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クエリ検索: "天理教"
898件中 1-20の結果を表示しています
  • 天理教里親へのインタビュー調査をもとに
    桑畑 洋一郎
    福祉社会学研究
    2020年 17 巻 111-133
    発行日: 2020/05/31
    公開日: 2021/06/23
    ジャーナル フリー
     本研究は,里親として児童を養育している
    天理教
    信者である
    天理教
    里親に注目し,
    天理教
    里親が,自身の里親養育実践に対して,
    天理教
    信仰との関連でどのような意味を付与しているのか, インタビュー調査をもとに考察することを目的とする.このことは, 里親の一定割合を占める
    天理教
    里親に関する研究がまだほとんどない状況において意義深いものとなる. またそこから,宗教や信仰と福祉実践との関係の研究に知見を提供することも可能となり, その点においても意義深い.
     
    天理教
    里親の語りへの分析の結果,以下のことが明らかとなった. 第1 に
    天理教
    里親は,信仰に基づいて人助けを実践してきたことを基盤とし, その延長線上で里親養育を開始していること,第2 に里親の立場性においては, 他の里親と異なり〈時間的非限定性〉と〈関係的非限定性〉があること, 第3 にそうした
    天理教
    里親特有の〈時間的非限定性〉〈関係的非限定性〉を生じさせているのには, 他の里親とは異なる
    天理教
    里親特有の,里親養育の〈宗教的文脈〉が要因となっていることが明らかとなった.
     こうした,里親を意味付ける〈宗教的文脈〉の枠組みは,今後の里親研究において/福祉研究において重要となるだろう.
  • *松浦 誠
    日本地理学会発表要旨集
    2018年 2018s 巻 825
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/06/27
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究目的
     奈良県天理市は,
    天理教
    の本部が所在し,市域には数多くの
    天理教
    施設が立地する。そのため,天理市は日本を代表する宗教都市であるとされる。天理市の都市形態や
    天理教
    景観については多くの先行研究がある。西田(1955)は,宗教都市のモデルケースとして市制直後の天理市の都市計画について分析を行った。研究のなかで地形図を用いて都市の拡大の様子を明らかにするとともに,詰所にも着目し,その件数と収容可能人数の増加を示した。シュヴィント(1978)は,天理市を紹介するなかで
    天理教
    信徒の様子や教団施設,中心商店街の特色について論じている。桑原(1970)は天理市と
    天理教
    の関係性に着目するなかで,明治後半に三島の市街地化が急速に進んだ一方で旧市街の丹波市の成長が止まっていることや,詰所が教会本部から周囲に移動していることを地籍図から明らかにした。また,商店街の業種調査から門前町の特色を確認し,旅館がほとんど存在しないがゆえに詰所の機能が徹底していることを裏付けた。浮田(1975)は奈良県内の他都市と比較することで,天理市の特色を確認した。
     上記の先行研究では,主に天理市の宗教都市としての特徴について論文執筆当時の状況をもとに明らかにしている。都市の形成過程について触れたものもあるが,
    天理教
    施設の分布から都市の形態に着目するにとどまり,その景観的特徴の変遷については明らかにされていない。一方,建築学においては,五十嵐(2007)が
    天理教
    建築の変遷や様式の特徴について論じ,
    天理教
    建築は入母屋屋根・千鳥破風という様式であり,大正期に建築された神殿のデザインを模倣し,現在まで取り入れられていることを明らかにした。
     本研究では、
    天理教
    関連施設の立地展開を含めて,
    天理教
    景観の変遷を明らかにすることを目的とする。対象とする期間は大正期から昭和30年代とする。期間の設定理由は資料的制約もあるが,最初期の
    天理教
    主要施設の建設が終了した時期からおやさとやかた建設期までを含んでおり,当初の景観から現在の様式の景観が成立するまでの変遷を追うためである。なお,
    天理教
    景観とは,①信仰にかかわる施設②教団運営にかかわる施設③信者の子弟の教育施設④信者等の宿泊施設によって構成された景観と定義し,位置を含めて考察する。

