1997年に「臓器の移植に関する法律」が国会において可決されたにもかかわらず,脳死からの臓器移植が日本においていまだ普及しているとは言えない。その理由としてはさまざまな要因を挙げることができるが,その中の一つとして日本において脳死の問題が社会のレベルにおいて決着がつけられていない点を挙げることができよう。それに対して米国ではこの問題に関して連邦レベルにおいて,明確な判断がなされた上で,脳死からの臓器移植が進められてきた。
それでは何故にこのような差が生じてきたのであろうか?よくいわれるような国民性の差だけなのであろうか?この点だけにそれを求めることには疑問がもたれる。むしろ本稿ではそれを両国間の“議論のされ方”に求ある。米国がこの問題を,公共政策として取り上げたのに対し,日本は死生観の問題として議論されることになったのである。
しかしこの公共性としての議論と死生観としての議論との差は,(1)医学・医療の領域,(2)法の領域,(3)文化の領域といった3つの領域における両国間の差から生じることになったものである。このように両国間における議論の経緯を比較することによって,日本における脳死・臓器移植問題を単なる感情論ではなく,そこに存在するより広範な社会的問題として浮き彫りにすることができるのである。
抄録全体を表示