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クエリ検索: "吉町太郎一"
10件中 1-10の結果を表示しています
  • 五島 寧
    土木史研究
    1999年 19 巻 53-62
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This study clarified about the block formation at Báng-kah and Töa-tiü-tiâ n in Tâi-pak under Japanese rule. Old Tâi-pak (Taipei; at present) was constituted by three urban districts; Sia-lai (walled city), Báng-kahand Töa-tiü-tiâ n Inside Sia-lai, the existing streets were utilized by improvement. In contrast, the existing streets and the planned streets was lack of relation in the two another urban districts. In Töa-tiü-tiâ n that was clearness comparatively, utilized existing street prescribed the north and south axial block formation, but dirty Bang-kah streets were remodeled into standardized grid pattern. The aim of blockformation in Báng-kah was hygiene environment improvement by application of existing facilities instead of accession of traditional urban district structure.
  • 渡辺 明, 出光 隆, 大神 龍馬, 飯田 一雄
    土木学会論文集
    1968年 1968 巻 153 号 19-30
    発行日: 1968/05/20
    公開日: 2009/12/18
    ジャーナル フリー
  • 山根 巌
    土木史研究
    1996年 16 巻 531-540
    発行日: 1996/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    旅足橋は、木曽川中流の岐阜県八百津町において、丸山ダム [関西電力] の設置に伴う補償代替道路として、木曽川支流旅足川の合流点に、1954年 [昭和29年] に架設された「下路型単径間補剛トラス吊橋」である。支間114m、幅員4.5mで、支間の中央二分の一部分の補剛トラス上弦材を主ケーブルが兼用した、合理的な吊橋である。
    この吊橋は、アメリカの吊橋の大家D.B.Steinman博士の設計により、1926年ブラジルに架設された南米最大の吊橋Florianopolis橋の型式を導入した特異な吊橋であり、世界で5橋架設されているが、我が国では唯一の型式である。
    現在は、国道418号線のバス路線の一部として、地域交通の要となっているが、洪水防禦を目的とした新丸山ダム [高さ122.5m] の嵩上げ工事の為に、2002年 [平成14年] には撤去の予定となっている。
    ここでは、旅足橋のこの型式への選定の背景と、吊橋としての歴史的、技術的な意義を検討して報告する。
  • 佐藤 浩一
    土木学会論文報告集
    1971年 1971 巻 190 号 11-22
    発行日: 1971/06/20
    公開日: 2010/02/25
    ジャーナル フリー
  • 文献調査委員会
    図学研究
    1983年 17 巻 1 号 25-32
    発行日: 1983年
    公開日: 2010/08/25
    ジャーナル フリー
  • 五島 寧
    土木史研究
    1998年 18 巻 103-116
    発行日: 1998/05/01
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This study clarified about the block formation inside Thi-pak-sian (Taipei Castle) under Japanese rule.The frame of Tai-pak-sianhad been constituted by walls and streets. The Government-General tried to improve the urbansanitation with utilizing the frame. As a result Three-Tracks-Street was built at the place that castle wall had been built, and the major streets continued to exist. However, the direction effected by Peng Shui also continued to exist; these instances do not mean accession of traditional space order. The plan was merely the utilization of existing geographical features; because traditional planning philosophy had not been considered.
  • 長谷川 博, 天ヶ瀬 恭三
    土木史研究
    1991年 11 巻 289-299
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    著者は第9回, 第10回土木史研究発表会で, 明治期の攻玉社 (工学校) について断片的に発表した。この論文では、同校に残存する史科その他に基づいて、同校と学制との関係, 生徒の実態, 土木教育の内容, 勉学状况, 就職状況などについて調べた。
    また, 同校の同窓会誌が土木総合雑誌として, 会員数の約8倍の部数が頒布されていたこと, また, 明治39年~明治40年に農商務省委託耕地整理技術講習所が開講されたことについても調査した。
    これらの調査かち, 明治期の青少年が機会を求めて勉学し, それぞれの道を開拓していった様子の一端がうかがえると思う。そして, その人達が当時の殖産興業・国土開発の第一線を担ったのである。
    今回は, 他の土木関係の学校についても, 比較検討して見たいと思ったが果せなかった。
  • 浅井 章治, 村瀬 勝美, 社本 英, 水野 孝
    土木史研究
    1991年 11 巻 319-325
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    納屋橋は、名古屋市の中心部を南北に流れる堀川に架かる橋長27m.幅員30mの鋼桁橋である。この橋は慶長15年(1610年)の名古屋の誕生と同時に架けられ、以後数次にわたる改築を経て現在の姿になっている。
    380年間ひたすら名古屋のまちの発展を支えてきた納屋橋は、明治43年から大正2年にかけての改築で、それまでの木橋から近代的な鋼アーチ橋に生れかわり、花崗岩の重厚な親柱や郷土三英傑の家紋を配した鋳物の高欄、橋の中央部に設けられたバルコニーなど、当時の社会情勢を反映した豪華なものであった。
    当時の名古屋市民は、この新しい橋が誕生したことを歓迎し、橋の開通式には多数の市民が参加したと記録されている。以後、この橋は名古屋のメインストリートである広小路通りとともに市民に親しまれ、周囲の街の発展にも大いに貢献してきた。
    橋梁景観という言葉が目新しかった昭和50年代初期に、納屋橋が当時の幅員21.8mから都市計画幅員である30mに改築されることになったが、この橋の歴史が橋の修景に大きなインパクトを与える事になった。
    橋梁形式はアーチから桁橋になったが、外見上はアーチ形式の飾り桁の採用や高欄の修復、親柱の復元等、明治から大正にかけて改築された当時の姿をほぼそのまま再現したものであるが、これからの橋梁景観の整備に一つの指針を与えるものである。現在の納屋橋を歴史という観点から再評価してみると、(1)技術・素材・意匠などにおいて、時代の節目を伝える土木文化財、(2)名古屋のまちの歴史を伝える記念碑であるという事ができる。また、景観整備という観点からは、(3)整備の一手法として復元の在り方を示す、(4)明治の情緒を今に伝える橋であるということができる。
    名古屋の堀川には納屋橋の架設と同時に六橋が架けられたが、これらの修景についても以上の経験が生かされるとともに、今後に計画されている堀川の環境整備や周辺の都市景観の整備にも生かされることが期待される。
  • 現存最古の本町橋 (大販市) と2番目に古い西谷見附橋
    伊東 孝
    土木史研究
    1991年 11 巻 123-130
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    四谷見附橋のアーチ本体は、多摩ニュータウンに保存が決まり、目下、来年度末の完成をめざして工事中である。これに先立ち、四谷見附橋の保存について土木学会内に委員会が設置され、矯の移築保存に関する検討がなされた。筆者が過去におこなった調査研究では、主に東京の橋梁史のなかでの意義づけにとどまっていた。しかし今回の作業では、わが国のれいめい期における四谷見附橋の土木史的価値があきらかになった。
    また現存する他の貫重なスチール・アーチ橋についても、その意義づけをすることができた。
    主要な内容は、次の3点である。
    (1) 現存最古のスチール・アーチ橋:木町橋(大阪市)の存在があきちかになったこと
    (2) 四谷見附橋は、本町橋よりもわずか4ケ月遅れの2番謝こ古いスチール・アーチ橋であること
    (3) 明治期架設のスチール・アーチ橋が、コンクリートを巻かれてメラン式コンクリート橋として現存すること
  • 原田 準平
    地学雑誌
    1985年 94 巻 4 号 266-281
    発行日: 1985/08/25
    公開日: 2010/10/13
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