    2.研究資料
     大正期から昭和戦前期までの
    天理教
    施設の分布と景観を分析する資料として,
    天理教
    道友社編輯部編『
    天理教
    地場案内』1921,
    天理教
    綱要編纂委員会編『
    天理教
    綱要』1929-1931,1933-1934,
    天理教
    教庁総務部調査課編『
    天理教
    職員録』1936に掲載された
    天理教
    本部周辺の案内図と中川東雲館『
    天理教
    写真帖』1915の写真を用いる。また,
    天理教
    施設のなかでも信徒等の宿泊施設である詰所に着目し,景観的特徴について「天理市都市計画図1/3,000(1953年1月測図,1962年3月修正)」や二代真柱・中山正善の講話をもとに明らかにする。

    3.結果と考察
     
    天理教
    景観は,大正期から昭和戦前期にかけて,信仰にかかわる施設や教団運営施設が神苑及びその周囲に位置し,それらを取り囲むように詰所が立地,教育施設が外延部に位置するという形態であった。そして,
    天理教
    施設のなかでも特に詰所の分布が教会本部から離れる形で広がったことにより,
    天理教
    景観も拡大した。また,詰所は囲いや広い敷地など,一般の民家とは異なる特徴をもっていた。しかし,詰所の建物に関する基準はなく,本来は統一性がなかったが,現在はおやさとやかたに用いられている屋根様式を取り入れることで,特徴的な
    天理教
    景観を構成している。
     詳細は,発表で報告する。
  • 奈良県天理市を事例に
    堀 裕貴, 岡 絵理子
    日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集
    2020年 18 巻 25-28
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/07/25
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本研究で取り上げる奈良県天理市は、
    天理教
    教会本部が置かれていることから宗教都市として広く知られている。
    天理教
    の教勢拡大と共に都市形成がなされてきた天理市は、都市政策においても
    天理教
    と協働し個性ある都市づくりを展開してきた。また
    天理教信者ではない天理市民の暮らしは天理教
    とは交わることなく展開されている。しかし今後の持続可能な天理市を考える上では、
    天理教
    によって生まれた独自の文化を活かした新しい暮らしの在り方を考える必要がある。本研究では
    天理教
    信者の街中での消費行動を明らかにし、信者の行動に伴って生まれた宗教関連商店の文化的価値を見出す事を目的とする。つまり
    天理教
    によって生まれた独自の地域資源や潜在価値を多視点から捉え、今後の天理市の都市づくりへの示唆を得ることを目指す。
  • −大教会を事例として−
    𠮷川 彰布
    日本建築学会技術報告集
    2019年 25 巻 60 号 971-975
    発行日: 2019/06/20
    公開日: 2019/06/20
    ジャーナル フリー

    The centrality of Tenrikyo and its axial position relative to the urban grid is a unique feature to distinguish Tenrikyo churches from other religious structures in the country. This was not a code originally demanded by the headquarters, but was later insisted in 1934, nearly 100 years after the inception of this religion. Through this research, the process of this code along with the actual implementation was found using the examples of all 159 Grand Churches across the country.

  • 『道乃友』、「本教における建築と服装」の検証
    吉川 彰布
    日本建築学会計画系論文集
    2020年 85 巻 767 号 141-150
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/01/30
    ジャーナル フリー

     Masuno Kosetsu was a prominent figure in Tenrikyo becoming the Shikishima Grand Church head in his late 20’s, and the president of the company publishing the periodical, Michinotomo, where he edited and also contributed an article “Architecture and Clothing in our Religion” in its 1925 May edition. This article retains a vital role in understanding the architectural intent and thoughts of the Tenrikyo at the time being one of the oldest written disquisition about the architectural aspects of the religion. Here, Masuno categorizes the features and characteristics of the Tenrikyo architecture into five periods, each a decade long, starting in 1888 when the buildings for the regional churches began.

