1.研究目的
奈良県天理市は,
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の本部が所在し,市域には数多くの
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施設が立地する。そのため,天理市は日本を代表する宗教都市であるとされる。天理市の都市形態や
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景観については多くの先行研究がある。西田(1955)は,宗教都市のモデルケースとして市制直後の天理市の都市計画について分析を行った。研究のなかで地形図を用いて都市の拡大の様子を明らかにするとともに,詰所にも着目し,その件数と収容可能人数の増加を示した。シュヴィント(1978)は,天理市を紹介するなかで
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信徒の様子や教団施設,中心商店街の特色について論じている。桑原(1970)は天理市と
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の関係性に着目するなかで,明治後半に三島の市街地化が急速に進んだ一方で旧市街の丹波市の成長が止まっていることや,詰所が教会本部から周囲に移動していることを地籍図から明らかにした。また,商店街の業種調査から門前町の特色を確認し,旅館がほとんど存在しないがゆえに詰所の機能が徹底していることを裏付けた。浮田(1975)は奈良県内の他都市と比較することで,天理市の特色を確認した。
上記の先行研究では,主に天理市の宗教都市としての特徴について論文執筆当時の状況をもとに明らかにしている。都市の形成過程について触れたものもあるが,
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施設の分布から都市の形態に着目するにとどまり,その景観的特徴の変遷については明らかにされていない。一方,建築学においては,五十嵐(2007)が
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建築の変遷や様式の特徴について論じ,
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建築は入母屋屋根・千鳥破風という様式であり,大正期に建築された神殿のデザインを模倣し,現在まで取り入れられていることを明らかにした。
本研究では、
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関連施設の立地展開を含めて,
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景観の変遷を明らかにすることを目的とする。対象とする期間は大正期から昭和30年代とする。期間の設定理由は資料的制約もあるが,最初期の
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主要施設の建設が終了した時期からおやさとやかた建設期までを含んでおり,当初の景観から現在の様式の景観が成立するまでの変遷を追うためである。なお,
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景観とは,①信仰にかかわる施設②教団運営にかかわる施設③信者の子弟の教育施設④信者等の宿泊施設によって構成された景観と定義し,位置を含めて考察する。
2.研究資料
大正期から昭和戦前期までの
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施設の分布と景観を分析する資料として,
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道友社編輯部編『
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地場案内』1921,
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綱要編纂委員会編『
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綱要』1929-1931,1933-1934,
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教庁総務部調査課編『
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職員録』1936に掲載された
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本部周辺の案内図と中川東雲館『
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写真帖』1915の写真を用いる。また,
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施設のなかでも信徒等の宿泊施設である詰所に着目し,景観的特徴について「天理市都市計画図1/3,000(1953年1月測図,1962年3月修正)」や二代真柱・中山正善の講話をもとに明らかにする。
3.結果と考察
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景観は,大正期から昭和戦前期にかけて,信仰にかかわる施設や教団運営施設が神苑及びその周囲に位置し,それらを取り囲むように詰所が立地,教育施設が外延部に位置するという形態であった。そして,
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施設のなかでも特に詰所の分布が教会本部から離れる形で広がったことにより,
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景観も拡大した。また,詰所は囲いや広い敷地など,一般の民家とは異なる特徴をもっていた。しかし,詰所の建物に関する基準はなく,本来は統一性がなかったが,現在はおやさとやかたに用いられている屋根様式を取り入れることで,特徴的な
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景観を構成している。
詳細は,発表で報告する。
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