the whole colony, as if the Empire’s understanding of the colony was also a partial one. Their limited understanding thus helped to construct the cultural edifice of the Japanese colonial empire. However the gap between the Empire’s expectations and people’s perceptions of the colony remained.
  • *野中 勝利
    都市計画論文集
    2006年 41 巻 153
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/01/05
    会議録・要旨集 フリー
    本研究の目的は明治初期に城跡で開催された
    博覧会
    の意義や意図を明らかにすることである。研究の対象は、松本、甲府及び岡山である。松本では、
    博覧会
    を継続的に開催することで、天守閣の保存と活用を図った。甲府では、
    博覧会
    が山梨県による勧業の一環として位置づけられた。 岡山では期間限定の
    博覧会
    から常設の博物館の設置へとつなげる意図があった。各
    博覧会
    とも、
    博覧会
    の開催を通じた目的は城跡の開放にあった。城や天守閣という前近代の為政者の権威的象徴の空間を
    博覧会
    の場とすることは、近代社会への変革を空間体験として知覚する機会となった。
  • 林 品章
    デザイン学研究
    2000年 47 巻 4 号 79-88
    発行日: 2000/11/30
    公開日: 2017/07/21
    ジャーナル フリー
    本研究は、1935年に開催された「始政四十周年記念台湾
    博覧会
    」の目的、企画ならびにデザインを探究し、その歴史的意義について考察するものである。研究の結果以下のことが分かった。(1)日本政府は、この
    博覧会
    の開催を通して、国際社会に日本政府の台湾建設における各種の進歩状況を知らせると同時に、台湾民衆の心を日本政府に向けようとする意図があった。(2)この
    博覧会
    の展覧に出したものの規模は大きく、また、宣伝組織は細密、デザイン計画は詳細であり、全体的なデザインに関する仕事は専門家によって制作された。(3)
    博覧会
    に参与したデザイナー、あるいはデザイン会社は大多数が日本人であったが、そのプロ意識と仕事に対する姿勢は学ぶに値するものであった。(4)台湾
    博覧会
    は、台湾有史以来唯一の国際的な
    博覧会
    であり、台湾における視覚伝達デザイン史上重要な役割を果たした。
  • 中川 麻子
    デザイン学研究
    2012年 59 巻 4 号 4_1-4_10
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/01/17
    ジャーナル フリー
    明治 20年代から後期の国内外の
    博覧会
    に出品された美術染織作品に焦点をあて、考察を行なった。国内外7
    博覧会
    に出品された染織作品について、作品の特徴、形式変遷、制作背景を調査した。その結果、以下のことが明らかになった。 1890(明治23)年第3回内国博には実用的な品を中心に出品されていたが、1893(明治26)年シカゴ万博に出品された大型かつ鑑賞目的の染織作品が高く評価されたことを受け、1895(明治28)年第4回内国博には、より絵画的表現の強い作品が出品された。作品は絶賛され、美術染織の制作は最盛期を迎えた。しかし1900(明治33)年パリ万博では美術部出品が認められなかった。これを契機に美術染織作品は徐々に小型化すると共に実用性が復活した。さらに明治時代後期には、多様な作品形式へと変化した。この作品傾向と形式の変化から、シカゴ万博からパリ万博までを「前期美術染織」とし、第5回内国博以降を「後期美術染織」とした。
    また内国博出品者の調査から、美術染織の制作は京都の染織業者に限定され、特に
    博覧会
    事務に関連のある特定業者が、美術染織制作の中心的立場にいたことが明らかになった。
  • 大日本窯業協會雑誌
    1930年 38 巻 452 号 511-512
    発行日: 1930/08/01
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
    リエジ市の萬國
    博覽會
    及び英國のウヰヂウツド二百年祭へ我が大日本窯業協會を代表して出席し白熱的奮闘を續けられつゝある日野厚氏は同
    博覽會
    審査要務のため目下再び白國ブラツセル市に滯在の由なるが先般巴里に於ける同氏より本會理事宛次の書信に
    博覽會
    場内のスナツプシヨヅト十數葉を添へて寄せられた。氏の了解を得た譯ではないが非常に興味ある事柄なので茲に其原文を掲載することゝした (編輯)。
  • 加藤 千
    大日本窯業協會雑誌
    1926年 34 巻 405 号 438-439
    発行日: 1926/09/20
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 小野 良平
    ランドスケープ研究