     In what Masuno defined as the first period from 1888 to 1897, he defines the regional churches built during this period to be the origins of Tenrikyo church designs. Analyzing the constructed churches in those periods, the features he did not describe revealed a style. Common features consist of a wood constructed single storied ceramic tile covered hipped roof with an entrance at the front with space extending further to the back. The similar architectural features among these first generation churches suggest some discussion took place within the followers to create a standard style for the church when it did not have one to follow. Masuno considers the churches from the first period to be “dark and fragile, ” and praises the architectural development of the churches from the second period of 1898 to 1907, to “give the impression of cheerful and glorious.” As the religion grew, the need for a larger building to house the followers pressed the development of the church constructed during this period to become larger. Churches in this period although still single storied, consist of double layered roof raising the ceiling height resulting in a more airy and brighter atmosphere inside relative to the first generation of churches leading to the before mentioned impression Masuno have had. The third period 1908 to 1917 was what Masuno called it as "a stale period" with no particular development to found in his view. It was a period when the colossal construction was taking place at the Tenrikyo headquarters. The completion of the headquarter buildings provided a new reference for the regional churches to follow. Masuno describes the fourth period of 1918 to 1925 as a period when "focus was placed into the regional dioceses." In numbers constructed, the third period has built more. However, those dioceses were mostly converted buildings. As such, Masuno's assessment is correct where all of the nine constructed dioceses was explicitly designed and built for this purpose including the Nara diocese where Masuno was the head then. The fifth period is the period after the published article. Masuno predicts several new churches constructed including those rebuilding after The Great Kanto Earthquake such as Azuma, the first concrete church completed in 1931. In the same year, Tohon church also completed reconstructing their church using a steel-framed concrete system. The use of new construction material reveals their concerns towards fires. This period was also the time wood constructed churches were at their peak in scale and glamour in the likes of Koriyama, Koga, Heishin, and Shikishima; the church Masuno was the head of until his early death in 1928. These churches were similar in size as the headquarter building, and in some cases more glamorous in its ornamentation.

     Further analyzing the built churches of the periods Masuno defined in his article confirms his assessment and revealed the architectural origins, trends, and shifts in regional churches and dioceses of Tenrikyo at the time.

  • ー 天理教里親を事例に ー
    桑畑 洋一郎
    西日本社会学会年報
    2024年 22 巻 25-39
    発行日: 2024年
    公開日: 2025/04/17
    ジャーナル フリー

    本稿は、

    天理教を信仰しながら里親養育を実践している天理教
    里親に注目し、第1に
    天理教
    里親がどのような里親養育を実践しているのか、第2にそうした実践がどのように信仰と関連付けられているのか/いないのか、第3にそうした実践がどのような帰結を導きうるのか、インタビュー調査から得られたデータへの分析を元に考察するものである。

    結果、

    天理教
    里親は、里親受託の判断における無限定性、里親養育の時間的な無限定性、支援対象の無限定性といった特有の無限定性を有しながら里親養育を実践していることが明らかとなった。また、そうした特有の里親養育実践は、「いんねん」をはじめとした
    天理教
    の教義に基づいて展開されていることも析出された。

    天理教
    里親の里親養育が実践されることにより、里子とその周辺にいる人々といった相対的に狭い範囲においても、里親養育がなされる場を抱える地域社会においても、支援の網が強化され、困難な状況に置かれた人々がそこに(再)包摂されていくことが本稿から見えてきた。また加えて、
    天理教
    里親等信仰と福祉的実践がいかに結びついておりそれがどのような帰結を導くのか、個々の実践に根差しながら分析を行っていく重要性もまた、本稿を通して示唆された。

  • ―ブラジル北東部における天理教を事例に―
    山田 政信
    ラテンアメリカ研究年報
    1999年 19 巻 29-55
    発行日: 1999年
    公開日: 2022/05/18
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 黄 智慧, 宮永 國子
    民族學研究
    1989年 54 巻 3 号 292-309
    発行日: 1989/12/30
    公開日: 2018/03/27
    ジャーナル フリー
    本稿は
    天理教
    の台湾における布教とその受容過程を分析対象とする。それは近代日本と外なる世界との接触の一環をなしている。まず教義面においては、
    天理教
    は世界宗教への志向を内面に備えていた。ところが台湾進出という宗教行動を促した政治・社会的要因を検討していく中で、日本人による布教と台湾人信者の受入れかたが注目される。特に戦後一時的に日本人布教師が引揚げた間に台湾人信者によって守られた信仰の形態が、どのように変化したかは興味深い問題である。
    天理教
    は戦後、神名や参拝の対象や儀式を変えることによって台湾の民間信仰と結合していたことが調査によって明らかとなった。しかし、その後再び台湾進出をめざす
    天理教
    は、台湾の民間信仰に同化されてしまう危機を覚えて民間信仰の要素を排除しようとしている。以下では、宗教的権威の問題も絡めつつ、他者との差異と同一性をいかに克服するかに焦点をあてて記述を展開していく。
  • 新宗教都市天理を対象として
    町田 匠人, 真野 洋介
    都市計画論文集
    2020年 55 巻 3 号 1310-1317
    発行日: 2020/10/25
    公開日: 2020/10/25
    ジャーナル フリー

    本研究では新宗教に根ざした都市として天理を取り上げ、天理の都市の誕生から現在までの一連の中心市街地の変容を明らかにすることを目的としている。信者数や宗教施設の建設数など定量的な

    天理教
    の教勢の変化は、第二次世界大戦やオウム真理教地下鉄サリン事件などの出来事を境に3つの時期に区分されるが、天理の中心市街地の変容もそれらの時期区分毎に特性が異なるため、本研究では天理の都市の誕生から戦前までを第一期 : 「信者過多期」、戦後から1980年頃までを第二期 : 「都市発展期」、1990年頃から現在までを第三期 : 「教勢衰退期」と定義して、教勢の変化と新宗教都市の変容との関係性を考察している。また、統計資料や地図等の定量的な分析に加えて、商店街歩行者、商店主、宿泊施設経営者等様々な主体に対するヒアリング調査を行うことで、宗教都市の変容を多視点から考察している。結果として、天理の中心市街地は
    天理教
    の教勢に牽引されて発展し、
    天理教
    の信者も非信者も利用する都市へと発達したことが明らかになった。また近年では
    天理教
    の教勢の衰退に伴って宗教に依存するだけの産業は衰退傾向にあることも明らかとなった。

  • 岡尾 将秀
    宗教と社会
    2017年 23 巻 157-160
    発行日: 2017/06/03
    公開日: 2019/05/31
    ジャーナル フリー
  • *松浦 誠
    日本地理学会発表要旨集
    2016年 2016a 巻 217
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    参詣は交通や都市計画,経済などと密接に関係しており,地理学においても重要な研究対象となっている。日本の伝統的な社寺参詣に関しては特にルートが注目され,田中(1987)や,小野寺(1990),小田(2007)などによって研究されてきた。その結果,交通機関の近代化に伴い,より利便性の高い手段を利用するように参詣ルートが変化した点や,参詣の前後に観光目的の社寺名所旧跡巡りが行われていた点が明らかになった。
    一方,新宗教の参詣については,地理学以外の学問分野を含めても、ほとんど研究が行われていない。近世末期以降に新宗教が成立すると,それまで特別な往来がなかった地域へ多数の参詣者が流入し,それに伴って交通網の整備や都市機能の変革がもたらされた。新宗教の勢いが衰えたと言われる現在でも,大規模な参詣が定期的に行われ,教団本部や参詣途中の経由地,交通機関に影響を及ぼしている。よって,新宗教の集団参詣は,関連する地域への影響が多大な事柄であり,地理学的に研究すべき重要な課題である。この問題関心から,松浦(2016)では戦後の
    天理教
    信者による団体参詣(以下,団参とする)の変遷と,教会による団参の事例を明らかにした。  
    2.研究目的
    本研究では,松浦(2016)で扱わなかった明治期から昭和戦前期までを対象とする。この期間は,
    天理教
    の教団形成から一派独立,教勢拡大期にあたる時期である。天理への団参が成立・慣例化する過程を明らかにし,聖地・地場や参詣に対する
    天理教
    信者の意識の変化と本部からの働きかけについて考察することを目的とする。また,教会間の縦のつながりが重視されていた
    天理教
    において,都道府県単位の教務支庁が設置された経緯と,設置による参詣行動やその他の宗教活動への影響を明らかにする。  
    3.研究方法
    はじめに,明治24(1891)年創刊の
    天理教
    の広報誌「道の友」と昭和5(1930)年創刊の「天理時報」に掲載されている団参の報告・募集記事から,各時代の団参の傾向と団参に対する
    天理教
    本部の働きかけを明らかにする。
    次に,対象期間内の各教会の日誌や教報誌,団参記念の写真帳などから,団参の旅程や実施時期,参加人数,参加者の性別や年齢の傾向など,団参の実態を明らかにする。また,団参及び地場に対する教会,信者の意識を考察する。これらの史料は教会ごとに作成状況や残存状況が異なる。今回は入手できた益津大教会(静岡県),東大教会(東京都),新潟県内の湖東大教会部属教会及び新潟教務支庁と各教会の上部教会の史料を利用した。特に,新潟県内の湖東大教会部属教会と新潟教務支庁の史料からは,