    1995年 59 巻 5 号 25-28
    発行日: 1996/03/29
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    博覧会
    は一つの都市的虚構ということができ,
    博覧会
    の開催されたそれぞれの時代は, 建築物や工作物のデザインばかりでなく会場計画全体に敏感に反映されるものと考えることができる。本稿では, 明治期の急速な近代化の中で国家が主導的に進めた内国勧業
    博覧会
    の会場計画における空間デザインの面に着目し, わが国の近代化のなかでの外部空間デザイン思想の一つの様相を探ることを試みた。その中で近代の知覚の変革を啓蒙しようとする近代西欧的空間と
    博覧会
    の祝祭性を演出する伝統的空間とがともに計画者によって意識的に設定されていたこと等が明らかになった。
  • 田中 浩太郎
    電氣學會雜誌
    1970年 90 巻 6 号 975-983
    発行日: 1970/06/20
    公開日: 2008/11/20
    ジャーナル フリー
  • 正木 一成
    日本造船学会誌
    1989年 719 巻 303-
    発行日: 1989/05/25
    公開日: 2018/04/05
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 21世紀を目指す科学技術の新しいイメージを
    田中 豊夫
    テレビジョン学会誌
    1983年 37 巻 5 号 375-380
    発行日: 1983/05/20
    公開日: 2011/03/14
    ジャーナル フリー
    1985年3月から半年間にわたり, 茨城県筑波研究学園都市において「国際科学技術
    博覧会
    -EXPO'85」が開催される. “人間・居住・環境と科学技術” を基本テーマに置き, 21世紀を目前にひかえた最新の科学技術の成果を我々の身近に体験させ, 新しい世紀を展望する視点を確かなものとする催しとして期待されている.
  • 伊藤 孝紀, 三上 訓顯
    デザイン学研究
    2007年 54 巻 4 号 81-88
    発行日: 2007/11/30
    公開日: 2017/07/11
    ジャーナル フリー
    本研究では、環境演出特性の一端を明らかにすることを研究目的とする。そのために、愛知博で実施された705件の催事を研究対象とし、催事要因からのアプローチによる催事空間を考察してゆくこととした。考察過程は、先ず、過去に実施された
    博覧会
    催事と比較した。次に、催事要因の抽出目的に705件の催事をサンプルとして、9アイテム28カテゴリーを設定し、集計したデータを用いて主成分分析を行った。その結果、「催事主体要因」「催事要素構成要因」「催事運営要因」を抽出でき、愛知博の催事要因において装置が主導的役割となっていることがわかった。催事要因で抽出された主成分得点を用いて、一元配置分散分析により催事空間について考察を進めた。その結果、広場や通路といった屋外空間では、可変的な仮設或いは移動機能をもった装置を用いて、演者と参加者を巻き込んだ一つの環境を形成していることがわかった。以上より、愛知博の催事における環境演出特性とは、参加者の催事体験を誘発する催事空間の装置がもつ、「移動性」「可動性」であることを明らかにした。
  • 野中 勝利
    都市計画論文集
    2006年 41.3 巻 911-916
    発行日: 2006/10/25
    公開日: 2018/06/26
    ジャーナル オープンアクセス
    本研究の目的は明治初期に城跡で開催された
    博覧会
    の意義や意図を明らかにすることである。研究の対象は、松本、甲府及び岡山である。松本では、
    博覧会
    を継続的に開催することで、天守閣の保存と活用を図った。甲府では、
    博覧会
    が山梨県による勧業の一環として位置づけられた。岡山では期間限定の
    博覧会
    から常設の博物館の設置へとつなげる意図があった。各
    博覧会
    とも、
    博覧会
    の開催を通じた目的は城跡の開放にあった。城や天守閣という前近代の為政者の権威的象徴の空間を
    博覧会
    の場とすることは、近代社会への変革を空間体験として知覚する機会となった。
  • 初期の造園
    佐藤 昌
    造園雑誌
    1985年 49 巻 3 号 167-188
    発行日: 1985/02/28
    公開日: 2011/07/19
    ジャーナル フリー
    近年日本の伝統様式の庭園が諸外国で築造せられ, 高い評価を受けている。 これについては, 長い間の書籍, 見聞記, 広報, 写真, 映画等の情報の集積によるものであるが, 国際的評価を得る主な原因は, 彼等が実際に造られた日本造園を自分の国で実際に見る機会を得ることである。 本稿は, 諸外国で行なわれた万国博等に我国が出展した庭園及び日本に旅行滞在した外国人が自らの庭に作った初期のものを考察するものである。
  • 中川 麻子
    デザイン学研究特集号
    2012年 19 巻 4 号 50-59
    発行日: 2012/09/15
    公開日: 2017/11/27
    研究報告書・技術報告書 フリー
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