    天理教
    における地域意識の形成過程と要因,地方居住者の移動行動への影響を考察する。
     4.まとめ
    天理教
    における団参は,教団本部の教会施設建設のための労働力確保という俗的要因と大規模分教会による教勢拡大の報告という信仰的要因から生じた。そして,昭和11(1936)年の教祖50年祭に伴う別席の聴講及び授訓の活発化と普請の労働力確保という本部の思惑から,これまで容易に参詣を行なえなかった遠方の小規模団体を本部へ集めるため,教務支庁に輸送機能を付与した。また,新潟県教務支庁による団参には,オプショナルツアー形式の観光が含まれ,これには鉄道会社が影響を与えていると考えられる。 詳細は,発表で報告する。
  • その問題点と市町村合併史上の意味
    クラーマー スベン
    史学雑誌
    2017年 126 巻 8 号 54-76
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    1953年10月から実施された「昭和の大合併」は日本の第2次大規模市町村合併政策である。それは各都道府県の市町村を対象にし、市町村の数を3分の1に減らすという目標で実施された。主な目的は戦後の地方行政団体(兼自治体)の財政危機の解決だとされている。この「昭和の大合併」において以前には存在していなかった新しい市が数多く誕生した。その中では奈良県天理市が注目すべき事例である。
    天理市は1954年4月1日に発足した。その前身町村は山辺郡丹波市町、同郡二階堂村、同郡朝和村、同郡福住村、磯城郡柳本町、添上郡櫟本町である。「天理」という市名の由来は新宗教団体の
    天理教
    である。
    天理教
    は1838年に発祥し、その本部は教祖中山みきの故郷である丹波市町の三島地区にある。
    天理教
    は19世紀末から丹波市町の発展に貢献し、
    天理教
    の巡礼などが町の経済発展を支えてきた。「昭和の大合併」の際、新市を
    天理教
    にちなもうとしたのである。
    『改訂天理市史』は天理市を誕生させた合併について詳しく説明せず、問題点がなかったかのように協議の要点と市の発足だけ述べている。しかし、現地の行政資料と新聞記事を確認すると、天理市の発足を危うくするほどの問題点があったことが分かる。具体的には二階堂村と櫟本町が一時的に天理市合併に参加しない方針を示し、さらに「天理市」という名称を採用するために
    天理教
    の許可が必要であったが、合併協議会の議論でこの許可が下りるかについては、確実ではなかった。本論は以上の問題点とその解決を説明した上、
    天理教
    の役割について検討し、「昭和の大合併」中の天理市合併の意味について考察する。先行研究において宗教は合併に対して大きな要因として扱われていないが、天理市の事例が示すよう、場合によって宗教が重要な役割を果たせる。
  • 韓国天理教の「3世信者」に注目して
    李 賢京
    現代社会学研究
    2010年 23 巻 77-99
    発行日: 2010/06/16
    公開日: 2013/02/28
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は,海外における日系新宗教信者の信仰深化過程を考察することである。多くの先行研究では,日系移民社会内における日系人の信仰継承が注目されてきた。だが,本稿では,日系移民社会内ではなく,過去に日本によって植民地支配された韓国における,韓国人信者の信仰継承に焦点を当てる。
     第2次世界大戦後,多くの日本の宗教教団は朝鮮半島から撤退していったが,
    天理教
    は韓国人信者たちによって存続され,現在まで受け継がれている。本稿では,
    天理教
    の「3世信者」のライフヒストリーに基づき,彼らの信仰における深化過程を明らかにした。特に本稿では,「日常」あるいは「非日常」における「教団内他者」・「教団外他者」との関わり・相互行為・相互活動が,「3世信者」の信仰に,どのような影響を与えているのかについて分析し,韓国に特徴的な日系新宗教信者の信仰深化過程を明らかにした。
     韓国
    天理教
    の「3世信者」における信仰の深化過程への考察から,以下の2点の知見が得られた。⑴韓国は日本植民地経験に起因する反日感情が強く(反日感情を現しているのが日系宗教に対する「似而非宗教」「倭色宗教」という呼称である),そうした感情を持つ「教団外他者」は,「3世信者」の信仰生活の「弱化」に強く影響を与えていた。⑵「教団内他者」である同輩の信者と,親の寛容な宗教教育態度は,「3世信者」の信仰の維持および深化に影響を与えていた。
  • 永岡 崇
    宗教研究
    2008年 82 巻 1 号 143-166
    発行日: 2008/06/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    天理教
    をめぐる従来の歴史的研究では、一八八七年に教祖の中山みきが"現身を隠す″と、親神への信仰によって結びつけられた共同体は合法的な宗教活動の道を探り、その過程で、国家権力への妥協・迎合が露骨に行われるようになったといわれてきた。こうした見方は一面では正しいが、国家協力の事例が強調される一方で、そうしたものの基盤となる、日常的な信仰の営みが見過ごされてきたのではないだろうか。本稿は、みきに代わって親神のことば=「おさしづ」を語り、信徒たちを指導した本席・飯降伊蔵を取り上げ、彼が「おさしづ」を語るにいたるプロセスを跡づけるとともに、信徒たちに注視される彼の心身や語りがどのように共同体を再構築し、信仰を再生産していったのかを明らかにする。伊蔵の「おさしづ」は、親神の意思として観念的に認められただけではなく伊蔵の身ぶりや声、病、語りのことば遣いなどが絶えずみきの記憶を喚起し、さらにそれらを変化させながら信徒たちの信仰を獲得していったのである。
  • 幡鎌 一弘
    宗教と社会
    2015年 21 巻 162-163
    発行日: 2015/06/13
    公開日: 2018/05/31
    ジャーナル フリー
  • 岡尾 将秀
    宗教と社会
    2006年 12 巻 132-137
    発行日: 2006/06/03
    公開日: 2017/07/18
    ジャーナル フリー
  • 南 椿模
    宗教と社会
    2005年 11 巻 194-198
    発行日: 2005/06/11
    公開日: 2017/07/18
    ジャーナル フリー
  • 村上 英雄
    地理学評論
    1935年 11 巻 5 号 418-436
    発行日: 1935/05/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 石坂 愛
    E-journal GEO
    2016年 11 巻 1 号 299-315
    発行日: 2016/09/30
    公開日: 2016/10/11
    ジャーナル フリー

    本研究では,都市化と宗教弾圧の歴史の中で発展した新宗教の聖地における教団と地域住民間の土地をめぐる葛藤の実態とその要因を明らかにすることを目的とする.研究方法として,奈良県天理市において進められる

    天理教
    教会本部の宗教都市構想の基盤となる八町四方構想に着目し,その計画地をめぐる地域住民と教団の交渉過程と,構想に対する地域住民の意識を追った.その結果,調査対象者の地域住民のうち約90%が
    天理教
    信者であるにも関わらず,約45%がこの構想に葛藤を抱いていることがわかった.その要因として,①教団の持つ宗教的イデオロギーと自身の考える教理の不一致があることがわかった.その他の要因として,②地域住民内部での八町四方構想に関する知識共有の薄弱化③教団と土地所有者のみで取り行われる土地・建物の譲渡交渉が考えられる.

  • 井上 昭洋
    宗教と社会
    2015年 21 巻 171-173
    発行日: 2015/06/13
    公開日: 2018/05/31
    ジャーナル フリー
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